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[Web Log] / 03月31日 23:43
これが裁判制度の理念だとしても、この言葉は一見性善説に立っているかのように聞こえるが、そうじゃない。 裁判とは元々性悪説で成り立っているのだ。 基本、被告人は有罪。 まず検察がそれを立証しようとあれこれ理屈を並べ立て、それが失敗した時に初めて無罪となる。 逆に、始めから無罪を立証しようとする裁判なんてあり得ない。 それが非在証明の不可能性を指して言う、「悪魔の証明」と言われるものになるからだ。 静岡地検が袴田事件の再審決定について不服、ということで東京高裁に即時抗告をした。 これで、東京高裁で再び再審開始するかしないかの判断を仰ぐことになり、それでどちらの結論が出るにしろ、弁護側検察側のいずれかが、必ずや再び最高裁への特別抗告をするわけで、そこで最終的に死刑の確定判決が復活し袴田氏が再び収監されることになるのか、それとも、そこで無罪が確定し、晴れて自由の身になるのかが決まる。 あ〜、そこまでゆくには気が遠くなるほどの時間がかかるだろうな。 うん、おそらくそれが検察の狙いなのだろうよ。 検察もよほどのバカではない限り、今の状況を冷静になって考えてみれば、袴田氏を再び有罪にできるとは思ってはいないだろう。 となれば、時間稼ぎをしている間に袴田氏の寿命が尽きるのを待つしかない。 検察と警察の権威を死守するには、それしか打つ手はないのだ。 もし、即時抗告をせず再審が開始されるとなれば、有罪か無罪かの判断の基準になる当時の捜査機関による捏造問題を、徹底的に突っつかれるのは必定で、ましてや捏造が立証されでもしてそれで無罪が確定しようものなら、検察や警察にとってこれ以上の屈辱はなく、その信頼が地に落ちることは火を見るよりも明らかである。 それに、真犯人を取り逃がした失態を認めざるを得なくなる。 従って、自らの保身のために、どうしても即時抗告するより他に道はない。 で、不服だよー不服だよーという態度を保ったまま長い時間をやり過ごし、いつか袴田氏の寿命が尽きた時に、不服だけど死んじゃったのなら仕方ないですね、、、ということにしたいのだろう。 それにしても静岡地検はあつかましい。 そもそも再審というのは、「有罪とするのに疑問が残れば、再審を開始すべきだ」とした最高裁の「白鳥決定」(75年)に沿ったもののはずで、それを否定するということはすなわち「有罪とするに疑問の余地がない」と言っているのと同じ。 それ本心なのか? 今回裁判所から指摘されている様々な捏造とされる疑問について、もし本当に「なにも不自然なところはない」と考えるならば、それこそ頭は小学生レベルであって、とてもじゃないが司法に携わらせておくわけにはいかないと思う。 数え上げればきりがないほど色んな捏造が明らかになっているわけだが、それにしてもなんだよその稚拙さは。 捏造するならそれなりにちゃんと捏造しとけよ! と言いたい。 ネットでは、実際に袴田氏を取り調べた刑事たちへの突撃取材の古い動画なども公開されているが、当時でも八十代になっている元刑事たちの反応と言えば、「あぁもう忘れたよ」「再審請求? そんなものは本人の自由だろ」 「裁判のことは分かんねぇよ」「有罪なんだからそれでいいじゃねぇかよ」 「オレは悪い事なんかなんにもしてねぇよ、ちゃんと仕事しただけだから」と、ほんとに頭の悪そうな年季の入った糞ジジイばかりで始末におえない(笑)。 いや、これは今だからそう言えるのかもしれない。 要するに当時の捜査機関は裁判そのものはもちろん、世間そのものをなめ切っていたのだろう。 警察が言うことに間違いはないと信じられている、という妄想にとらわれ、適当に証拠作っとけばそれで袴田は有罪になるし、世間だって警察が捏造なんてするはずはないだろうと思うに決まっていると。 加えて、まさか四十数年後に再び裁判所によって、その証拠のひとつひとつを念入りに再検証されることになるなんて思ってもみなかったに違いない。 今回の流れの全体を客観的に評価すれば、再審さえ始まれば、どうやら袴田氏が無罪になることは必然のようである。 ただ、今回の再審開始決定文の中に、 「、、、国家機関が無実の個人を陥れ、45年以上にわたり身体を拘束し続けたことになり、刑事司法の理念からは到底耐え難いことといわなければならない、、、」 とあるのだが、これは厳密に言えば誤った表現であると思う。 裁判をやり直すかどうかの決定なのだから、当然のことながら有罪か無罪かは、これからの裁判で決まることだ。 にも拘らず「無実の個人」と言い切ってしまっている。 現段階でこれは言い過ぎなのではないか? 無罪だからと言って無実とは限らない。 これは常識だろう。 無実かどうかは分からないけれど、有罪にできるほどの合理的根拠がないから無罪とする、、、というのが裁判所が出す結論だろう。 検察・警察に対する怒りが爆発して、裁判長つい口が滑っちゃったのかしらと。 「無実」というのは観念の問題であって、裁判上では「無罪」か「有罪」かだけが判断されるべきものであると考えるが、違うだろうか? 今回裁判所が言及したのは、「袴田氏を犯人とする証拠の数々が、捜査機関によって捏造されていたのではないか」という重要な疑問についてであって、証拠が偽物=袴田氏が犯人ではあり得ない、ということになるわけではない。 つまり、「犯人が誰かは不明だが、少なくともその証拠群は袴田氏を犯人とするには説得力に欠ける」 と、言えるのはせいぜいここまでのはずである。 そもそも、ある人物がある事件の犯人ではないことを証明しようとしても、それは冒頭の「悪魔の証明」であり、今回のことで言えば、袴田氏が犯人ではないことを直接証明することは原理的にできないのである。 できることのひとつは、真犯人を探し出しその犯行を物理的に直接証明することによって、間接的に袴田氏が犯人ではあり得ないことを証明することだが、これも事件が古過ぎて、ましてや時効も成立していることから、今後真犯人に関する捜査そのものが行われるはずもなく、現実的には不可能ということになるだろう。 けれど、様々なインチキ証拠物件をネタにして、「袴田氏を犯人と特定するには合理的に無理がある」ということはおそらく証明できるだろうから、無実の証明はともかく無罪にはなるだろうと思われる。 さー、いずれにせよ、袴田氏の残された人生の時間内に決着をみることができるだろうか。 それだけが心配である。 この事件の当初から多くのマスコミは袴田巌を犯人と決めつける報道をし続けた。 それだけならまだしも、警察のリークによる情報を垂れ流し、全人格を否定するような空恐ろしい形容詞までつけて、まだ容疑者段階であるにも拘らず実名報道してきたという実績がある。 ところがどうでしょう。 そんなことしてましたっけ? というような顔をして、今度は一斉に「袴田さんよかったよかった! 警察許さん!」と態度を豹変させる。 かなりの数の新聞社の社説を読んだが、どの記事もまるで同じ。 コピペかよ!(笑) ダメだよ、責任とれよ、まるで袴田氏を悪魔のような人物として報道してきたことの!! しかも、アホな一般人はそのことに疑問を抱かない。 袴田が犯人だって、、、。 「テレビで言ってたし」 「新聞に書いてあったし」 メディアが報じることはあたかも全て真実かのように受け取る。 それが一般人の普通の感覚である。 それが何時の頃からか「冤罪かもしれない」と、風向きが変わってきて、マスメディアは勢い当時の捜査機関の不正捜査についてあれこれ報道し始める。 こうなると一般人はコロっと変わって、 「あれは冤罪なんだぜ、だってテレビで言ってたし、、、新聞に書いてあったし」 と、またもやそれが真実であるかのようの受け取るのである。 この付和雷同、流されやすさ、どうにかならないものかと常々思う。 様々な事件出来事の報道に関しても全く同じで、そのアホ傾向がハッキリするのは、ネット上での様々な発言が爆発的に一方に傾く、という事実を見ても明らかである。 まさかという時にまさかという事が、、、。 それがあまりに絶妙すぎて、とても偶然とは思えない、というようなことが起こる。 今回それを感じたのが袴田巌氏が釈放された翌日の3月28日に、被害者家族唯一の生き残りであった長女が亡くなったことだ。 警察によれば事件性はないという。 そう聞いて、「事件性はない」という言葉の中に、「自殺」も含まれるのだろうなと、そう思った。 今後マスコミがどう動くか分からないけれど、少なくともこれまでは、彼女周辺に対する取材というのは憚られるという、メディア間の暗黙の了解みたいなものがあったと思う。 なにしろ、自分以外の家族4人が全員殺されたのだから、世間の同情を一身に集め、彼女の周辺には、本当にもうどう声をかけてよいのか分からぬほどの張りつめた空気が色濃く漂っていたと思われる。 それが表向きの一般的な見方であり、今でもメディアはその姿勢を崩してはいない。 袴田氏が犯人でないならば他に真犯人がいる。 となると、人々はすぐに真犯人探しに興味が移り、ジャストタイミングでの長女の死亡報道に「なんだかアヤシー」ということになって、「誰かそこんとこ詳しく調べてくれないか」なんて思ったりしている。 実際に長女犯人説あるいはその周辺人物犯人説というのは、かなり以前からあり今も根強く残っている。 しかし、この疑惑が表メディアで語られることはない、、、。 検事と弁護士は「六法全書」という同じ教科書を使って勉強してきたはずなのに、必ず正反対の答えを導き出す。 皮肉にも、それが健全な状態の証となる。 そうでなければ、そもそも裁判にならない。 検事「死刑を求刑する」 弁護士「賛成!」 検事と弁護士が同じことを主張したとしたら、それは全体主義に陥っているわけで、それのほうがよっぽど怖いではないか。 コメント追加 [Web Log] / 03月16日 3:16
持ち上げといて、ドーン!! 持ち上げといて、ドーン!! マスコミってのはタチが悪い、いっつもこれだよ。 佐村河内氏しかり小保方氏しかり。 それに乗っかってやたら褒めてはけなす連中もどうかと思うわ。 そんなわけで、僕としては、佐村河内氏はアレだから仕方ないけど(笑)、小保方氏に関しては、ドーン!!情報に惑わされることなく、なんとか擁護できないものかとあれこれ考えてはみるものの、これがなかなか上手くいかないので困る。 今のところ彼女を全世界で唯一(笑)擁護しているのは、例の武田邦彦おっちょこちょい博士ぐらいなもので、「画像の貼り違いは、眠たかったからと言えばいい」などと、それこそ眠たいことを言っているが、そういう苦し紛れの言い訳は、実は小保方氏の「単純なミスです」と実質的には大して変わらず、そう発言することで、それが恣意的ではなかったと言いたいのだろうが、事の重要性から鑑みて、せめて「複雑なミスです」くらいは言ってもよかったんじゃないか?(笑) やっぱり、一旦持ち上げられた人が凋落して行く様は、いわば「メシウマ」というやつで、みんな大好物だろうし、特に今回の騒動はストーリー展開として見ていてとても興味深い、というかはっきり言えば笑っちゃう出来事ではある。 いや僕だけじゃなくみんなそうだろ? 「まじかよー!」「あらやだ!」と半分ニヤけながら、佐村河内氏や小保方氏の報道から目を離せない、というのが実情じゃないかと思う。 それにしても最近のテレビ(ま、ネットでの動画で見てるのだが)で一番面白いのは生中継による○○会見の様子。 なんと言ってもリアリティが秀逸で、テレビ番組のインチキドキュメンタリーなんて目じゃないくらい面白い。 その反面、これがあとでニュースになったりする時には、必ずテレビ局のバイアスがかかって、局の意向に添った編集内容になるのが見ていて耐えられない。 というわけで昨日ニコ生で(3/13)見ましたよ、理化学研究所&調査委員会の会見。 四時間超えの会見だったらしいが、途中から気がついたもので後半の二時間程度の生放送を視聴した。 今回の会見は疑惑の当人ではなく、調査委員会が主体だったもので、出席者全員かなり余裕をかましていて、佐村河内謝罪会見ほどの生々しさもなく、全体として落ち着いた雰囲気であった。 記者たちの質問も相手が本人じゃないだけに鋭さを欠き、たとえ突っ込んだ質問をしても「中間発表ですから」と諌められるのがオチで、なんとなく消化不良の様相を呈していた。 本音を言えば「やっぱり本人じゃなきゃつまんないよ、出てこ〜い!」と言いたいところなのだろう。 ネット上では既に小保方氏は佐村河内並みの扱いで、ほぼ真っ黒決定の感があるけれど、実際はどうなのだろうかと、調査委員会メンバーの話しに慎重に耳を傾けた。 そして僕なりの結論。 ん〜、小保方氏、色んな意味でやっぱりダメかな。 調査委員会メンバーから「未熟な研究者」という評価が下されたが、それは甘い、「人間として未熟」と言ったほうがよい。 論文に掲載した画像は、加工修正したことがこの日公表されたが、これについて小保方氏は「やってはいけないことという認識がなかった」と述べたという。 本当にそうだろうか? いくら人間的に未熟とは言え、とてもじゃないが信じ難い。 研究成果の主体となる重要な証拠画像に修正を加えたり加工することに、本当になんのためらいも感じないのだとしたら、心の底からバカか、確信犯として心が腐っている人間だとしか言いようがない。 好意的に推測すれば、彼女は駐車禁止を犯す程度の悪意の認識で、「ちょっと気が引けるけどまわりはみんなやってるし、まっいいか」、せめてそのくらいの罪悪感はあったと思いたいけれど、今回の行為はその域を遥かに超えていて、これでは、「駐車禁止」どころか、「車で人ひいて殺しちゃったけど、毎年いっぱい死んでるし、まっ、いいか」って言ってるようなもの。 なんせ、STAP細胞誕生を示す決定的な証拠となるべき画像なんだからさ! 彼女がそういう軽薄な行動に出たということは、案外、科学論文の世界ではよくあることなのではないか、という推測も働いてしまう。 もちろん、今回のことで多くの科学者たちは「あってはならないこと!」などと真っ正面から言い切ってはいるが、実際には「研究者の落とし穴」として、自分の研究や実験の成功を求めるあまり、その過程で発現した不利な現象などを敢えて見過ごしたり切り捨てたりすることがある、という心理学的な話しを聞いたことがある。 端的に言えば、自分の期待に添うよう、恣意的にデータを扱いがちになるということだ。 そのへんが武田邦彦流に考えれば、科学論文の世界ではよくあること、、、みたいなことになって、、、それが行き過ぎると、「バレなきゃいい」になってしまう。 そうだけれど、でも「バレちゃったらダメ」(笑)。 この騒動のトータルとして僕が信じられないのは、その研究成果がノーベル賞に値するかもしれないくらいの偉大なもので、そのことについては本人も当然自覚しているはずで、さぞや世間の注目が集まるであろうことも当然予想されるにも拘らず、すぐバレるような嘘(画像の修正など)をついたり、信用性に関わる重大なミスを犯すという、そのうかつさ軽薄さである。 「なにやってんだよおい!」 いくら誰かに先を越されるか心配なのでつい焦って、という思いがあったとしても、超えちゃいけない一線ってものがあるだろがよ。 あっそうか、本人はその一線が見えてなかったと、、、ま、言い分として(笑)。 でもさ、注目するのは一般人だけじゃなく世界中の優秀な科学者たちなんだから、そんな安っぽい嘘すぐにバレるに決まってるだろが! ところで、博士論文でのコピペ疑惑は? この言い訳がまた苦し紛れに聞こえて仕方ない。 米国の知人にこういうメールをしたと伝えられている。 「世間に流れている論文は下書きですから」 なによ、下書きなら丸写しコピペもオッケーっていうわけ? そうじゃないよね?(笑) 次のいい訳はこうなるだろう。 「下書きをそのまま本編にするつもりはありませんでした。当然本編では、引用したものは引用一覧に加えるつもりでしたし、、、、」と。 これで一応筋は通りますし。 ある意味、引用は必然と言える。 科学者が何か新たな発見をした時に、新旧の説を比較するために、かつてはこうだったということを併記するケースも当然考えられる。 その場合、そのかつての知見の多くについては自らが体験したものでないのも当然で、そうなれば「周知の事実」として誰かがどこかで発表したものを引用する他はなく、その引用一覧を載せれば何も問題はないということになっているようだ。 今回問題なのは、その一覧に書かれていない無断引用があったことで、それはあたかも持論を述べているように思わせてしまうことになり、そこがどうしても引っかかる。 なんといってもその無断引用の「こっそり具合」が研究者としての品格を貶め、ひいてはSTAP細胞の存在そのものの疑惑まで生んでいる結果となっている。 この騒動、悲劇的な結末を迎えなければよいが、、、と、けっこうマジにそう願っている。 なんて言ってるそばから、、、小保方氏が博士論文取り下げというニュースが! もはや博士でもなくなるということか、、、十分に悲劇的だなこれは。 いずれにしても、なんかピュアじゃない人の話しばかりでイヤになる。 ということで、ここでピュアな人の作った歌詞と、散文を無断引用(笑)。 女性、31歳、彼女は友人の娘で、精神に大きな問題を抱えているけれど、とても素直でいい娘です。 (以下、原文ママ。漢字使いやアンダーラインも含め) 「桜の雨がふる頃に〜君を想う〜」 誰もが もがいてる 目が覚めて 君の声 耳澄まし 音符の迷路 幻に ときめく モニター MISSION ふるえる heart memory チャージ 君への想い 「はじまり」 本との出合いで 心のゆがみがわかった その本は心理テストけん美学で コンビニがゴール 必ず変になる まほうにかかった人は それがどういうことかがわかる いしのつよさで 80%負ける よく調べてある 読みかたによっては そうとれるでしょう 誰でも大かんげい 入るには モストって言う曲も エスプレッソと周りのあたたかさが必要 その人についてよく調べてから はじまる 心にすぐくる だから悪いことは出来ない 悪用も出来ない 誰が入ったか 室内の空気だけ 物の位置でわかるくらい 人の心をあずけっぱなしのゴミ箱だった [Web Log] / 03月01日 4:05
ダイビング 海は地球表面の三分の二を占めている。 だから海を知らなければ地球の三分の一しか知らないことになる、ってか。 バリ島の沖合で起こったスキューバダイビング中の事故。 この事故は、ドリフトダイビングで合流ポイントで浮上したが、待っている筈のボートがどこにもいなかった、ということから始まった悲劇であった。 このニュースを聞いて思い出したことがある。 昔々あるところにでしたとさ。 そのぐらい昔の話しだけれど、友達夫婦と僕ら夫婦の4人、もっとも両組とも離婚済み(笑)が、スキンダイビングにハマっていた時期があって、しょっちゅうあちこちの海に潜りに行っていたことがある。 といっても基本的に近場が多く、稲村、江ノ島裏の岩場、葉山の名島、一色海岸などをウロウロしているだけだったが、どこも透明度がせいぜい4〜5mほどしかなく、常に不満を抱いている状態が続いていた。 飽くまでスキンダイビングが目的で、スキューバダイビングをする気にはなれなかった。 そもそも湘南の海でタンクをつけて自由に潜れる場所なんてないからだ。 あるとしてもダイビングスクールが漁協から許可を得た極めて限定的なエリアしかない。 それじゃ面白くもなんともない。 それに、このへんの海ではタンクどころかウエットスーツ着てスキンダイビングしているだけでも、漁師さんたちから怪しい目で見られるのが実情である。 要は、トコブシやサザエやたまにアワビやタコなどを勝手に採ってはいけませんよ! というルールが敷かれているのだ。 もちろんウエットスーツを着ていなくても、勝手に貝類などをとるのは違法である。 特に葉山の名島などは監視が厳しく、シーズンともなると常に漁師さんか県の職員が乗り込んだ監視ボートがあたりを回っている。 それで、海面に上がって来た者がサザエ五個程度を袋に入れているのを見つけると、その場で全部没収! おまけに、海面に浮かんだままボート上から差し出された始末書にサインさせられる始末(笑)。 そんな光景を実際何度も見ている。 だから、ちょっと慣れている人たちは考える。 網に数個ほどサザエを入れて海面に浮上した際に監視ボートを見つけると、知らん顔してその網を海中に落とす。 手ぶらですよって顔をしてその場をやり過ごし、あとで再びその網をとりに潜る。 ただ、時々その網が迷子になるのが玉に傷(笑)。 それにしても何かおかしい。 名島に行くと漁師さんが経営する茶店みたいのがあって、そこでは貝採り用の器具(釘抜きのような形の道具)を売っている。 そんなもん売っていて貝を採ったら没収&始末書って、いったいどういう根性してんだ!。 名島に渡るには漁協の渡し船に乗る必要があるのだが、その漁師さん曰く、 「まぁ、島でサザエとか採っても、その場で食べる分には目こぼししてるけんど、中には何十個も隠し持って、それで商売してるヤツもいやがる。それはやっぱり営業妨害じゃねぇか? こっちも自然養殖して増やしているだからよ」 というお話でした。 慣れて来ると分かるのだが、サザエたちも案外バカで毎年同じ岩棚の同じ場所にちゃんと座っているので(笑)、その気になればけっこうたくさん採れるものなのだ。 あ、また話しがズレズレ(笑)。 え〜、そんなわけで、湘南の海はせせこましいし透明度だってよくないし、、、、。 さて、美しい海を求めて、、、忘れもしない、御巣鷹山に日航機が墜落したあの当日、僕らは新潟の佐渡ヶ島の横っちょにある粟島という小さな島でシュノーケリングを楽しんでいた。 その翌年には佐渡ヶ島にも行ったが、いずれにせよ、その透明度は半端ではない。 おそらく世界でも最高峰に数えられるほどの透明度ではないだろうか。 感覚的には水中視界50mという感じなのである。 佐渡の海、5mほどの浅瀬で海底を眺めながらふらふらと海面を進んで行くと、いきなり切り立った崖が現れ、そこからいっきに数十mほどの深さになるようなポイントがあるのだが、その海底までがほぼ障害物なしにストレートに見通すことができるほどだ。 だから怖い(笑)。 まるで中空に浮かんでいるような気分に包まれる。 土地柄、熱帯魚のような美しい魚はいないが、みな食べたら旨そうな魚ばかりが泳いでいて、それらの魚たちと僕との間にも、視界を遮るゴミやプランクトンなども一切見えないので、どっちも空を飛んでいるような感覚に陥る。 一カ所に止まっている魚などは、その間にある水の存在を感じないので、まるでガラスの塊に閉じ込められているように見える。 ただ、景色が圧倒的に地味過ぎる(笑)。 魚はどれもオヤジのスーツみたいな色をしているし、珊瑚礁なんかもないので、ただただ水が透き通っているだけ! と言うしかない。 それと、特徴的なのは水温の高さ。 湘南の海では三十分も入っていると唇が紫色になったりするが、佐渡や粟島では一時間ずっと海に入っていてもぜんぜん平気。 イメージとは大違いで、「へぇ、日本海ってそうなんだぁ」と、これはけっこう驚いた。 色彩も豊かで透明度も最高! ある年、そんな噂でもちきりのミクロネシアのパラオまで行ってみようー! ということになり、同じメンバーで実際出掛けていった。 で、正直言ってちょっとガッカリ。 船上から眺める海はまさにエメラルドグリーンで文句なく美しいのだが、実際海に潜るとその透明度は佐渡ヶ島や粟島に比べるとほぼ半分以下、たぶん鮮明に見えるのは10m程度だろうか。 海中も極彩色であるが故に、プランクトンが豊富過ぎて、ゴミのように海中を濁らしている、、、のかなぁ? でも水温は日本海の方が高かったし、、、ん? 日本海は水温が高いがプランクトンはそれほど多くない? 分からん、これは未だに謎だわ(笑)。 まとにかく、パラオでの数日間は無人島巡りやら何やらでスキンダイビングを楽しんでいたのだが、せっかくここまで来たのだから、一回スキューバダイビングを体験してみようじゃないか、という話しになった。 同行の相手夫婦の夫の方は唯一スキューバーのライセンスを持っていたが、僕ら三人は全くの未経験者。 でも、パラオは小一時間練習をしただけで、はい30mほど潜りましょう! というけっこうアバウトなお国柄。 で、今日はドリフトダイビングもします、と言う。 バリ島の事故でも取り沙汰されたこのドリフトダイビングというのは、自分で泳ぐ必要もなく、ただ海中の潮の流れに身を任せているだけで、まるで動く水族館の中を自動的に進んで行くような、とても楽しくて楽ちんなダイビングのことである。 パラオ、南海の楽園。 入水ポイントで僕らを下ろしたボートは、そのまま潮の下流に移動し、あらかじめ決められた浮上ポイントに先回りして待っている、というシステム。 僕らは現地人インストラクターの先導で、入水ポイントでいっきに30mほど潜り、しばらくは海底散歩を楽しんでいたが、やがて促されて潮の流れに乗る。 そして、色彩豊かな熱帯魚の群や、バラクーダ、ウミガメたちとの出会いを楽しみつつ、そのまま20〜30分ほど流され続け、「こりゃ楽しいやー!」、、、しかるべき時にインストラクターの指示に従って海面めざしてゆっくりと浮上し始める。 で、「あれ〜!?」上がってみたら待っているはずのボートがいない!! ぐるり見渡しても見えるのは点在する無人島ばかり。 これは正直ちょっとびっくりした(笑)。 ただ、バリ島の事故のケースと違うのは、ものすごく天気がよくて海面は完全な凪の状態だったという点。 そのせいか大した危機感もなく、周囲の景色を楽しみながら、しばらくの間はそのままプカプカ浮かんでいたのが、そのうちインストラクターがちょっと慌て出し、大きな声を張り上げ始めた。 彼は二十代の褐色の現地人だが、名前は違和感ありありのタロー君(笑)。 そう、先の戦争時代、日本がこのあたりを統治していたので、その時代の名残り。 そうやって15分ほどのんびり遊びながらプカプカしていると、いくつも見える無人島のひとつの島陰からいきなりボートが現れた。ここからの距離はおよそ300mほどか。 近づいてきたボートの操縦士の若者に、インストラクターがなにやら怒っている。 事情を聞けば、なんのことはない、島の木陰で昼寝してたらつい寝過ごしたってことらしい(笑)。 もしこれが、バリ島のように突然天候が崩れて海が荒れていたら、果たしてどうなっていただろうか、、、と。 思えばパラオの海ではシュノーケリングだけで十分な気がする。 ちょっと無理して8mほど潜り、直径40センチぐらいのバカでかいシャコ貝を二人掛かりで、しかも死にもの狂いで採ってきたりしていた。 で、ナイフでこじ開けると、直径10センチはあろうかという、驚くほどでかい貝柱が出て来たりして、こりゃ刺身で喰ったら美味そうだと、さっそく食べてみたが、なんとスカスカジャリジャリでとても喰える代物ではなかったというお粗末。 海に行かなきゃ溺れ死ぬことはない。 山に行かなきゃ滑落して死ぬこともない。 だから、勝手に行って死ぬのは自己責任? だとしたら、家から外に出なけりゃ、ダンプにでも突っ込まれない限り、交通事故で死ぬことはまずないという話しにもなって、しまいには、この世に生まれなきゃ死ぬこともないのにということにもなる。 但し、ひとつ確かなことは、この世に生まれたのは自己責任では決してない、ということ。 そりゃ両親の他者責任に決まってる(笑)。 高瀬がぶん |