元旦、PCのモニターに2014年最初の蠅がとまった、、、。
??? ひょっとしてあれか、お前は2013年最期の蠅のやつ?
そうか、お前も年を越したんだな、だったら一応、明けましておめでとう。

1月4日、友人秀島実の舞踏公演「小父さんの直覚」を、鎌倉生涯学習センターに観に行く。
秀島さんは僕と同い年の64歳の舞踏家。
コンテンポラリーダンス? 暗黒舞踏? そう言ったジャンル分け自体に意味があるのかどうか分からない。
純粋に「身体表現」という言い方が一番いいのかも知れないと思う。
秀島さんの舞台を観に行くのはこれで三度目だが、僕は別に舞踏そのものが大好きなわけでもないし、舞踏に関する造詣もまるで深くない。
水に入ったらくるぶしが出てしまうほどの浅さ(笑)。
そんな秀島さんとは、七年ほど前に鎌倉大町にかつてあったコーヒーショップの常連客同士として知り合った。
普段の彼はアニエスb.の上着を羽織ったりしているオシャレなおじさんで、同い年ということもありすぐに仲良くなり、何度もその店で偶然出くわした。
そのうち、彼が舞踏家であるということを知り、僕でも知っている大野一雄の愛弟子であることを知って、ちょっと尊敬した(笑)。
大野一雄と言えば土方巽(たつみ)とコラボしたりして、それこそ日本に於ける新しい舞踏のかたちを作ったすごい人と言える。
加えて、2010年に103歳で亡くなるまで舞踏家としてほぼ現役で通したということも尊敬に値する。
秀島さんは80’〜90’年代に大野一雄が頻繁に行った欧州公演に同行し共演を果たしていたが、その後独立してからも海外での活動が中心の舞踏家であった。
しかし、たまたま鎌倉に住んでいるので、鎌倉市内でのミニ公演みたいなことを不定期に何度か行っているのだ。
というわけで、鎌倉で公演がある時は必ず観に行くということになったのだ。
最初に観たのは野外での舞台、たぶん2006年鎌倉浄智寺の境内で行われた集団舞踏、「匂イノ森ニ密メク」というやつだ。
なんと言ってもまず秀島さんのセンス溢れるこのタイトルが気に入った(笑)。
そして、設置された舞台そのものも、ちょうど鎌倉宮の境内で催される薪能を小ぶりにしたような感じで、周囲の雑木林がより一層妖し気な雰囲気を醸し出していた。
観客席は平地にひな壇を設けたもので、僕も最初はそこに座っていたのだが、あっ! と閃いたことがあって、途中で一人抜け出し、後方に広がる雑木林に入って行き、木や枝葉に視界を遮られながら、それらを押し広げて舞台を眺めるということをしてみた。
これが思いも寄らず効果的で実によかった。まさに「匂イノ森ニ密メク」というタイトルそのものの雰囲気で、見てはいけない秘儀をこっそりと覗き見るという感じ?(笑)。

嘗て、大野一雄の代表作とも言える「ラ・アルヘンチーナ頌」という舞踏の動画を見たことがある。
(ちなみに今でもYouTubeで見ることができる)
年老いた男が顔を白く塗りたくった上に女装をし、音楽に合わせて奇妙な動きで舞う。
それはたぶんYouTubeの一般視聴者のコメント欄にあるように、
「気持ちわりぃー、でもなんだかすげー!」
というものに違いなく、動作のいちいちに意味を求めることが無意味でバカらしいほどに、何がなんだかよく分からないのだが、とにかく心がざわつかずにはいられない、というものである。
心地よい不安定感、といったらいいのかも知れない。
これは逆に言うと、安定したものなんて面白くも何ともないということにも繋がる。
安定した技法によって創り出されるものは、それが文章にしろ絵画にしろ踊りにしろ工芸にしろ、すべて匠の世界のものであり、言い換えると、それらは自分の想像の範囲内で安心して見ていられるものであり、「よく出来てる」と感心こそすれ、ちっとも心がざわついたりはしない、だからつまらない。
少なくとも僕の場合はそうだ。
その点、「虚」を突かれるものや、自分の理解が及ばないものを目にすると、これは一体なんなんだろう? と、まず頭の中でぐるぐると思考が駆け巡るが、結局何だか分からないので、あとは思考停止して心と身体の自然な感性に任せるのみになる。
その時に、自分の内奥から何らかの反応が激しく湧き起こると、それが「感動」となって、先の「なんだかすげー!」ということになる(笑)。もちろん、感動の本質がなんであるかは相変わらずさっぱりなのだが、、、。

秀島さんはもちろん大野一雄の持ち味を踏襲していて、今回も前回もそうだが、上下スーツを着ているくせに、顔は白塗りで手にはダサい真っ赤なトートバッグを持っていたりして(笑)、その風体も動作もアンバランスこの上ない。
おそらく演者側には、顔を白塗りにすることや不釣り合いな小道具を持つことや奇妙な動きにも、それぞれちゃんとした理由があるのだろうけれど、それをいちいち説明するのは「このジョークが何で面白いのかというと、、、」と同じように、やっちゃいけないダメなことであって、すべては受け取り側の感受性に任せるということになるわけである。
さらに言えば、それらは演者自身でさえ説明できないものなのかもしれない、とも思う。
大野一雄は「魂に肉体がついていく」と言ったが、基本、すべてはおもむくままの即興なのだろう。
短絡して考えれば抽象画に近いものがあるけれど、何かを取捨選択した結果そういう表現になったと言えば、その過程には自ずと作為が入り込み、厳密な意味で「おもむくまま」とは言い難い。
ただ、ひょっとして、安定した姿勢とか所作というものは、秀島さんたちにとって禁じ手というか敢えて避けているものなのかもしれないと思う。
それとも、それらをあらかじめ決めているとかではなくて、魂の自然の叫びというものは、そもそも「安定」なんかを求めていない、ということになるのだろうか?
あっ、彼らの心は常に「特異点」に在るのかもしれない、、、、なんて。
ん〜、かなり哲学入って来てるんでまた今度(笑)。

今回の公演では、アベマリアの歌声をバックに女装して舞い、サックスの生演奏に合わせて踊ったりと、相変わらず訳の分からぬままに舞台は進行し、起承転結なんてあるわけもなく、いつしか終わっていた。
キャパ300程の超満員の客席からは鳴り止まぬ拍手。
二度三度で終わらず、四度五度六度までアンコールが続く。
涙を流している観客も少なくない。
実は僕も最期にホロリときたが、それは皆さんの理由とはたぶんちょっと違って、同年輩の友人でもある男の健気さと、それが観客にこれほどの感動を与えていることを目の当たりにしたことによる別の種類の感動であった。

でも、その舞踏の素晴らしさがよく分かると言って拍手し涙しているのだとしたら、それは嘘だ。
分かるわけはない(笑)。
だから、やっぱり、「なんだか訳はよく分からないけどよかったよー!」という拍手であり涙だったのである。

そして最期の最期に、
白塗りの顔を観客席に突き出し、顎の下に手を添えて、
「アイーーン!!」とバカ殿の真似を、、、。
もちろんそんなことはしない。

高瀬がぶん