現実(リアル)と現実感(リアリティ)。
面白いのは、時として現実を現実のまま表現すると却って現実感を損なうことがあることだ。

例えば、テレビのサスペンスドラマのラストシーン。
たいていそこは荒海に面した崖っぷちで、真犯人とかが崖から真っ逆さまに落ちて行く。
カメラは崖の高さがはっきりと分かるような引いた位置から落下者をとらえる。
そんな時の映像を見ると、
「なんだよ、手足の動きの無さ、あれじゃ人形落としたのが見え見えじゃないか、視聴者をなめんなよ、もっと予算かけろよ」
なんていう感想を抱いたりする。
これがハリウッド映画なんかだと、落下シーンはグッと豪華になる。
悪党のボスがラストに高層ビルの屋上から落ちるシーンでは、カメラは真上から俯瞰してとらえ、ボスは空をつかまんと手足をばたつかせ、カッと目は見開き断末魔の叫びをあげながら落ちて行く。
たぶん、そういう映像を見慣れているせいだろうけれど、日本のテレビドラマの安っぽい落下シーンのリアリティの無さにげんなりしてしまうのだが、、、。

けれど、それは大きな間違いであった。
9.11のニュース映像などがそれをよく表している。
逃げ場を失い世界貿易センターの数十階の窓から次々飛び降りる人々、、、見るとほとんどの人が手足をばたつかせることなく人形のように落ちて行く。
そう、それが現実(リアル)なのである。
ものの本によれば、高所から落下死するほとんどの人は落下直後に失神してしまうからだという。
失神してしまえば、なるほど全身の筋肉は弛緩し手足はぷらぷらと、まるで人形のように落ちて行くわけだ。
僕の勝手な思い込みだが、それは人間の防御本能のなせる業ではなかろうかと。
落下する時点で事態はほぼ絶望的で、数秒後には確実に自らの死を迎えることになる。
そのことを承知で、最期の最期まで正気を保つのはあまりに酷である。
地面なり海面なりに激突する恐怖やその時の肉体的苦痛を考えるならば、この際、その前に失神してしまう方が色んな意味で合理的ではないかと思われるからだ。
一方同じ落下でも、スカイダイビングやバンジージャンプのケースでは、事態はまったく逆になる。
中には失神する人もいるかもしれないが、基本的にスカイダイビングやバンジージャンプの場合は生還することが前提で、自身もそのことを承知している。
だから、防御本能の観点から言えば、「こんな時に失神してる場合じゃないぞ!」ということになるだろう。
気持ちが生に向かっているのか、それとも死に向かっているのかでは大いに違う、とそう思う。

ところで、ハリウッド映画はなぜあのようなウソを描くのか。
それは、現実はどうあれ、あのようにわーわーぎゃーぎゃーわめきながら落ちて行くほうがリアリティが増すと判断するからで、実際、それを見る観客たちもその方がリアルであると感じるからである。
いずれにせよ、ハリウッドの映画制作者や日本のTVドラマ制作者が、現実に落下者がどのような落ち方をするかについて深く考えているとは思えないが(笑)。

現実(リアル)そのものではなく、現実からちょいと超越?逸脱?した表現で、より現実らしさ(リアリティ)を感じさせる。
こうした手法は絵画のシュール・リアリズムにも通じるものだ。
シュール・リアリストとして名高いサルバドール・ダリの代表作「記憶の固執(別名=柔らかい時計)」は特に有名だろう。
あの絵画を見てシュールだと感じるのは、なにも「硬い時計がぐにゃぐにゃひん曲がってるなんて何かおかしい」という単純な理由からだけではない。
その奥にあるのは「時計=時間そのもの」についての洞察である。
「ぐにゃぐにゃとひん曲がる時間?」、この奇妙な感じ、、、。
一般的に言って、時間というものは硬直したもの、直線的で一方向に一様の速度で流れていると考えられている。
そう考えるからこそ奇妙な感覚を覚えるのではないだろうか。
常識的に考えればみなこう思う。
君の時計が一時間進めば僕の時計も一時間進む。
ひいては、誰の時計だって同じように一時間は一時間、同じように進む、、、と。
しかし、そんな常識は100年も前にアインシュタインによって覆されている。
アインシュタインが1915年に発表した一般相対性理論の中で提唱した「時間」というものは、それぞれの物質(人間も含む)の運動状態(重力)によって進み方が変化する、というものだった。
そして、後年に行われたいくつかの実験によって、それが科学的真実であることが証明された。
平たく言えば「地球でじっとしているアナタの時計が一時間進んだとしても、準光速のロケットに乗っている私の時計は5分しか進まないよ」と言うような具合で、、、時間は硬直したものでは全然なくて、もっとフレキシブルなものである、ということを意味している。

その時間の概念は、まさにダリの描いた「柔らかい時計」そのものである。
アインシュタインの理論が発表されたのは1915年、そしてダリがその作品を描いたのは1931年。
とすれば、ダリが科学に興味を持っていれば、とっくにその事実を知っていたはずだ。
しかし、ダリはその事については一切触れていない。
ダリはこの作品について、「カマンベールチーズを見て、、、スーパー・ソフトという哲学的問題について、長い間瞑想に耽った」と、なんかトンチンカンなことを述べるにとどまっているが、本当にそれだけで、科学的知識はなかったのだろうかと、それが今もって大いなる謎である。
ところで、このケースの場合はリアルとリアリティの逆転現象が起こっていると言えそうだ。
なぜなら、上述したように、ダリの「柔らかい時計」は時間のリアルな姿そのものを描いたと言えるわけで、そうなれば、シュール・リアリストというよりむしろリアリストと言った方が相応しいのではないかと思えるからだ。

 絵画絡みでもうひと話し。                              
ヘンリー・ダーガーは、「非現実の王国で」を膨大な量の挿絵と文章で一生をかけて、しかもこっそり描いたが、彼自身はとっくにその王国の住人であったろうと思われる。
彼が50年以上もの間、現実世界で黙々と病院の掃除夫をしている時は、彼にとってそれは仮の世界の出来事であり、部屋に戻って机に向かったとたん「カチンッ!」とスイッチが入って、自分が戻るべき「非現実の王国」という彼にとっての現実世界が全身を包み込む。
この際、彼に何らかの精神障害があったかどうかはさして問題ではなく、彼が感じるこの世界の価値観やリアリティは、こっちの現実世界ではなくそっちの非現実の世界の方にあった、、、と、そう考えてもいいのではないかと思う。
300枚の挿絵と15000ページの文章にも及ぶその超超大作を、本人はまったく発表するつもりがなかったというのも実に清々しい。
結果として他人によって世間に発表されてしまったが、もし誰も気付かずそのまま焼かれていたりしたら、、、いや実際彼がそう望んでいたという言質も残っているし、そういう彼の自己完結っぷりは実に見事というか、まさに尊敬に値するものだ。

ところで、非現実の王国に住む者は何もダーガーだけではない。
僕の父の晩年もまさにそうであった。
父は認知症が徐々に進み、現実と非現実の区別がつかなくなって、どんどん幸せ(本人にとって)になっていったと思う。
ある時の父との会話。
父「あわわわ、ちょっとお前わしの身体抑えてくれ!」
僕「どうしたの?」
父「身体が浮いちゃってちょっと気持ち悪いんだ」
僕「え~、そりゃ大変、何センチくらい浮いちゃってるの?」
父「十五センチくらい布団から浮いちゃってるわ」
僕「はい分かった、エイヤッ! これでいい?」
父「うん、悪いがしばらくそうやって抑えていてくれ。すぐに浮かなくなるから」
僕「はいよ、ところでオヤジ、最近どう? 元気?」
父「おう、まあまあだな」
僕「そういえば、昨日、田舎の○○おばちゃん(父の妹)から、あんちゃんは元気にしてるかって電話あったよ」
父「そうかそうか、元気だよーって伝えといてくれ」
僕「おばちゃんももういい歳だけど元気だよねー」
父「ははは、元気なのは○○だけじゃないぞ、おかげさまでわしの兄弟9人とも全員元気にやっとるわ」
僕「そうかそうか、そりゃよかった」

父の兄弟9人のうち生き残っているのは父とその○○おばちゃん二人だけだった。
先の戦争で男兄弟4人が亡くなったのを始め、兄や姉もやがて亡くなり、末っ子の○○おばちゃんとそのすぐ上の兄である父だけが残っていた、、、それが紛れもない現実。
でも、その現実にいったい何の意味があるのだろうか?
父が感じているリアリティは、兄弟9人全員が元気で暮らしている非現実の世界にあるのだ。
だから父の言う事を否定はしない。
リアルよりもリアリティのほうがずっと価値があるからだ。

人々が感じるリアリティの数だけ、この世界のリアルは存在する。
だから僕も自分のリアリティの世界に棲んでいる。
いわんや、羽虫だって羽虫のリアリティの世界に棲んでいる。
羽虫が部屋の中を飛んでいる時、その大気は、それはちょうど人が水をかき分けながら進む時のような抵抗と粘着を示すと言われている。
羽虫は大気のリアルをそうしたものと受け止めている。

それではここで問題です。
何かというと「リアル」という言葉を連発するのは誰でしょうか?
正解は出川哲朗、、、ではありません。
たぶんイラン国民です。
「リアル」というのはイランの通貨単位ですから(笑)。




高瀬がぶん