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[Web Log] / 07/15 10:49

この間、なんだか昭和の香りのする喫茶店にたまたま入って、アイスカフェオレを頼んだのだが、なんだこれ!? 森永のコーヒー牛乳じゃねぇかっていう味で、これも一種のオレオレ詐欺っていうやつだな(笑)と、自分でウケる〜! だったんだけれど、発表する相手がいなくてとても寂しかったという話しはさておき、小説を書く行為というのは、ひょっとしてすごく恥ずかしいことなのではないかと思う。
小説を書いてるなんて恥ずかしいから人には言えないが、せっせと書いては新人賞に応募したり出版社に持ち込んだり、、、要するに陰で一所懸命努力して、そうして運良く世間に出ることができた時に初めて、周りの人が、あの人は小説を書いていたんだぁ、と気付く。
たぶん、小説なんか書いてるって恥ずかしくて人には言えない、という人こそがいつか小説家になれるんじゃないかと、最近になって強くそう思う。

なぜそんな風に思うのかというと、小説家ではないただの人が、或る時、いきなり小説家になったというパターンを、実際に二度ほど間近で見ているからだ。

保坂和志という小説家のHPを立ち上げてからのこの十二年、制作管理をしていると、色々なファンがウチのサイトに出没するわけで、その中のひとり礒崎憲一郎は、ウチが発行するメールマガジンに記事を書いてくれたりしていたが、小説を書いているなんてことは露ほども知らず、2007年の「文藝新人賞」の最終候補に残った時に、その名前が出て来てびっくりした! という次第。
そして、「肝心の子供」で文藝新人賞をとり、それから二年後に「終の住処」で芥川賞をとった。

もう一人、山下澄人。これは過去のコラムで書いたので一部重複するが、彼はFICTIONという劇団の主宰をしており、五年ほど前に本人の身内から、「突然のメールで失礼いたしますが〜〜ご招待しますのでよかったら舞台を観に来て下さい」というメールが来たので、調子に乗ってHP関係者みんなで観に行って、それからすっかりFICTIONのファンになり、舞台がある度に観せてもらうことになり、プライベードでも仲良くなって何度か会っているうちに、「実は小説を書かないかとある出版社言われて書いているんですが、もう三年ぐらいずっと書いてて、校正校正の繰り返しでいっこうに完成しません(笑)」と、そんな話しが出て来てみんなで大笑い、というゆるい感じで、彼が舞台脚本だけではなく小説も書いているんだということを知った。
その彼が去年の今頃、二作目の「ギッちょん」という小説でいきなり芥川賞候補になり、残念ながらそれは選外だったけれど、苦労を重ね三年がかりで書き上げた一作目の「緑のさる」で、去年の秋「野間文芸新人賞」をとった。
そして、今まさに旬、このコラムが掲載される時点で既に発表(7/17)されているかどうか分からないけれど、「砂漠のダンス」という小説が、再び第149回芥川賞候補となっている。
ま、これでとれれば幸いだけれど、とれなくたって、百枚前後の小説を発表し続けていれば(笑)、そのうちとるでしょ。

この二人に共通しているのは、「へぇ、小説なんか書いてたんだぁ」と、知り合ってからけっこう時間が経ってから知ったこと。

一方で、「小説を書いてるんです!!」と、ハナっから胸を張る人たちがいる。
たぶんこれはダメパターンだと直感してる。
そういう人たちはたくさんいて、うちのHP宛にいきなり書き上げた小説をメールで送りつけて来る。
短編ならまだしも数百枚にも及ぶ長編を送ってくる人も少なくない。
言わば、前戯がなくていきなり本番、みたいなだいぶ失礼な人たちだ。
しかも、たいていは「どう?どうなの?」と、反応を欲しがったりもする(笑)。

そうした中にとんでもない奴もいる。
小説ファイルに添えた前書。おおまかに言えば、次のような内容だったと思う。
「自分は現役の東大生です。小説家になるつもりですが、現在の新人賞などに応募して受賞し、それからプロになるというような手順はあまりにも時間がかかり過ぎます。そこで、私の小説を出版してくれる出版社をどこか紹介していただけないでしょうか? 無事、単行本として出版されたあかつきには、あとがきにて謝辞を述べたいと思います」、、、みたいな!!!
え〜〜っ!?
お前いったいどこから見下ろしてもの言ってんだよ! 
さすがにこのメールには頭に来て、保坂に転送もせず小説ファイルは即ゴミ箱へ。
そしてひとこと「何か大きな勘違いしてるんじゃないの?」とだけ書いて返信したのだった。
幸い、それっきりメールも来ないが(笑)。

とにかく既成作家のところにいきなり小説を送りつけるなんてことはやめて、どこかの新人賞に応募したらいいと思う。
大手出版社の新人賞になると、およそ2000編くらいの応募があるが、都市伝説のように言われていることがある。
「最初に読むのは学生アルバイトたちで、小説の善し悪しも分からず落としていく、、、」
それを信じ込んで、「そんなところで落とされてたまるか!」 と思うような人も出て来る。
結果、自分が最終候補に残らなかったりすると、「やっぱりそうだ! これは自分の実力不足のせいじゃなく、まともに評価されないシステムになっている」 なんて、実に都合良く考えたりもする。
でもそれは大きな間違い。
送られて来る応募作品は全て、ちゃんと編集者が読んでいるのだ。
五人くらいの編集者が手分けして、一人400編程度の作品をほぼ一ヶ月くらいかけて読破する。だからシーズンになると、ほぼ毎日大忙しで小説を読むことだけが仕事となるそうだ。
そして、ひとり10編程度を選び残し、五人が持ち寄る50編程度を再び回し読みした上で協議し決定する。
ほら、ちゃんと仕事してるんだよ編集の人たちは(笑)。
いつだったか大手文芸誌の編集の某くんに聞いたことがある。
「2000応募があったとして、読むに耐え得るというか、一応小説だなと思えるようなものはいったい何編くらいあるの?」
「やっぱり50編程度ですよ。あとは日記か日記に毛が生えた程度のものですね(笑)」
つまり、もしアナタの書く小説が一応小説として認められるようなものならば、受賞確率は2000分の1ではなくて50分の1。
これはかなりの高確率じゃありませんか?
勇気出たでしょ(笑)。

ところで、サイトに送りつけられる小説について、僕は一切読まず、直接保坂に転送する。
制作管理者としての最低限の義務を果たすという意味でも、HP宛のメールは、とりあえず全て転送することにしているのだ。
ぶっちゃけ、何らかの判断をするのがめんどくさいし、そうしたほうが楽(笑)。
で、保坂も十中八九送られて来る小説を読まない。
もちろん感想を返したりもしない。
僕の時点では、メールをくれた本人にはたいてい返信はする。
「メールは保坂和志本人に転送いたしました。ただ、同様の申し出は数多く、返信はたぶん行かないと思います。がっかりするかもしれませんが、そんなもんです普通」と。

勝手に送りつけられてきた小説を読んだ上で感想を返す、、、そんなことをボランティアでしている暇もない。
僕は別に感想を求められているわけじゃないが(笑)、だらだら生活することに忙しく、保坂は保坂で猫の世話と小説で忙しい(笑)。
そういう、いきなりの、ある意味図々しい申し出があまりに多くなったので、ある時、「小説の講評は一編につき五万円頂きます」と告知した。
そうしとけば、さすがに送って来るやつはいないだろうと高をくくっていたのだけれど、なんとそれでも「お願いします」と小説を送って来るやつがいたりして、慌てて告知を削除した、ということもあった。
かと思うと、ウチの掲示板に自分の書いた小説を直接書き込むやつも現れる。
そんな時は、文字数制限があるから一回の記事では収まらず、何回にも分割して、、、ほんと迷惑だし、それが小説であろうとなかろうと、そもそもそんな長い書き込みを読むやつは誰もいない(笑)。
たぶん、たぶんだけれど、そうした、恥ずかし気もなく、っていうのは小説家にはなれないパターンじゃないかと思う。
保坂和志には聞いてないから知らないけれど(笑)、村上春樹もあんなに小説を書いていて、あんなに皆んなに読まれて、相当恥ずかしい思いをしているんじゃないかと、そう思う(笑)。



高瀬がぶん

[Web Log] / 07/03 12:21

森を歩いていると古びた丸太小屋が目の前に現れました。
それを見てアナタはどう思うでしょうか?
その丸太小屋は、誰の手にもよらず、自然と昔からそこに生えていたように存在していると考えますか?
それとも、誰かがそれを建てたと考えるでしょうか?
もちろん誰かが設計した上で、それを建てたに決まっていると考えますよね。
では、丸太小屋を見てそう思うのに、周囲の木々や草花を眺めて、なぜ同じように思わないのでしょう。
それって、おかしいですよね?
木々や草花の存在にも、何らかの知性が関わっていると考えたほうが自然ではないでしょうか。

そのほうが自然かどうかは別にして、でも、どうしてだろう?
丸太小屋を見れば、誰かが設計して、誰かが木を伐採して運んで、誰かが適当な長さに裁断して、誰かが組み立てたという、知性が関与したストーリーが想像できるのに、なぜ木々や草花を見てそういう知性を感じ取ることができないのだろうか?

ところで、その話しをしてくれたのは、一時期、けっこう仲良くしていたエホバの証人のオジサン(笑)。
オジサンは何度も家にやってきて、その度にお茶しながら論議を交わすのだが、別に僕を勧誘しようとか、そういう気分は二度目の訪問のときに既に失っていたようだ。
僕は宗教は嫌いだけれど、宗教の話しは大好きなものだから(笑)、オジサンが持って来る様々な資料は全部受け取り、有償なものも全部買い取ってやっていた。
それを全て読んだ上で、納得がいかない箇所に赤線を入れて、、、これがやたら多くてテキストはほぼ真っ赤となる(笑)、、、オジサンにひとつひとつ質問をする。
基本的にオジサンは聖書をすべて暗記していて、「それはイザヤ書5章の○○に書いてありますように、、、」 という具合に、質問のすべてを聖書からの引用で答えようとするのだが、およそその答えに僕は不満足で、「では次回までに調べておきます」 ということになる。
その次回の答えももちろんオジサン流で、前回の回答の不足分を聖書の他の箇所から引っ張って来て、合わせ技で一本取ろうとするものだから、やっぱりそこにはいささか無理があって、いっこうに僕を納得させることはできず、結局僕は再質問し、、、そんなことの繰り返しで何度も足を運ぶ羽目に。

しかし、冒頭の話しの疑問はけっこう深淵で、あっさり答えが出るような問題ではない。
植物だから自然に生えているに決まっている、という考え方は、普段から何となくそう思っているだけで、よく考えると論理的な結論でもなんでもない。
ほぼ「信仰」に近いかたちの、理屈抜きの思い込みに過ぎないとも言える。
生命の発生が、理屈で、つまり科学で証明できる事象ではないことに思いが至らないからだ。
その隙をついて「神」を介入させようとするのが、オジサンを始めとする西洋系の宗教者なわけで、「科学で説明できないんだから神が、、、」と、いつのまにか科学と神が五分五分の対立関係にあるかのような話しをでっち上げる。
そんな消去法は成立しない。
そもそも、何かが分からない時に、物証もなしに、「だったらコレ」という考え方は間違っている。
分からない時には分からぬままエポケー(思考停止)するのが、正しい対処のしかただろう。
ちなみに、ちゃんとした科学者はいわゆるUFOの存在を、「そんなものは存在しない」と否定したりはしない。
「自分の持っているデータにはないもので、正体は分からない。従って未確認な飛行物体ではあるけれど、いわゆるUFOかどうかも分からない」というだろう。
それが科学者としての正しい態度だ。

生命の発生に関しても、今のところ科学者は無口だ(笑)。
もっとも、理由はともあれ一旦発生してしまった生命に関してはこの限りではない。
一粒の種から成木へと成長する過程は、植物学を学べば、ほぼ正確に理屈で理解できよう。
細かいことをはしょって言えば、各種の元素が「何らかの理由」で、まさにそれ、それしかない! ! というほどピッタリな具合に寄り集まってアミノ酸を合成し、それが複雑な過程を通してタンパク質となり、それから更に複雑極まりない化学的な変化を経てようやく植物になったと。
もちろん、そうした説明は、植物の問題以前、生命の発生そのものの原因にアプローチしたものではない。
問題なのは、その生命発生の過程をスタートさせた「何らかの理由」で、それを全くの偶然ととらえるか、何者かの意思に依るものととらえるか、さて、そこんとこが非常に悩ましい。
言えるのは、生命の発生の瞬間、果たして何が起こったのかを科学的に説明できる人は今のところ誰もいないということだ。

そしてこう思う。
この地球の生命体たちが、とんでもなく複雑で絶妙な構造を持っているのに、「偶然だけでそんなものがうまく出来るっておかしいんじゃないか?」と。
そうかなぁ? と、そのうち誰かが「この宇宙で生命が偶然発生する確率」を計算しだす。
生命が発生する確率は10の283万乗分の1(あくまで説だが)。
一方、宇宙全体の原子の総量は、たったの10の80乗個に過ぎない。
これでは、とてもじゃないが偶然生命が発生するなんていうことはあり得ない。
確率は0ではないが、気が遠くなるほど0に近い。
では、やっぱり神の設計によるものか?
いや待てよ、それはこの宇宙が一個しかない場合の確率ではないか。
だったら、このような宇宙が複数、いや無限個数あったとしたらどうなる?
こうして、ほとんど苦し紛れのように見えるマルチバース理論(宇宙は無限個数存在する)が生まれ、なんとか辻褄を合わせようとするのだが、、、ん??
だったら何もマルチバース理論を持ち出さなくてもイケるんじゃないか?
この宇宙がたった一個でも、時間さえ永遠に続くなら、それがどんなに起こり得ないようなことでも、確率0でない限りいつか必然的にその出来事は起こるのだから。
要はそれがいつ起こるかだろう。
永遠の比較的最初のほうか、ずーっとずーっと先のほうか、、、。

例えば、チンパンジーがピアノの前に座りでたらめに鍵盤を叩いて、それがたまたま、完璧なシューベルトの「ピアノソナタ第18番ト長調『幻想』」である確率だって、決して0ではない。
この宇宙で時間が永遠に続くなら、確率0でない限り、チンパンジーはいつかそれをやってのける。
少なくとも生命が偶然発生することを考えれば、比較的起こりやすい出来事といえそうだし(笑)。
それでも「そんな馬鹿なことが起こるわけない」とみな思い、たぶんそれは当たっている。
実際問題として時間が永遠に続くかどうかも未確定だし、生命種の絶滅までの平均寿命が800万年となると、、、たぶんチンパンジーはその出来事には間に合わない(笑)。

さて、冒頭の丸太小屋の話しを突き詰めると、結局次のような疑問にぶち当たる。
この宇宙は、誰かの意思によって設計され創られたものなのか?
いわゆる「創造論」。
一方、すべては偶然の産物、「自然」の文字通り、自ずから然るべき姿でそこにあるという「自然論」。生物で言えば「進化論」がある。
果たしてどっちなのかという訳だが、ちなみにアメリカ人の60%程度は「創造論」を支持していると言われている。
それより、これ二者択一でいいのか? って気付き不安になる(笑)。

ところで、初めて会った人に「私はインテリジェント・デザイナーです」 と自己紹介されたら、「あぁ、部屋の模様替えとか頼もうかな」とか思ったりしてはいけません! その人は家具の配置とかカーテンの色とかを考えてくれる人じゃないから!
この宇宙は知性ある何かによって設計され創造されたものであるとする「インテリジェント・デザイン(ID)」を信奉する人たちのことをそう呼ぶのだそうだ。
アメリカでは「ジョージ・ブッシュ」が代表的なその一人とされているが。

そのアメリカでは昔から「進化論」か「創造論」かでモメていて、この際勝負つけようじゃねぇか! ってんで、列車2台を用意し、一方を「進化論号」と名付け、もう一方を「創造論号」とし、思いっきり正面衝突させて脱線した方が負け、という途方もなく馬鹿げたことを実際にやったという記録が残っているから笑える。
結果、両方とも脱線して痛み分けだって。当たりめぇだよバカ(笑)。

まあ、それは派手好きアメリカ人のギャグなんだろうが、テキサスあたりでは事態はもっと深刻で、「進化論か創造論か」で、学校の授業について裁判になるほどモメているっていうのだから呆れるしかない。
要は、生物の授業で進化論を教えてばっかりいて、創造論を教える授業がないのは不公平じゃないか!! というわけで、結局裁判的には創造論者の勝利に終わり、生物の時間と同等の時間を設け、創造論を教えるようになったと。

ただ、インテリジェント・デザインというのは、単に何らかの知性と言っているだけで、いわゆるキリスト教の神(ヤハウェ)を指しているわけではないということになっている。
特定の宗教を学校で教えるというのも、何らかの問題が生じかねないからだ。
でも、実際はキリスト教の神のことを言いたいんだけど、ちょっと遠慮してるだけ、ということだと思う。
ところが、皮肉なことにローマカトリック教会は、インテリジェント・デザインに関しては真っ向から否定しているっていうんだから愉快。
理由は二つ。
「何らかの知性じゃねぇよ、うちの神様だろ!」っていうことと、「進化論はだいたい合ってるからそれはそれでよし。生命の発生そのものについては何も語れないしな、ははは」 という余裕の構え。
神の設計書には進化論のこともちゃんと書いてあるし、みたいな。

しつこく言うが、生命の発生が謎に包まれているからといって、宗教にまかせる気持ちなんて、僕にはこれっぽちもない。

ちなみに、丸太小屋の話しをしたオジサンは、何らかの知性ではなくはっきりヤハウェであるとおっしゃいました。エホバ的にはそうなんでしょうきっと。

もし、「国民はなんらかの宗教に入らなくてはいけない」 っていう法律ができたらどうしましょう。
僕だったら迷わず「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」に入信しますが(笑)。
知らない人はwikiして下され。

とりあえず宗教に関する話しはちょっと飽きたのでこれで終了。
日本の宗教についてはまた気が向いたらいつか書きます。

高瀬がぶん




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