富士山頂上付近で迷子犬がいるという情報がネットで流れ、シーズンオフになる九月までになんとかしてあげないと死んじゃう!と多くの人たちが心配したそうだが、先日無事に保護されたというニュースを見てほっとひと安心。
まるでキツネのように痩せ細っているけれど、なんとか回復しそうでよかったぞ、世界文化遺産犬!(笑)。
そんなニュースに触発されて、、、。
深夜二時ちょうど。
山頂を目指して富士山五合目吉田口のこみたけ売店を出発。
あいにくの曇天ながら、裾野に広がる樹海ぐらいは見渡すことができる。
初めての富士登山、山の地肌は遠くから眺める富士山とは大違いで、なんだか無愛想なほどに味気ないが、大きく開けた視界の壮大さにはやはり大感激だ。
かなり軽快な足取りで歩を進め、前を行く登山者をどんどん追い越し、あっという間に六合目の富士山安全指導センターまでやってきた。
ところがそのあたりから体調に異変が!
イテテテテ、腹が痛い、またなんか腐りかけた物でも喰ったか?
やむなく一時中断!
あわててトイレに駆け込み、用を済ませてから再び登山開始。
いくつかの落石避難用シェルターを抜け無事八合目まで到達するも、それからちょっと進んだところで今度は道を見失い遭難。
救助はいらないけれど、とにかくどっちを向いても一歩たりとも進める道がない。
しばらくもがいてみたところでギブアップ、今夜の富士山登頂をついに断念。
ったく!せっかくGoogleアースのストリートビューが、富士山五合目吉田口〜頂上まで完成して発表されたというのに、、、おーし、また明日、五合目から再出発するぞ!、と言う話しは置いといてと。

左足の親指の先っぽあたりが痒くて仕方がない。
で、親指を掻いてみるが、いやここじゃない。
痒いのはもうちょっと先、親指の爪の先から10センチ程度先の、つまり自分の体からはみ出た中空あたりが無性に痒い!
こんな奇妙な話しを聞いたことがあるだろうか?
僕はない、話すのも初めてだし(笑)。
でも、よく似た話しは実際にある。

幻肢痛。
あまり聞き慣れない言葉かもしれないが、この現象にものすごく惹かれるものがある。これは、交通事故などで左脚を膝から切断した時などに起こる、既にないはずの左脚の指先が痛いというような症状だ。
無いはずの指先が痛い?
そんなバカなと思いがちだが、感覚的な意味でその痛みは実在する。
切断された膝から数十センチ離れた中空に痛みを感じるのだ。
どうやら、人間の脳は案外頭が悪い、というか反応が鈍いものらしい。
その点、自分(心)のほうは機敏に反応する。
一目見て膝から下がないことが分かるので、当事者の心は、ああ酷いことになった。これからどうやって暮らして行けばいいんだろう、などと、一瞬にして全てを理解する。
一方、脳の方は「膝から下がない」という現実を理解するためにかなりの時間を要するものらしいのだ。
もちろん全ての事例がこれに当てはまるわけではないが、とにかくそういうことが比較的よく起こるというのは事実。
昨日まであった左膝下なものだから、脳のやつはついうっかりして、当分の間は空間認識的に「膝下もまだある」と判断し、ないはずの指先が痛かったり痒かったりするというわけだ。
その判断は明らかに誤っているが、暫くの間はそうした現象がつづき、聞き分けの悪い脳に対し、心が日々語りかける。
「もう左膝下はないよ、ないんだからね!」
そうして何日か何ヶ月かを経て、脳もその現実を悟り、やがて幻肢痛は消えて行く。

脳はそうしたうっかりを犯しやすく、また騙されやすくもある。
例えば、片腕(左としよう)麻痺の患者のリハビリなどにそれが見られる。
テーブルの上に右腕を置き、左側に鏡を立てて置き、あたかもそれが左腕に見えるような位置に調整する。
動かない左腕はテーブルの下にダラリとさげたままだ。
そうしておいて、右腕を動かす。
すると、当然鏡の中の一見左腕に見える右腕も同じように動く。
心ではそれが単なる鏡像であることを知っている。
ところが脳は、「あっ、左腕が動いてる」と勘違いする。
子供騙しの手品のような簡単なトリックに引っかかってしまうのである。
自分の心が自分の脳を騙す。
その勘違いを何度も繰り返えさせると、ついには麻痺していた左腕が、勘違いで動くようになる。
あとは一生勘違いさせたままにしておけばいい(笑)。

こうした心身問題とか心脳問題を一般的に「意識のハードプロブレム」と言うらしいが、文字通りハードな問題で、今のところ何が何だかよく分かっていない。
というか、それはいつか解ける問題なのか?ということも分かってはいない。
もちろんここでは「科学的に分かるかどうか」という意味だけれど、そもそも科学に馴染む問題なのかどうかさえ不明だ。

自分が感じる、あの「痛さ」の痛い感じ。
自分が感じる、あの「赤さ」の赤い感じ。
自分が感じる、このような「世界」の感じ。
こうした感じを他の皆も感じているだろうけれど、それは自分の感じ方と同じなのかよく似ているのか全く違うのか、、、それを知る方法はない。
ってなことを、昨今流行の「クオリア」で色々説明しようとする人もいるけれど。

科学的に分かるということは、現象を数値化して定量化するということ。
脳の方はニューロンやらシナプスやら電気信号やら、還元主義的に事細かに分類整理できているようだけれど、心を数値化し定量化することなど科学の進化とは無縁で、そんなこと出来る筈もないと信じている自分がいて、だから、心をあたかも数値化するような「心理学」はどうしても信用することができない。
いや、パターン認識的にはかなりの確率で心理学は正解を導き出すかもしれない。
でも、必ず正解であるというわけではない。
だいたい当たっているからいいだろう、ではダメなのだ。
科学は何度やっても誰がやっても必ず同じ答えを導き出すことが絶対条件だからだ。
一回でも違った答えが出れば、その理論は破棄されるか、少なくとも修正が必要になる。
だから心理学は科学ではない。
その証拠に、「脳科学」という言い方があっても「心科学」という言い方はない。
もっとも、心理学は科学であると、誰も言ってないか(笑)。
そもそも、いくら脳みそを解剖して部分部分に選り分けてみても、部分の合算=全体という還元主義的思考法だけでこの世界を理解しようとする試みは、もはや限界にきているわけで、部分の合算+αが全体なのだとなれば、そのαの正体がいったい何なのか? それは科学的手法で解明できる種類のものなのか? それこそがハードな問題となる。
今のところ部分の合算+謎=全体とでもしておく他はない。

話しを元に戻す。
その幻肢痛について僕はちょっと期待を寄せている部分がある。
「おいおい、ひょっとしてそれって、超能力みたいなもんじゃねぇのかー!」っていう思い(笑)。
なぜなら、既に無い足の指先が痛いという感覚が実在するということは、現在の自分の肉体の外部へと感知能力が拡大していると、無理矢理解釈することも可能だからだ。
もちろん、肉体の外部と言っても、所詮「昨日まであった肉体の場所の痛み」だから、今のところ慣れによる単なる勘違いというしかないが、だからといって勘違いにとどめておくのももったいない気がする。
感覚が肉体をはみ出るという事実だけをとらえれば、ひょっとしてこれは、訓練次第でもっと離れた場所の、いや壁の向こう側の、自分の肉体とは遠く離れた場所に、自分の感覚を置く事が出来るということになりはしないかと。
そうなれば、勘違というよりむしろ感知外というべきじゃないかと(笑)。
この訓練にはたぶん二例目の「鏡を使った錯覚訓練法」が有効になるやも知れぬ。
根拠なんかないけれどそう思う。
テレパシー? 透視術? いやはやこれは期待できるかも〜。

ところで、「幻肢痛」があるなら「幻肢快」があってもいい。
既にちょんぎられたアソコの先っぽが気持ちいい、、、とか。
無理か? ある筈なのにないも同然という人はいっぱいいそうだが(笑)。

高瀬がぶん