今月は取れ高が多いが、まず我が友保坂和志をあげておこう。
2月4日、池袋の東京芸術劇場で催された対談&朗読会に出演し、本番前に担当者の指示に従い移動した際に、誤って舞台から客席に落ち(1.3mほど)、左右両足の骨を二カ所骨折&かなりの出血、ギブス三週間決定!
それでも出演をこなしたというから立派、でもばか〜!
後日、劇場側は責任を感じたのか、あの大雪が降った翌日、自宅に雪かき要員を二名送って寄越したという。
それだけにとどまらず、二度目の大雪の翌日は、保坂が「なんか外でガシャガシャ音がするな」と思い覗いたところ、再び劇場の二人が自主的に雪かきをしてくれていたというので、なんだかとってもほっこりした(笑)。

さて、、、。
おそらく世界で一番有名な、伝説の手品師?魔術師フーディーニ。
最初のころ彼は、片足をひきずった貧相ないでたちの小人に扮して舞台に登場し、いくつかの手品で観客を感動させたのちに、突然長身の紳士に変身するというネタをよく使ったと言われている。
これは観ている者に単に変身の驚きを与えるというより、同じ手品でも、自分より色んな意味で明らかに劣っている者がそれを演じて見せた場合、その驚きと感動は増幅される、という人間の真理をついた巧妙な心理トリックであったと。
こういった人間の心理というものが、根源的には「社会的弱者に対する優越感や差別」に通ずるものであろうことは想像に難くないが、それを意識しようがしまいが、そうしたことがあることは歴然たる事実として僕自身も認めるところである。
オリンピックよりパラリンピックのほうが常に感動的なのはおそらくそのせいである。
よく頑張ってるなぁ、自分ももっと頑張らなくちゃ、という勇気を与えられるからだ。
それに比べると、ギンギンに身体を鍛えたサイボーグみたいなオリンピック選手が、いくらいい記録を出したとしても、それほどの感動はない。

そして、そうした心理的トリックを悪意をもって体現して見せたのが、トリックモンスターとも言うべき佐村河内氏である。
で、次のうちいったい誰がバカなのか。
佐村河内氏本人。
唯々諾々とゴーストを引き受けていた新垣氏。
話しを持ち上げ過ぎたメディアの連中。
彼の著作の帯書いて褒めちぎった五木寛之。
彼の創り出す音楽を激賞した三枝成彰を始めとする多くの音楽評論家たち。
それとも、その音楽に熱狂し支持していたオーディエンスたちか。

たぶん答えは、佐村河内氏が大バカで以下はふつうのバカ(笑)。

それにしても、最近こんなに不愉快で面白いニュースは他にない。
世間では既に作曲ゴースト問題にすっかり飽きがきて、もはや障害者年金詐欺に話題はシフトしているが、それについてはあまり興味がない。
そんなやついくらでもいるし、単なる小悪党の一人に過ぎないではないか。
それを追及するくらいなら、長野県建設業厚生年金基金の24億円の使途不明金に絡んで逮捕された元事務長の坂本とかいう男の方こそ厳しく追及して欲しい。不発に終わったファンド投資やら何やらで総額200億円がふっとんでしまったというから、もはやバカバカバカバカバカ!!

佐村河内守の作曲問題が持ち上がった時に、パッと二つのことが頭に浮かんだ。
ひとつは、
これって食材偽装問題と構造が本質的にまったく一緒じゃないの? ということ。
芝海老だとばっかし思って「うまいうまい」と喰っていたのに「なにぃ!バナメイ海老だと!!」と怒り心頭。
いいじゃないの、それまで知らなかっただけで、料理のうまさが変わるわけじゃないのだから(笑)。

そしてもうひとつは、
一見専門家風の人物に専門的知識がないメディアが騙され踊らされる。
これはIPS細胞のインチキ森口氏とメディアの関係とまったく同じ構図ではないか。
あの時は話しが高度過ぎて科学的知識が乏しいメディアがまんまと騙され、今回は音楽的に素人であるメディアの連中が、佐村河内氏の作り上げた悲劇的キャラクターが与える感動にばかり目を向け、その作品のまっとうな評価についての検証をおろそかにしたのではないかと。

これは特に、佐村河内氏の代表作とも言える「交響曲第一番 HIROSHIMA」について言えることだ。
あの曲が原爆被災者を中心とした多くの人々に感動を与えたことは事実だろう。
しかし、その感動の大きさと音楽そのものの質が必ずしもイコールにはならないことに注意を向けるべきではなかったか。
これは今だからそう言える、という類いのものではない。
あの曲が2009年の芥川作曲賞(芥川也寸志を記念して)に応募され、最終選考の3曲にさえ残らなかったという事実について、メディアの連中はちゃんと検証していただろうか?
僕にクラシックの素養は全くないが、それでもなんとなく、ああ言った賞レースの選考の過程は想像できる。
小説の芥川賞も同じようなものだと思うが、最終選考にまで残った作品となれば、レベル的にもほとんど同列で、あとは審査員の好みの問題となる。
しかし、それ以前に落とされた作品群については、最終選考に残すまでもない、何らかの致命的な欠点があったのではないか、と想像できやしないか。

当時の芥川作曲賞の選者たちは、おそらく、現在言われているような「交響曲第一番 HIROSHIMA」に対するパクリうんぬんかんぬんを含めたマイナス批評を、既にその時点で行い、最終選考の基準に満たない作品として落とした、、、ということになるだろう。
佐村河内アメイジングストーリに惑わされることなく、純粋に音楽性を評価した上での見事な落選。
僕のような凡庸な人間には、交響楽というだけでどれもこれも素晴らしく聞こえてしまうが、やはり聴く人が聴けば本物かどうかは分かる、、、という結果であったことにちょっとホッとする。

一方、あの曲が広島市民賞をとったことは全然不思議ではない。
あれは曲そのものの音楽性などほとんど分からぬ行政が、市民をこんなに感動させた佐村河内さんは偉い! ということで差し上げたものだろうから。

こうして、「交響曲第一番 HIROSHIMA」は、素人ウケはしたがプロの世界ではそれほどの曲でもなかった、ということが既に証明されているわけだ。
余談だが、音楽評論家の野口剛夫氏だけは、今回の告白前、佐村河内氏がもてはやされている最中に、「新潮45」に氏に対する疑問を投稿し、「交響曲第一番 HIROSHIMA」には随所に歴史的作曲家の模倣が見られると指摘するなど、その慧眼には感服せずにはいられない。

そこで、ではその真の作曲者である新垣氏の音楽家としての才能・力量はどうなのかという話しになる。
まず、ゴーストを務めた新垣氏の広島に対する思い入れはゼロ。
そりゃそうだ、依頼された時のタイトルは「現代典礼」だったのだから。
で、何なんだ一体、現代の典礼って(笑)。
いずれにせよ、新垣氏は自らの芸術家生命を賭けて作曲する時ほどの力は入れてなかったのだと思われる。つまり本気を出して作曲したわけではない、単なるアルバイト仕事だったのだろう。
したがって、作曲家としての新しい音楽的アイデアを入れることもなく、使い古された定番の旋律を組み合わせて、とりあえず聴けるような作品に仕上げて納品した。

だから「え〜! わたし別に原爆とか広島とか全然意識してなかったのに、こんなに感動されちゃったりして、なんだかなぁ」と戸惑い、おまけに調子に乗った音楽素人が「広島市民賞」とか与えるし、一方で勝手に芥川作曲賞に応募され、選者の中で三枝成彰一人だけが激賞するも、結局のところ最終選考にも残らないという体たらくに終わり、おそらく新垣氏は、「恥ずかしぃ〜、自分の名前で応募するなら、もっとちゃんとしたやつ作るよ〜、あれがわたしの実力だと思われたらかなわんぞ」と思ったに違いない。
新垣氏は他者のための仕事と自分のための芸術活動はきっちり分ける人だ、たぶん。
だから、仕事(アルバイト)で作った曲に、作曲者として自分の名前なんか入れたくない、というのが本音ではなかろうか。
それが音楽家としての誇りだし、当然、著作権を要求するなど自尊心がそれを許すはずもない。

近々、佐村河内氏が記者会見を開くというのでみな興味津々である。
あれだけの大嘘をついて散々持ち上げられた人間が、どれほどみすぼらしい姿となって登場するのか、それが見たくてしょうがない。
大衆の、もとい下衆の極み(笑)。

追伸
佐村河内さんの謝罪文、笑えるぅぅ。
曰く
「これは新垣さんと二人だけの秘密です」
「三年前から耳元でゆっくり喋ってもらえば聞こえるように、、、」
みたいなこと言ってますけど、
へぇ〜、じゃ、その耳元でゆっくり喋ってくれた人って誰よ(笑)(笑)(笑)

高瀬がぶん