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[Web Log] / 07/15 9:44


結果がどう出るのか、とても微妙な段階でこれを書いているので何とも言えないが、またひとり友達が小説家になっちゃったことは確かだ。
というのも、前回のコラムで登場した山下澄人がこの夏の芥川賞候補者になったからである。このコラムは7月15日ころに掲載されるだろう。
一方、芥川賞の発表は7月17日なので、すれすれで結果は分からない(笑)。
僕としては山下君が芥川賞をとってもとらなくてもどっちでもいいのだが、いやそれはとったら凄くめでたいし嬉しいけれど、基本的に僕は山下君に小説家になって欲しいわけじゃなく、劇作家として優れているので、彼の主宰するFICTIONの芝居が更に面白くなればいいなと、正直なところそう願っている。
まさかそんなことはないとは思うが、今後は小説一本に絞る! とか言われたらものすごくつまらないし悲しい。

かつてイソケンこと磯崎憲一郎が芥川賞をとった時は、素直に嬉しかった。
保坂和志と11年前にホームページを始めた時に、「そのうちこのHPの読者からひとりでもプロの小説家が出るといいね」と話していたので、一読者であったイソケンが、プロどころか芥川賞までとるとはある意味でき過ぎの感があった。
イソケンはある日突然小説家になったが、サラリーマンをたぶん辞めないだろうし、当分の間は専業の小説家にはならないだろう。そう予測し、事実その通りの道を歩んでいるわけだが、それはそれですごいことでもある。

山下君にも是非ともそのスタンスでやって欲しい。
芝居作りが主体で小説は余興(笑)。
こんなこと言うと誰かから「小説をなめんなよ」と叱られそうだけれど、その形態がなんであれ、僕の脳をかき回してしてくれるものなら何でもよいのだ。そう、かき回してくれなきゃいけない。
そうじゃなく、頭の中にスコーン!と入って来るものは、感心したり腑に落ちたりするだけで、結局のところ面白くもなんともない。
僕にとって面白いと感ずるものは、決して腑に落ちたりしないものと相場が決まっている。なんだなんだ、どうなってるんだ? と困惑させられることこそが快感で、かと言って訳の分からないものなら何でもいいっていうわけじゃないので、そのへんが微妙で難しい。難しいけれど、それは僕の脳の嗅覚が自動的に判断することになっていて、何だよ単に訳の分からないだけのものか、とか、いやいやこれはものすごく興味をひく訳の分からなさだぞ、とか、ほとんど僕のわがままで決まる。
その点、山下君の創造するものは後者のほうで、それが世間の評価と一致しようとしまいとそんなことは構いやしない、僕は楽しめる。

ところで僕はまず小説というものを読まない。
たぶんここ三十年くらいはほとんど言っていいほど読んでいない。
今回山下君の「緑のさる」という小説を読んだのは、読んで感想を言うという彼との約束があったからで、たぶん保坂が芥川賞をとった「この人の閾」を読んで以来、17年ぶりに読了した小説ということになる。
保坂は芥川賞受賞以降何編も小説を発表しているわけだけれど、僕は一冊も読んでいない。「季節の記憶」では僕がモデルの一部として登場しているけれど、それさえも読んでいない。いや、正確にいうと、読んでいないけれど、半分くらいは読み聞かせしてもらって音読として読んだ?ということになる。
誤解を避けるためにもはっきりさせておくけれど、別に保坂の小説がつまらなそうだから読まない、というわけではない。
小説を読むことにたぶん僕が向いていない(笑)。
それでいいのだ。保坂和志という人物そのものが僕にとって面白いのだから。
強いて小説とは何かと問われれば、「長い例え話」と、僕はいつも答える。
僕にとって小説とは結局のところそういうものなのだ。
小説とは作家のヨタ話し、というと実もフタもないけれど、言い方を換えれば、作者が考えていることを小説という架空の世界を構築することによって表現するもの。
だったら、小説を読むという手間のかかることをしないで、本人と面と向かって、比喩とか暗喩とか抜きで、その例えの元となる「考えていること」を直接聞くほうが面倒臭くないし楽しい。

というわけで、今回、芥川賞候補作となった文学界6月号掲載「ギッちょん」という山下君の小説も僕は読んでいない。
読んでいなくてもだいたい分かる。
小説の内容が分かるのではなく、山下澄人という人物が作り出す世界観が分かっているという意味だ。
これまでに山下君と何度も色々なことについて話しをし、FICTIONの芝居をいくつか観、前作の小説「緑のさる」を読んだことで、それはすっかり僕のお気に入りとなって、たぶん彼が作り出すものはなんでも面白いと確信している。
ちなみに、「緑のさる」の感想は「いつもの山下君」でよし!

山下君が芥川賞をとってもとれなくても、僕は彼を「唯我式芥川賞作家」と呼ぶことにする、と本人に伝えた。
というのも、前回のコラムで書いた若くして亡くなったY君こと井上唯我君。
彼は、長きに渡って山下君と一緒に舞台を作り上げてきたFICTIONの中心人物であり、おそらく山下君とは一番近しい他人という関係にあった。
そして唯我は、山下君が芥川賞候補になったことを亡くなる寸前の病床で知らされ、「絶対とれますって!」と確信し、それはそれは大喜びしたというが、悲しいかなその結果を知る前にあの世に行ってしまった。
だから、現実としてもし山下君が選に漏れたとしても、唯我的には山下澄人はすでに芥川賞作家なのである。
僕がこの話しを保坂にしたら、彼は「じゃ僕は、賞をとったとしてもやっぱり山下君を唯我式芥川賞作家と呼ぶことにする」と言った(笑)。
これで、どっちにしても山下澄人は「唯我式芥川賞作家」になった。
おめでとう!!


高瀬がぶん

[Web Log] / 07/01 12:11

たま~に「死」について考えることがある。
これがたまにじゃなくいつも考えたり悩んだりしてる人は、すでに心の病にかかっている可能性があるので注意が必要だけれど、たまに死について考えたりするのは極めて健全なことで、たぶん身体にもよい。「死」を考えることでわき起こる恐怖心は、それが適度であれば身の安全を確保するためのアプローチに多いに役立つからだ。

作家保坂和志はここのところ「人は死なない」ということを言い続けていて、「そう言っていた荒川修作は死んじゃったけどさ(半笑い)」と前置きをした上で、「人は死なない」ことについて熱く語る。
言い方は逆だけれど、「死なない」ことについて考えるということはすなわち「死」について考えることと同じなわけで、そんなことばっかり考えていたり悩んでいたりする、というのも普通の人なら危ない。
でも保坂和志は作家だから、そんなことで悩むことが日常の仕事になっている。言わばビジネス悩み(笑)なので全然危なくはない。
保坂がどういう意味で「人は死なない」と言っているのかを勝手に解説すると「そんなこと言ってるんじゃないよ~」と文句を言われかねないので控えるが、少なくともこう言う意味のことは言っている。
「人が生まれる前と死んだあとは『無』である、というのは、近代思想が産んだひとつの考え方に過ぎないわけで、もしかしたら違うんじゃないか? と考えている」。
加えて、「これは、例えば作家が作品を書けば死後もその作品は残っていて、その作品の中に作家は生き続けている、というような情緒的な意味で言っているのではない」と。

世界には人がまったく死なない宗教だってたくさんあるだろう。また、死んでも復活!や、肉体的な死をものともしない宗教もその仲間に入れれば、ほとんどの宗教が「人は死なない」みたいなことを言っているのではないかと思う。
そこで、宗教だからアテにならない、という言い分が通用するかと思えば、案外そうでもない。ひょっとして僕(僕ら)は、合理主義を教義とする「科学教」に帰依した信者の一人に過ぎないかもしれないからだ。

僕が最近「死」について考えたのは、友人Y君の死に接したからだ。彼は先月(6月11日)、35歳という若さで病に倒れこの世を去った。通夜から告別式にかけて斎場で一泊しながら、夜中に何度か棺の中に横たわっている彼の顔を眺めに行くのだが、その度に「本当にY君は死んじゃったんだろうか、うん、確かに死んじゃってるなぁ」と痛感させられた。
この際、「人は死なない」なんてのんきなこと言ってる場合じゃない。やっぱりY君の亡骸を目の前にすると圧倒的な現実感を伴って「人の死」を受け入れさせられる。
このことを告別式の時に保坂にも言ったが、彼は「うん」とだけ答えた。

Y君が都内の病院のベットで臨終を迎える数時間前、山下澄人というY君の兄貴みたいな存在の男が傍らにいた。その山下君、Y君の命が今にも終りを告げるだろうことを知らされて、果たして間に合うかどうか、という微妙なタイミングで札幌から駆けつけていたのだ。
この山下君に会いたい、というのがY君の「死ぬまでにしたいひとつのこと」であって、山下君が現れるまでの間、意識を保つためにモルヒネの量を調整していたという。そして実際に会った時には、Y君はすでに声を発することができる状態ではなかったというが、それでも目で会話することはできたと、後に山下君は語っていた。
そして、その面談の後、モルヒネ投与を増やし、昏睡状態に陥り、二時間ほど後に息を引き取った。

僕はここで「人は死なない」ということを、別の解釈をもって肯定することになる。
山下君が病院に到着する数時間前、Y君が発した人生最後の言葉は、「オレ死ぬの?」だったそうで、それは、そういう場面が近づいたことを感じさせる人物の言動などから察したことで、Y君は自分が本当に死ぬなんて思っていなかった、という反応であった。
いや言い方が不正確だ。Y君は自分が重篤な状態でそんなに長く生きられないことは知っていた。つまり、自分が「死」に近づいていることを知っていた。
「でも、それは今じゃない」という思いが常にあった。
思えばこれは、とりあえず無難に生きている僕らでも事情はほとんど同じである。
人はいつか必ず死ぬ、「でも、それは今じゃない」。
いつかどころか、突然事故に遭うとか、原因不明の突然死などであっという間に死んでしまう可能性だって十分に考えられる。でもやっぱり「それは今じゃない」という感覚がある。根拠なんかはない。ただ、人はそう考えるようにできている。
人生の残りの時間がどれくらいあるか、という現実的な余命の時間の長短に関わらず、人はいつでも自分の死について、「それは今じゃない」と考えているのではないか。死の一秒前であっても、0.5秒前であっても、「それは今じゃない」と。
そういう意味で、いつまでたっても「人は死なない」。
いや厳密に言うとそうではない。
傍観者として眺めている分には「人は死ぬ」。
でも、自分がその当事者であった場合、「私は死なない」。

かつて山下君が「群像」に発表した小説の中に、ひとこと「高瀬さんはこう言うが、、、」みたいな表現が出て来る。たぶん否定的な意味で引用したんだと思うが、、、(笑)。
それは僕の口癖のようなもので、
「自らの死は、自分にまったく関係ないことのひとつだ」と。
それは、こういう意味だ。
死の直前までは、もちろん自分の死は最も関係が深い重要事項に違いないが、死そのものとなると話しは別。僕の死は僕以外のすべての関係者に様々な影響を与えるだろう。悲しまれたりを基本にひょっとして喜ばれたり(笑)。それだけじゃない。大げさでなく、僕という個体の死は、この世界そのものに、確実にある影響や変化を与える。僕が占めていた身体的空間は別の何かで埋まり、僕が吸って吐き出していた酸素や二酸化炭素の量だってほんの少しだけれど確実に変わる。
けれど、僕が死んだ途端、僕の死は僕自身に何ら影響や変化を与えることはなくなり、そこで関係は切れる。もう無関係なのだ。

それにしても人が死ぬとなぜこんなに悲しいのだろう。
「死」が特殊な状態じゃないことは知っている。
それどころか、この宇宙はほとんど「死」で満たされている。
言わば「死」こそ自然で普通の状態なのだ。
「生きている」ことこそ極めて稀で不自然な状態なのに、僕たちはなぜかうっかりしていて、「生きているのが当たり前」という錯覚の中で、いつも人や動物の「死」に泣かされる。


高瀬がぶん

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