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[Web Log] / 05/16 20:09

スーパーマーケットで売っている野菜の放射性物質の含有量よりも、すぎちゃんのネタが夏まで持つかどうかの方が気にかかって仕方がないほど堕落した生活を送っている今日この頃、やっぱり、それに見合ったしょうもない出来事は起こるものだ。
数日前のこと、老化のせい? ソース焼きそばのソースの袋がどうしても破れずに、お気に入りの飛び出しナイフを使ったら、案の定、左手の人差し指の指先をザックリ。
まあ腹が立つことおびただしい。
ナイフを使おうと決めた時に「、、、こういう場合、勢い余って刃先が手に刺さったりするから気をつけないとな。だからこうゆっくり力を入れて、、、」。そこまで考えて慎重に力を入れて行ったはずなのに! それなのにやっちゃうなんて!
そんな自分にも腹が立つが、ナイフのヤローにも更に腹が立ち、どこそこ構わず思い切り放り投げてやったら、そんな時に限って、柱に見事垂直に突き刺さり「ビーン!」と格好よく震えていやがるから悔しいではないか。ナイフ投げしたときに、そんなに上手く刺さったりするお前じゃなかっただろうに!
そんなことよりも指先はけっこう大変なことに。
血は噴き出すわ、肉片も取れそうになるわで、あわててバンドエイドで押さえ、輪ゴムでぐるぐる巻きにしてやっと血が止まり、覚えもないのになぜか買い置きがあったゴム製の指サックでフタをしてやっとひと安心。

ただ痛みはかなりひどく、まるで心臓が指先に移ったかのように心拍と同期してドクドクと脈を打つ。この痛さの感じ、つまりこの痛みのクオリアは虫歯の痛みと同じだと気付く。
そしてこの、身体の全体積から比べればほんの僅かでしかない指先の存在感は、今や身体全体の80%にまで達し、このままいけばやがて全身が指先になるんじゃないかと思えた。いや思わなかったけれど、一瞬そんな想像をしてみた。
それにしても不自由だこと。
ぶつけたらひどいことになると分かっていても、やっぱりついぶつけてしまう。日常的な動作ってこんなにも指先を使うものなのかと、あらためて感心するほどだ。
とりあえず一番困るのはキーボードのタイピングができなくなったこと。
もう長いこと使っているので、勝手に指先が動いてしまい、左手人差し指だけは絶対に使っちゃいけないのだといくら言い聞かせていても、ついつい「痛てぇ!」となる。
仕方がないので、キーボードはしばらく諦めることにした。
従って、この原稿もiPhoneのSiri(音声認識入力システム)を使って書いている。驚くほど正確にテキスト化してくれるので、手直しはほんのちょっとで済む。

こうしてまたひとつボロボロが増えた。
また、というのは、2月15日に書いたコラムにあるように、ギックリ腰のこと。
あれからほぼ一ヶ月ほど寝て過ごす羽目になったわけだが、ようやく腰もよくなり起き上がったところ、なんと右足がつっていて動けない。
いや、正確にいうと、常につる寸前の状態でちょっとでも動かすとキーンと痛みが走る。歩こうとして一歩右足を踏み出し、体重をかけたとたん、痛いのはもちろんだが、同時に、全く体重が支えきれずヘナヘナと崩れ落ちる。ある日には、浴槽に入ろうとした時にそうなって、浴槽の縁に顔面を強打したこともある。
これは、六年前の脳腫瘍手術の後の感覚と全く同じだ。おそらく今回もその後遺症が強く出たということなのだろうと思う。
今再び地球の1Gの強さを思い知らされている。

というわけで、実は今も杖つきジジイなのである。
あの手術のあとは結局六ヶ月間杖生活を送っているので、今回もやっぱり自然に治癒するまで数ヶ月はかかるんじゃないかと踏んでいる。現在まで既に三ヶ月。たぶんあと一ヶ月くらいは杖が必要だろうと思う。経験からして、こういう症状は薄紙を剥がすようにしかよくならないのだ。一番効く薬は「日にち薬」というわけだ。

足が不自由なのはそれはかなり不便なのだが、原チャリで移動する分にはほぼ支障はない。だもんで、外出の頻度はほぼ変わらず、毎日どこかへ出掛けている。もちろん、原チャリに乗るときは左の人差し指をピンッと伸ばし、バンドエイドも外し傷口を風に晒してよく乾かすことも忘れない。

しかし、原チャリを降りたとたんに情けない杖つきジジイに戻る。
歩く速度は普通の大人の半分程度だろうし、何かにつけ全てがめんどうくさい。なんでお前は痛いんだと意味もなく右腿を叩いてみたりするものの、そんなことで改善されるわけもなく、燃焼エネルギーを倍にして効果は半分という極めて効率の悪い歩き方を強いられているわけだ。

でもね、そんな状況でも楽しさを見つける特異な才能が僕にはある。
とにかく杖を買いあさる。
前回の手術の時に四本と今回三本。
どうせ杖をつくなら格好いい杖をと、伸縮式、折りたたみ式、木製の一本杖、仕込み杖(笑)、それぞれ買ってみた。
特に気に入っているのは、イタリア製の銀色犬型持ち手の木製一本杖と、アメリカ製の変形ノブ型ステインレス製持ち手の木製一本杖だ。
ちなみに、杖を使わない人には全く無意味な知識だが、適切な杖の長さは身長÷2+2〜3センチだからそのつもりで(笑)。
英国製のアンティークな杖もこれまた魅力的で、色々検索していたら、「セカイモン」というサイトがあり、英国のオークションに参加でき、その取引と配送を仲介してくれるというから素晴らしい。
英国というお国柄か、アンティーク杖(ステッキも含め)の市場もかなり広い。
そういえば、英国では足が悪いわけじゃなくても、紳士の身だしなみとしてステッキを持つ文化が根付いていて、そんな風な写真もよく見かける。
なんでも傘もその対象になっていて、細くきっちり巻かれたステッキ傘というのは、雨が降っても実際に使うことはないらしい。万が一使ったとすると、自分ではもう収まりよく巻く事が困難で、それを巻き直す専門の業者がいるというから驚きだ。
そのオークションで1800年代のアンティーク杖を買おうとしたのだが、、、持ち手が象牙ということで、残念ながらワシントン条約に引っかかり輸入できないということであった。この条約に引っかかるのは何も動物だけではない。杖の木の材質でも一部輸入禁止というものがあり、杖一本買うにも、これはこれでなかなか難しいものがある。
サイトの説明では、万が一落札しても輸入できなくなった場合、返金はできないとある。落札価格についてはもちろんピンキリだけれど、日本円で数千円程度でかなりいいアンティーク杖が手に入る。ただし、それに落札手数料、仲介手数料、配送料、関税などがかかってくるので、落札価格が3000円だとすると、およそ1万円ほど支払うことになる。それでも十分安い。同じ物をもし日本国内で買うとしたら軽く2万円は超えるだろうと思われる。

いやぁごめんごめん。
話しがものすご〜く逸脱しちゃって、興味のない人にはほんとにどうでもいい情報ばっかり(笑)。
でも逸脱しっぱなしで今回のコラムは終わる。
ワイルドだろ〜。


高瀬がぶん

[Web Log] / 05/01 14:20

まず、こんなニュースがネット上に流れた。

時事通信 3月8日(木)16時31分配信
「米でスーパーコンピューターを使い15兆あまりで円周率が割りきれた」
【ニューヨーク時事】米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(電子版)は8日、米のスーパーコンピューターにて円周率が割り切れたと報道。
その桁数は15兆8725億2289万5386桁。計算式を入力してから割り切れるまで2年3ヶ月もかかったという。
米イェール大学教授ブルース・ラディット氏は語る。
「長い道のりだった。大げさかもしれないが数学界はこれから大きく進歩するだろう、更なる数学界の進歩のため皆でID腹筋をしよう」 と喜びの声を隠せない様子で語った。

このニュースを途中まで本気にして読んでいたけれど、最後に「ID腹筋をしよう」とあったので、そこでやっと釣られたと気がついた。
と言っても、何のことかさっぱり分からない人もたぶんいっぱいいるだろう。

「ID腹筋=2チャンネル用語である。いかにも興味をひくタイトル(たとえばアダルト系)のリンクを踏むと、2チャンネルに飛ばされ、そこで『よく来たな。さぁ、お前のIDに含まれている数字の数だけ腹筋するのだ!』と、腹筋を強要させられるという、なんとも意味不明なシステム」
例えば、IDがga99bu5nだったりすると、99×5=495回も腹筋しなくちゃいけないという辛い試練が待っている。もっとも自分に甘い人は、99+5=104回で済ませるという手もある(笑)。
いずれにせよ、この不条理な腹筋要請に対し、「はいはい分かりました、やりゃいいんでしょ」というシャレの分かる人も決して少なくないが、普通は「なに分けのわかんないこと言ってやがるんだバカ!」と、意地でも腹筋をしない人のほうが圧倒的に多いそうな。
また、幸運にもIDに数字が含まれていない場合は、「今日は休んでよろしい」とか言われたりもする。

いやいや、今回は「ID腹筋」の話しをしたいわけではなかった。
円周率の話し。
このニュースを忘れかけたころ、、、、。
再びネット上にこんなニュースが流れたのだ。

「10桁で終了」 円周率ついに割り切れる!
無限に続くと思われていた円周率がついに終りを迎えた。千葉電波大学の研究グループがこれまでの円周率演算プログラムに誤りがあったことを発見。同大のスーパーコンピュータ「ディープ・ホワイト」を使って改めて計算しなおしたところ、10桁目で割り切れたという。10桁目の最後の数字は「0」だった。
 千葉電波大学の研究グループの発表によると、円周率計算に際し、改めて既存の円周率計算プログラムを点検してみたところ、円周の誤差を修正する数値に誤りがあることに気が付いた。この数値を正常値に直して計算しなおしてみたところ、円周率は10桁で割り切れたという。
同大の発表では円周率は「3.151673980」。3.1415・・・と続く、従来考えられていた数値は全くの誤りで、早急に修正が必要だという。また、これをうけて円周率暗記記録のギネス認定(5万4千桁)も取り消される見通し。
▽円周率暗記世界記録保持者の西岡さんの話
 死にたい。

この最後の「死にたい」があんまりにもウケてしまって、僕はついつい信用してしまったのだが、、、、。
やられた!
このニュースが4月1日に流れたということをうっかり見過ごした。
それによく読むと10桁だと言っているくせに最後が0って(笑)。これじゃ9桁だろうが、という話し。

ところで、この話しをまだ信用していた過日、僕は私用で京都にいた。
保坂和志VS山下澄人の対談イベントがあったので、遊びがてら取材がてらのこのこ出掛けて行ったという次第。山下君というのはFICTIONという劇団を主宰している友人なのだが、近頃突然小説家になって平凡社から「緑のさる」という単行本を出すことになり、その出版記念というか販促活動というか、とにかく盛り上げようということで、この対談を企画したわけだ。
ちなみに、「文学界5月号」に保坂和志がこの本の書評を書いているので、興味がある人は一読あれ。言っとくけどすごく面白い小説だよ。
当日は結局夜中の三時まで騒いで、その翌日の朝。
喫茶店で朝サンドイッチ&コーヒーしながら、みんなでわいわいがやがやと無駄話をしていたのだが、僕は突然その円周率のニュースを思い出し、「あっそうだ!円周率が割り切れた、って知ってる?」とやってしまったのだ。なにせ円周率が割り切れるかどうか、という話しほど無駄話にうってつけの話題もないものだから、、、。
それを聞いてみんな疑心暗鬼ながら「へ〜そうなの〜?」と一応首をかしげるものの、なんとな〜く「信用してもいいかなぁ」という空気が流れた。
しかし! Kさんだけはそうではなかった。
Kさんというのは大阪在住のお友達、といっても僕より6つくらい年長の、60代後半のオジさまで、京大出の数学者(科学者?)。学者というだけではなく、自らの研究の成果を製品として販売している会社の社長さんでもあって、色んな意味で大変お世話になっている人である。

Kさんは「いや待ってよ。がぶんの言うことは信用できない。円周率は無理数なので割り切れるということはないはず(たぶんそんな言い方)。よく調べてからまた後日メールするから」と(笑)。

実はこのKさんとは、ことあるごとにメールのやりとりをしている。
文学の話しもするが、多くの場合話題は物理、科学のことで、ニュートリノが光速を超えた!というニュースの時もしかり、小澤教授がハイゼンベルグの不確定原理を修正!というニュースの時もしかり、とにかくそれに類する話題が世間を騒がせるときは、必ずと言っていいほどメールをやりとりしたり、実際に東京で会って議論を交わすということを、ここ2年ばかり繰り返してきていた。
そして、どんな時も僕は単なる素人の興味で色々議論を吹っかけるのだけれど、Kさんはたいていの場合、その会合場所の喫茶店のテーブル備え付けの紙ナプキンなんぞを広げ、そこに万年筆で滲ませながら数式を書き示し、「ほら、この不等式を見れば明らかなように、、、」などと本気で説明し始める。
残念ながら、数学が超苦手な僕にはぜんぜん明らかでない、というか、そもそも、その数式に含まれる記号のどれひとつとしてなんて読むのかさえ知らないので、「なるほど!」とは言えるわけもなく、「あぁそうなんですか」などと、曖昧にうなずくのみ(笑)。
そんな人だから、そうやすやすとは引っかからない。
曰く「僕の仕事でもπはよく出て来るし、これまでπが割り切れないことで困ったことはない」なんてことを言う。

いやいやおっしゃる通りでございます。
もし円周率が割り切れたとして、だから何がどうなるのか、それもさっぱり分からぬままに「えっ、割り切れたの、すご〜い!」と驚いてしまった自分が情けない。
それに円周率が無理数(割り切れず、小数点が循環することもない)だということは、今から300ほども前に数学的に証明されているのだと。それにも驚くが、更に驚くのはそれからさかのぼること2000年以上も前に、アリストテレスが既に円種率が無理数であると予測していたという事実だ。よく考えるとすごいね、アリストテレス。
だって、例えば今年2012年に何らかの科学的事実の予測をしたとして、それが4012年までの2000年間証明されないって、そんなすごい予測ってあるだろうか。いやぁただ者じゃないなヤツは、もちろんただ者じゃないが(笑)。

京都での会合の後、Kさんからのメールには次のような式が。
π=(355/113)×(1-(0.0003/3533))
これを計算してごらん、というのだが、そもそもどこから計算始めたらいいのよ!、と一瞬思ったが、親切にもどこから計算を始めればよいのかもちゃんとメールに書かれてあった(笑)。
そして、あらためて計算機で計算してみたところ、
3.14159265359・・・
だってさ。

いずれにしても、円周率が割り切れようと割り切れまいと、命に別状はない。
そんなことより、、、、例の、京都で小学生の列に無免許で突っ込んでたくさんの被害者を出した少年。なんだか罪は重いくせに罰は軽そうだし、無免許だけに保険もないし、被害者や遺族に賠償金請求の権利だけはあるものの、実際には「ない袖は振れない」と言われればそれまでだというから、これこそほんとに割り切れない話しではないか。

高瀬がぶん

[Web Log] / 04/16 11:19

コラムの読者からこんなメールが届いた。
「はじめまして、18歳学生のS?Kと申します。いつも楽しく読ませていただいております。がぶんさんの最近のコラムでは、メディアの在り方について色々と述べておられますが、去年の原発事故以降、僕もTVの報道番組の姿勢に不信感を持ち始めた者のひとりです。でも、今回は報道番組のことじゃなく、「ビッグダディ」というTV番組のことなんです。これは、いわゆる大家族物のドキュメンタリーのはずだったのですが、ビッグダディ本人の口から、実は色々なヤラセがあったということが暴露されたんです。僕はあの番組が大好きで毎回見ていたんですが、ビッグダディが出演料をもらっていたとか、引っ越しの費用もテレビ局持ちだとか、事業の開業資金もテレビ局が出してるとか、なにもかもがテレビ局のヤラセだったということが分かって、なんだかバカらしいというか、がっかりしたというか。それより、ふざけんなよテレビ局!と、マジ頭にきてるんですけど、がぶんさんはそのへんのことどうお考えですか?」

さて、この「ビッグダディ」なる番組、実のところ一度も見たことないのだが、色々検索しておよそ事の流れは理解できた。
いやぁ、昔っからこの手の大家族ものは人気があって、もちろん僕も見たことはあって、ディレクターの手持ちカメラで長期密着取材、プライベートにずかずかと入って行って、時にはモメたりするのがこれまた面白い。
でもS?K君、こういう番組がまったくのドキュメンタリーだと思っていたとしたら、それは大間違いだよ。ギャラをもらっているかどうか、という話し以前に、テレビカメラが目の前にある、というだけで、それはすでにドキュメンタリー足り得ないと言っても過言ではないからだ。

以前、仕事仲間のNHKのディレクターのY君と、ドキュメンタリーについてあれこれ話し合ったことがあった。
もともとテレビのドキュメンタリー番組というのは、その昔にNHKが制作した「村の夜明け(不確か)」とかなんとかいうのがあって、それがドキュメンタリーの元祖というか手本になっているという話しだった。
僕もそれを観た記憶が薄っすらあるのだが、もうずいぶん前で、たぶん白黒の映像だったような気がする。
内容は、田舎の農家での牛の出産を扱ったもので、農家の爺さん婆さん父さん母さん、そして子供たちが協力し合い、出産前日の夕方くらいから色々大忙しで、夜通し面倒を見た結果、明け方に無事出産という、実に清々しい感動を覚える映像だった。

そこでY君がいうには「確かに、テレビ的なあざとい演出はなかったと思うけど、でも、例えば、撮影班がその農家に到着した時にはちょうど夕食の支度をし始めたころで、炊事画面がしばらく続いて、一家団欒の夕食。ん〜、そんなうまい流れで事態が進行するかな?って」
確かにその通りだった。
牛の出産に合わせて撮影するということは、当然ながら数日前から綿密に連絡を取り合っていることを意味している。出産の前兆を的確に判断した上で連絡をもらい、それに合わせて撮影班が行かなければならないからだ。というか、より確実に撮影を実現させるためにも、当然、ディレクターの一人が前乗りして数日前から待機しているはずだ。そして、そのディレクターからゴーの連絡が入り、撮影班が現場に向かう。
従って、着いたらたまたま夕食の支度をし始めるころで、、、なんていう生ぬるい話しではない。
例えば、その一家では、いつも○○時ころから夕食の支度にとりかかることになっている。
その様子を撮影するためには、、、撮影班にも色々と都合がある。照明の具合を確認したりカメラ位置を決めたり、もろもろの準備にはけっこう時間がかかるものだ。となると、「ちょうど夕食の支度をし始めたころ」を撮影するためには、少なくとも数時間前に現場に到着していなければならなくなる。もちろんそうなれば、「ちょうど夕食の支度をし始めたころ」に到着したはずもなくなる。
こうして、撮影の準備段階のもろもろは、まるでなかったように、番組はごく自然に「夕食の支度」から始まる。
しかし、それは自然に見えるだけだ。
出演者が一般人だとしても、必ず「準備ができましたので、まず薪を割るところからお願いいたします。ではいきまーす! 5.4.3.2…はいスタート!」、、、というようなことが行われているはずである。

ここでドキュメンタリーの何たるかが問われる。
例えばこのようなことが起こる。
その一家が夕食の支度のために毎日薪を割るのは確かである。ところが、今日に限ってたまたま昨日割った薪が余っていてその作業をする必要はない。しかし、ディレクターは日々行っている薪割りのシーンをどうしても入れたい。
そこでこう判断する。
毎日行っている事実としての作業なのだから、その必要性がたまたまなかったとしても、それを再現してもらうことはドキュメンタリーと考えてもよい。

この考え方はあながち間違ってはいないが、時には逸脱することもある。いつだったかNHKは手酷い目にあっているはずだ。山で高山病になった取材班の一人の姿を演出で再現して見せたことがバレたからだ。外部制作会社の作品だったけれど、言い分としては「高山病になったことは事実であり、その時の様子を再現したまでで、決してヤラセではない」というようなことだったと思う。
しかし、苦しくもないのに苦しんでいる演技をするというのは明らかに行き過ぎであった。ならば、なぜ本当に高山病で苦しんでいるときに撮影しなかったか、という話しだ。おそらく何らかの事情で撮影し損ねて、「いやぁ、起きた事は事実だし、画としても欲しい」と、ディレクターが欲張った結果なのだろう。
演出とヤラセは紙一重なのである。

話しは戻って、農家の食事のシーンだけでも、本当の日常をそのまま撮影するというのは様々な困難が伴うということが分かる。一家全員の食事風景をきれいに一つのフレームに入れるためには、おそらく普段とは違う座席配置を考慮しなければならないだろう。バラエティ番組の食事風景のように、あからさまにカメラの前には人が座らないように配置する、というわけにはいかないにしろ、なるべく全員の顔が見えるように、というくらいの演出は行われたはずだ。

こんなふうに話しを突き詰めていけば、実は純粋のドキュメンタリーなんていうものは、ほとんど成立しないと考えたほうがいいだろう。量子論の「観測問題」と同じで、観測(撮影)することで、その対象物に何らかの影響を与え、その振る舞いが変わってしまう、ということが起こるからだ。
動物物のドキュメンタリーでは尚更だ。動物たちの日常を撮影しようと思うなら、少なくとも撮影者やカメラの存在を気づかれていけない。それに気づいたとたん、動物たちは日常とは異なり、何らかの反応を示してしまう。
案外、その牛に対して「5.4.3.2…はい産んで!」と言ってたりして(笑)。

ようするに純粋のドキュメンタリーとは、隠し撮りに尽きる。

と、なんやかやとドキュメンタリーについて考えてみたわけだが、いやいや、そうでもないぞ、と頭が大きく逆戻り。
先の「ビッグダディ」で視聴者が頭に来てるのは、テレビ局側が、出演者とのお金もからんだそういった経緯を一切伏せて、あたかも「ビッグダディさんの人生を傍からそっと撮影させてもらっているだけです」みたいな態度をとってきたからに違いない。
それがいわゆる「ヤラセ」とは知らずに、その様子をまるで神の視点から眺めながら、本気で、心配したり、笑ったり、泣いたりしたりして、そんな気持ちをどうしてくれるんだ!というのが視聴者たちの怒りの主体だろう、、、が、、、そんなに怒ることもないだろうよ。
小説や映画やドラマ、、、あれみんなヤラセ(笑)。
水戸黄門の八兵衛がだんご食い過ぎてお腹壊すのを見て笑ったり心配したりしてるかもしれないけれど、あれはウソだからね(笑)。
作家のヨタ話しや出演者の演技だと分かっていても、それを受け止める側の感情は動くし、それが真実の出来事でも同じように感情は動く。
だったらどっちでもいいようなものではないか。

それより、僕はこうなると「ビッグダディ」なる番組を尚更観てみたくなってきた。
主人公がテレビ局のヤラセに翻弄され、それに伴い一家全員の人生そのものもくるくる変わって行く。
そのこと自体が興味深いし、それはそれで立派なドキュメンタリーとして成立しているではないか。
いずれにしろ、ドキュメンタリーではない人生なんかどこにも存在しないからだ。

ところで冒頭のメール、あれは自作自演のヤラセ。
よくないな〜おれ、うん(笑)。



高瀬がぶん

[Web Log] / 04/01 12:21

3月29日にまとめて三人の死刑執行が行われたという発表があって、だいぶ驚いた。
一日で三人の死刑執行というのは過去に前例があるのだろうか? よく知らないが、ある意味思い切ったことをやったと言える。民主党政権になってからは2010年の千葉景子法相下での執行以来1年8ヶ月ぶりのことであるという。
ここ20年の各法相の執行数を調べてみると、自民党政権時代では92年の後藤田正晴法相時代に3名執行し、それ以降の執行数を並べると、4,0.0.5.0.3.3.7.3.3.3.2.3.0.5.2.10.13.3.9.2.0.0.0.0.
そして今回の小川敏夫法相による3名、ということになる。
途中、10人.13人と飛び抜けて多いところがある。
ちなみに、前者の10人は自民党時代の法相長勢甚遠氏、後者の13人は法相鳩山邦夫となっている。


ところでタイトルにある「人命は地球より重い」という言葉は、実に耳ざわりのいい名言として今も残っている。

1977年、ダッカで起きた日本赤軍による日航機ハイジャック事件で、犯行グループが身代金を要求するとともに、服役中の仲間たちを解放するよう日本政府に要求した時に、当時の福田赳夫首相がそう言って、超法規的措置として服役囚を国外に逃がした。

その時は思った、死刑制度を認めている国のトップがいい加減なことを言うなよ、と。

死刑制度がある以上、こう言い換えなくてはならないだろう。
「善良な人の命は地球より重いが、悪人の命はそれほどでもない」と。

この「人命は地球より重い」という言葉と死刑制度がリンクするのは実は偶然ではない。

1948年の最高裁判決文の中にそれとよく似た言葉があり、果たして福田赳夫がそれをパクったのかどうかは定かではないが、、、単なる比喩と思われるが、こんな一文だった。
「一人の生命は、全地球より重い」

そして、この裁判は、まさしく「死刑制度合憲判決事件」と言われるものだった。

自分の母親と妹を殺し井戸に捨てた男に対する裁判で、死刑か否かで争われたのだが、弁護側は「死刑が、残虐な刑を禁止している憲法に違反している」と主張したが、最高裁は人命を尊重しつつ、ただし、「死刑そのものが、一般に直ちに残虐な刑罰に該当するとは考えられない」としてこれを退け、結局死刑を合憲とし、実際に判決も死刑になったというものだった。そして、この憲法解釈が現在も死刑制度存置の根拠とされているのだ。日本の裁判は判例主義だから、、、といいながら64年も前の判例なのだから、そろそろなんとかしろよと言いたくもある。

もっともこれには続きがあって、「将来もし死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法第三十六条(残虐な刑の禁止)に違反するものというべきである」と。

それにしても「釜ゆで」まで例に出すとは、、、笑う話しではないが、なんか笑ってしまう。

「みなさんは死刑制度に賛成ですか? それとも反対ですか?」
という質問を目や耳にするたびに「なんか違うなぁ」と落ち着かない気分になる。
なぜかと考えてみると、「死刑制度は既に今ある」からなのだと気づく。
論議を尽くすべきだとよく言われるが、存置論VS廃止論という構図は決して対等ではない。廃止論者のほうは少なくとものんびり椅子に座って論議している場合ではないだろう。
死刑制度に対する意見を発表することのないサイレントマジョリティは必然的に存置を是認していると考えられるので、実際に法律上既に存在するものを無くすには、論議を超えた強大なパワーが必要なのは必定であって、それこそ何百万人単位のデモ行進が何度も行われて初めて可能になるのではないかという気がする。

それでもいったい国民はどう思っているのかということも気がかりなわけで、アンケートを調べてみたりするわけなのだが、これがまたどうもアレです。

○内閣府の世論調査
「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」:5.7%
「場合によっては死刑もやむを得ない」:85.6%

○アムネスティの世論調査
「あなたは、死刑に賛成ですか? 反対ですか?」
「賛成」 200(51.1%)
「反対」 157(40.1%)
「わからない」 34(8.7%)

ついでにネット上のこんなアンケートもある。
○正当防衛以外の殺人はすべて死刑にすべきだ。
その通り:23
それは違う:77

このように、調査機関によってぜんぜん違うものになるから何を信用したらよいのか分からなくなる。いや、分からなくなるほうがましで、最初に見たアンケートをそのまま鵜呑みにする人の気が知れない。
この差は、案の定システム(勝手に命名)と呼ぶべきもので、なにかのデモがあった時の、主催者発表VS警察発表の違いと同じである。
例えば、2011年9月19日 に東京各地で行われた脱原発を訴えるデモでは、主催者発 60000人に対し、警察発表は25000人という、、、、とんでもない誤差が出た。
たぶんどちらも正しくない(笑)。
そんなに多くなかったですよ側と、いやぁすごく盛り上がったぜ側のせめぎ合いが常に行われ、それを発表するメディアはおよそ自分で調べようとはせず、無責任に「警察発表では、、、」と体のいい責任逃れをする。この場合、主催者発表の数も必ず言うメディアはまだましなほうだ。逆に言うと、警察発表の数しか言わないニュースを見たら、そのメディアは「なんかあやしぃ」と考えなくてはいけない。
だいたいからして、そんな混乱状況の中、日本野鳥の会の力を借りたとしても正確に数えられるものではない。
ほんといい加減なのだよ。もう時効だから言うけれど、ずっと前、僕の住んでるK市の「k祭り」の人出が何人だったのか、、、当日の夜、僕はマージャンを打っていて、そのうち二人はY新聞とK新聞の記者。そこで、二人が「どうする?人出」「去年が○万人だったから」「そか、じゃウチは○万5千人で行くわ」「ふ〜ん、ならウチは○万2千人で」、、、、いやマジこんなものであった。微妙に数を違えるところが信憑性を醸し出すという、実に細かい配慮も忘れずに(笑)。

さて、今回の死刑囚の一人は車で人ごみに突っ込み、さらに包丁を使って無差別に斬りつけ、結局5人を殺害し7人に重軽傷を負わせたという。言わばとんでもない極悪人であるが、検察側の精神鑑定では正常な精神の持ち主、弁護士側の精神鑑定ではパラノイアと、、、この、判で押したような鑑定結果の出方というのも、いったいいつの時代まで続くのだろうかと、いいかげんうんざりする。
同じ資格を持った医者がまったく違う答えを導きだすこと自体、精神鑑定ってやっぱり非科学的ないいかげんなもので、お告げ程度の意味しかない、とそう考えざるを得ない。誰がやっても同じ答えになる、というのが科学の基本なのだから。

死刑制度のあるなしに関わらず、凶悪犯罪の数はそれほど変わらない
世界の例をみても顕著な数字となって、存置と廃止の、その効果が顕われているということもない。
「どうせ死刑になるならたくさん殺そう」
「死刑がないんだったらたくさん殺そう」
ようするに、たくさん人を殺す人は、どっちでもたくさん殺すことになっている。

最後に、福田赳夫は正確になんて言ったんだよ〜!
色々検索してみると、、、、
「人命は地球より重し」
「人命は地球より重い」
「人の命は地球より重い」
「人ひとりの命は地球より重い」

その中で一番信憑性があるのはコレ!

(当時の番記者)
「、、、有名な「人命は地球より重い」という発言が出たのは番記者相手でした。その瞬間にはカメラはありませんでした。私の記憶では、旧官邸の小食堂で対策会議を主宰していた福田さんがトイレに出てきたのをつかまえたときの発言でした。」(ジャーナリスト 萩谷順 公式ブログから引用)

最後の最後に、オレは死刑に賛成か反対かだって?
左脳:賛成8%
右脳:反対6%
あとの領域は未使用なので分からない。


高瀬がぶん

[Web Log] / 03/16 13:50

曰く「マインドコントロールの恐怖」、「マインドコントロールを解くには」などと、いったいいつから「マインドコントロール」というものが、あたかも当然存在するものとして一般に認知されたのだろうか。
古くは統一教会脱会で世間を騒がせた女優山崎浩子や飯星景子がいた。それからしばらくしてオーム真理教問題が起こり、そして今回、中島知子問題が勃発!
事の大小はともかく、いずれもキーワードとして「マインドコントロール」という言葉が登場する。
しかも今回は、大手メディアもほとんど実情をつかんでいるわけでもないのにもかかわらず、ほぼ一方的に、中島知子をマインドコントロールしたとされる謎の占い師を悪人と決めつけ、テレビに出て来る専門家と称するコメンテイターたちは、口を開けばマインドコントロールマインドコントロールとほざき、単にマインドコントロールと言いたいだけじゃないの?という気さえする。
今どき「マインドコントロール」をネット検索すれば軽く200万件くらいヒットするわけで、事前に一夜漬けで調べれば、誰だって専門家風なコメントくらいできるわ!と思ってしまう。

それ以前に、まず、ぼくは心理学なるものを信用していない。
行動心理学の危うさを補うようにゲシュタルト心理学が登場したわけだけれど、ほんとに科学なのかという疑問がある。
科学的というからには、ある事象を数量化した上でさらに定量化する必要があるわけだけれど、そもそも人の心を数量化したり定量化したりできるのかよ、という根源的な疑問がある。
汗の量や血圧や脳波は定量化できるだろうから、それで嘘発見機とかは作れるだろうけれど、それで人の心を読み取るというということに関してもやっぱり信用できない。話しに寄れば訓練を受けたスパイ(今もいるのか?)などは、それさえコントロールして嘘発見機の裏をかくこともできるというし、結局、最終的には人の心の中は分からないということなのではないかと思う。

しかも「マインドコントロール」を解くには「マインドコントロールしかない」みたいな事を言い出したりするわけで、となれば、なんだそいつ! 結局マインドコントロールに頼って生きる術しかない、救いようのないほど超優柔不断な奴ってことじゃないのか。

オーム真理教の場合は、ドラッグやら電極ヘルメット(効果があるかどうかは不明なのが笑えるが)を使っているので、強制力を持った「洗脳」であって、いわゆる「マインドコントロール」ではない。
マインドコントロールされている人は、自分がコントロールされているという意識はなく、すべては自分の自由意志で決定していると思っているが、その自由意志を信用できない、、、などと専門家は言う。
ようするに「狂人に限って自分は狂っていないと言う」ってな理屈で、、、。

実際のところアメリカからの報告では、「米国心理学会(APA)の「説得と支配の欺瞞的・間接的テクニックに関する特別委員会(DIMPAC)」報告書のマインド・コントロール理論は、1987年APAの社会的倫理的責任委員会(BSERP)によって「科学的厳密さとAPAの承認を得るのに必要な批判的方法に欠ける」とされ却下された」とある。
かと思うとイギリスでは「マインドコントロール」が刑法の概念に組み込まれているというし、フランスでは散々もめた挙げ句、セクト(カルト)団体対策として限定的に取り入れられたという。
ようするにその認識はまちまちであって、「マインドコントロール」という言葉は世界共通認識に基づくものではないと言える。我が国でもこれまで裁判の判例で「マインドコントロール」として裁かれた例はないのだそうだ。
そんな微妙な言葉であるにもかかわらず、日本のメディアは、やれ「マインドコントロールが云々かんぬん」などとやたら声を荒げる。
問題はたぶんそこにあるのではなく、「コミットメントの一貫性」というやつが災いしているのだと思っている。言ってみれば、自分が自分にかける「ひとりマインドコントロール」というやつだ。
これは、どこかの時点で「ここまでやってきたのだから、もう引き返せない」という思いを指す言葉だ。
詐欺かもしれないと思いつつ、あと300万円出せといわれて、、、これまでに200万円突っ込んでしまったので、ここで出さなきゃその200万円がまったく無駄になるしなぁ、という思い。
原発の安全神話を作り上げてきたバカ教授たちが、一生懸命勉強していい大学入って地位も名誉も築いてきたのに、今さら原発撤廃って言われてもそりゃないよ、という思い。
つまり、やってきたことの意味を無駄にしないために更に深みにハマる、という心の状態。
おそらく中島知子にもそれがあって、もしかして騙されているのかもしれないと思いつつ、騙されているなんて認めるのは悔しいので、いやこれは自分の自由意志でやっていることなんだと自らに言い聞かせ、批判的な人に対してはことさら騙されているわけじゃないことを強調してしまい、その焦り具合が他人から見ておそらく不自然で、「こりゃすっかりマインドコントロールされてるわ」ということになってしまう。
しかし相手は一人。組織的に勧誘しているわけではないのだから、やっぱり責任は中島知子自身にある。
ちなみに僕自身も若い時にマルチ商法をやったことがあるが、これはひどかった(笑)。その説明会の会場には500人くらいの人が集まっており、壇上にあがった人物は、こんなに儲かった!という話しを満面の笑顔で話す。時折会場の500人に同意の挙手を求めたりするのだが、これが見事に全員挙手をする。そりゃそうだ、実のところ500人中450人は既に入会している人であり、会員に誘われて初めて会場に足を運んだ人はその十分の一の50人程度にしか過ぎない(笑)。しかも、その50人は他の450人がサクラだとは思っていない。
そんな状況の中で、周りを見渡せば90%のみんなは手をあげている、となればもうつられてあげるしかないという心境になるだろう。
これはアレです。ダチョウ倶楽部の上島が、他のやつらの「オレがオレが!」と手をあげるのにつられて、最後に「じゃオレが!」と手をあげるのとほとんど一緒(笑)。
もし言うのであれば、こういうのが「マインドコントロール」というやつではないだろうか。
従って、もし中島知子の一件を「マインドコントロール」と決めつけるならば、この日本に存在する企業や宗教団体もぜ〜んぶそれをやってると言わざるをえない。その最たるものは他ならぬマスコミであることは言うまでもない。
あぁ、このコラムでいったい何回「マインドコントロール」と書いただろうか。ひょっとしてぼくも「マインドコントロール」と言いたいだけなのかもしれない(笑)。

高瀬がぶん

[Web Log] / 03/02 22:37

3月1日、こんなニュースが流れた。

「名古屋市の河村たかし市長による『南京大虐殺』否定発言に対する中国国内での批判の高まりを受け、 名古屋が拠点の人気アイドルグループ「SKE48」の公演を目玉に、9日から11日まで江蘇省南京市で 開催予定だった日中共催の文化イベント「南京ジャパンウイーク」を中止する方針が1日、固まった。 日中関係筋が共同通信に明らかにした。 柔道の五輪金メダリストの山下泰裕氏を招き南京市で2日に予定されていた 柔道の交流イベントの取りやめも決まっており、南京市と姉妹都市の関係にある 名古屋市の市長発言が、南京市での日中の交流行事を次々と中止に追い込む異例の事態となった」

さて、ここで問題なのは何か。

その前に、まず最初に言えることは、ある出来事についての「ある」「ない」を論じても結局不毛に終わるということ。

どちらにしろ「悪魔の証明」が必要だからだ。

宇宙人がいる、と主張する人は実際に宇宙人を一人連れてくればそれですむ。でも、宇宙人なんていない、と主張する人は、それを証明するためには全宇宙を瞬時に捜索して、現時点で宇宙人がいないことを証明しなければならない、、、つまり原理的に不可能ということ。これが「悪魔の証明」と呼ばれるもの。

歴史的事実の有無についても全く同じことが言える。「ない」側の主張は先と同じように無限の不可能性の証明を求められる。一方「ある」側も、それが嘘ではない、という「ない」ことの証明をしなければならず、結局「悪魔の証明」に引っかかる。こうして「ある」「ない」は、どこまで行っても不透明のまま、真実の姿にたどりつくことはできない。

このことを踏まえた上で先の記事を読み解かなければならない。

定説としての「南京大虐殺」の検証には様々な解釈があり、今も一定していないけれど、そんなものはいつまで経っても一定するものではない。というか、歴史的事実なんて誰にも分からない、あるのは解釈のみだと考えた方がいい。従って、学校の教科書に載せる「歴史」なんていうものは、その時代の政権の教育方針によって、2チャンネル並みの言いたい放題、コロコロ変わるに決まっている。もし共産党が政権を握ったとしたら、果たして太平洋戦争を教科書にどのように記述するのか楽しみなくらいだ。

いやいや、いま問題にしようとしているのはそういうことではなかった。

「南京大虐殺」があったかなかったかと問われれば、「悪魔の証明」を踏まえた上でも、それはなかったと言わざるを得ない。

こう書くと、これを読む人たちは、あぁそうか、がぶんはそういうふうに歴史をとらえる人なんだと、、、いやいや、論点はそこじゃないぞ〜!。

「南京大虐殺」があったかなかったかということについてどうとかこうとか、メディアは何の違和感もなく伝えるのだけれど、おいちょっと待て、なんで「南京大虐殺」という言い方に引っかからないの? 脳天気もたいがいにしろばかメディア、よく考えろよほんとに(怒)。

虐殺そのものはあったとする。でもそれが、「南京小虐殺」なのか「南京中虐殺」なのか「南京大虐殺」なのか、なんて、そんなことは表現者の主観であり、さじ加減であって、はじめから「大」をつけるのはどう考えても不自然ではないか。

はっきりしているのは、ある出来事があり、それをより大きな出来事であったという風に思わせたい、という思惑があっての「大」であるということ。

およそ「大」がつくと怪しい。、端的な例として、昔からあった日本鉱業株式会社(現ジャパンエナジー)よりも、その後にできた大日本鉱業(株)のほうが会社としてずっと規模が小さい、、、みたいな(笑)。

つまり「南京大虐殺」という言い方は、被害者視点に偏った表記であるということ。加害者の方が「南京で大虐殺しちゃいました」とは決して言い出すことはないだろう。で、もともと誰がそれを言い出したかは知らないけれど、この思惑を見抜かれた場合、「大」をつけることによって、却ってその出来事の信憑性が疑われるということが分からなかったのだろうかと、それが不思議でならない。

「大爆発」という言葉も同じようなものだけれど、どこかの花火工場が爆発したというニュースが流れる場合、あえて「大爆発を起こし、、、」とはふつう言わない。ま、うっかり言うテレビ局もあるだろうが(笑)、基本的には言わない。単に「爆発を起こし、、、」というだろう。それは、その出来事をできるだけ大げさに伝える意味がないからだ。もっとも、逆説的な意味で、福島第一原発の爆発には是非とも「大」をつけていただきたいとは思う。

南京における虐殺はあったと思う。戦争でなら人を殺してもよい、それどころか勲章だってあげましょう。戦争は人殺しの免罪符。人類とはそういうろくでもない生き物なのだから、調子にのればなんだってやると思うからだ。

南京事件はさておいて、果たして、ヒトラーはユダヤ人600万人をガス室に送り虐殺したか。

疑問の余地なく歴史的事実とされているこの出来事でさえ、全くなかったと主張する人たちもいる。迫害や虐殺そのものがなかったと言っているのではない。ガス室送りというセンセーショナルな伝え方をされているホロコーストはなかったと言っている。

それらの主張によれば、写真でよく見る累々と積み上げられた遺体の死因は、「発疹チフス」等の伝染病によるもので、「毒ガス」によって殺害されたと断定された遺体は、一体たりとも確認されていない(遺体を実際に検分した唯一の法医学者、チャールズ・ラーソン博士が宣誓証言している)。

この点では、日本でも花田紀凱氏(元文芸春秋編集長、現Will編集長)が雑誌で「ヒトラーによるホロコーストはなかった」と言う記事を載せて、米英から批難されクビになったということもある。

ナチス批判やホロコーストに疑義を挟む様な事を口にするだけで罪に問われる、ドイツでは今現在もこの状況が続いている。
その点、日本は自由な国だ。それを幸せに思う。

何をどう信じるかは、その人の勝手。

「人は単に信じるのではない、信じたいことを信じるのだ」という言葉があるように「メディアは単に報道するのではない、報道したいように報道するのだ」としか言いようがない。



高瀬 がぶん

[Web Log] / 02/15 13:15

冬はだいたいお鍋、と独り住まいの年寄りの私はだいたい相場が決まっている。ウチにはガスがなく、電子レンジとIH調理器で作れるものしか料理しないと決めているので、いきおい出来るだけ簡単なものになる。動物たちがいっぱいいるので、ガスやら火やら使うのが怖いからそうしている。で、鍋といっても単に水炊きしてゆずポンで食べるという寸法。三日に二日はこれで(笑)。
そんな中、二週間ほど前の晩、いつものように豚肉野菜鍋を作って食べたんだけれど、IH調理器っていうのがネットで買ったものだから、サイズ感がよく分からず、来てみたら「あれ?こんなちっちゃいの」、なんだか情けないほど小振りの代物だった。お湯沸かすくらいはまあ問題ないのだけれど、お鍋となるとこれがまたなかなか沸騰しない。それでもとりあえず使えないわけじゃないので、日々それを使っているのだけれど、その日は特別寒かったせいか、なかなかなかなかグツグツ言って来ない。あ〜も〜!と痺れを切らしてさっさと食べ始めたのだけれど、、、、。
うん、確かにちょっと豚肉がまだ赤っぽいかなぁ、とは思った。
見事大あたりー!!
夜中になってお風呂に入って出た瞬間、お腹いてぇー!気持ちわるー!となって、素っ裸のままトイレに駆け込むことに。もうちょっとでも動くと吐きそうなので、ジィーっとしたまま腹痛を堪え続けることおよそ三十分。そうしたら凍え死にそうになってきて(笑)、全身から汗が出るのに寒いってなんなんだよこれと思いつつ、新田次郎の山岳小説に出て来るような定番の凍死の光景が眼に浮かび、あ〜ちょっと眠くなってきた気がするし(夜中だからたぶんほんとに眠かった)、マジに死んじゃうかも、と思い始め、開けるの面倒くさいから便器に座ったままドアを蹴破り(せこい木製ドア)、そのドアの外側右側面の壁に掛かっているダウンベンチコートを取ろうと思い切り右腕を伸ばした途端、「グッキーッ!腰が腰が〜!」。
うん、確かにこれはグッキーり腰に違いない。ちゃんとそんな音したし(笑)。
その結果、ダウンベンチコートは見事ゲットしたものの、今度は動けない上に動けないという試練が襲ってきた。どうせ気持ち悪くて動けないからこりゃ好都合だと、そんなことを思うはずもなく、とにかく寒さをしのぎつつ、あれやこれや何かがちょっとづつおさまるのを待つしかない時間をそれからまた三十分ほどを過ごすことになったのだった。
最低だよ最低〜!
寒さ、腹痛、嘔吐感、腰痛、目眩、、、そんなにまとめてネガティブ現象がやって来るこたぁねーだろによ、と我が身を呪うのみ。
そのうちまず最初に解消できたのは寒さ、そして目眩。
この二つが解消できただけでも案外気分はポジティブになるものだと、ちょっと感動。
そして、ようやくトイレから這い出て、ベッドに横になって暖房を思いきり効かせて、小一時間ほどするとようやく肉体的周辺が安定してきた。少なくとも腹痛は去り、ジッとしている分には嘔吐感もおさまっている(結局実際に嘔吐することはなかった)。
それでパソコン(ベッドすぐ脇)をつけようと体を僅かにひねったら、「キーン!」という痛みが腰を襲った。あ、動けない、寝返りもうてない、、、。
そのまま動けなくなりました(笑)。
で、今日で二週間ほど経つけれど、ほぼベッドに横になって毎日を過ごしている。
しかし、まったく動けないというわけではないので、時間をかけ、杖を使い、毎日ちょっとづつ体を慣らして、杖を持ったまま原チャリ乗って用を済ませるところまでは回復しつつあるのだけれど、バイクから降り100メートルも歩くと、すぐ家に帰りたくなっちゃうほど疲れる。
でも僕には経験がある。
6年前に脳腫瘍の手術をした後の半年間ほどは杖バイクの生活だったので、ある意味そんな状況に慣れている。後遺症で日常的な目眩も残っているが、よくしたものでその目眩にも体が慣れる。そんなんでバイク乗って大丈夫かとよく言われるけれど、目眩には揺れ幅があるので、その揺れ幅の感覚を覚えればたいして危険はない。通常だったら「今危険」と思う境界を揺れ幅の分だけ拡大して「もう危険」とすればいいだけの話しだからだ。
ただ僕は、その目眩と腰の状態の関係を甘くみていたようだ。
一昨日の晩、お風呂場で浴槽から出ようとした時に、いつもよりちょっと強めの目眩がやってきたのだけれど、それを堪えようと、、、あれ?腰にまったく力が入らない、、、そのままドタンバシャンベタンと、重力に負けてステンレス製の浴槽の淵に両腿と右肩をしたたか打ちつけてしまったのだ。
痛てぇのなんの、バイクで車にはね飛ばされた時の感覚によく似ている(笑)。
徐々にだけれどせっかく腰もよくなりつつあるってのにまったく。
それでもまぁ、医者には行かないけれど。
腰には一応温湿布なるものを貼っているけれど、ホサカ君が医者からもらったという湿布と鎮痛剤を送って来てくれたのでそれも使おうかと思って開けてみたら、それは冷感湿布で、あれ?どうなんだこういう場合、温めた方がいいのか冷やした方がいいのか、、、。
結局、順番に貼っている(笑)。
おそらく思うに、常温じゃなければいいのではないかと、それが僕的結論。
飲み薬の方は二日で止めた。
ジッと寝てる時の軽いずきずき痛みは確かに止まるのだが、それじゃあ良くなっているのかどうか分からないじゃん、と思ったからで、ずきずきを感じながらそれが薄れて行くのを実感するのが正しい方法ではないのだろうかと。
こうして今んとこボロボロの私ですが、高橋みなみの母15歳少年との淫行で逮捕の件はどうなってんだ!といささか気になっているところです。
黙殺&スルーという嘘を吐き続ける大手メディアの思惑。
AKBの賞味期限を切らしたくないという経済原理が働いているのだろうが、そんな姿勢のマスコミを通じてあらゆるものの真実をどうして知ることができるだろうか、と。
これは次回またやろーっと。



高瀬 がぶん

[Web Log] / 02/01 11:25

小澤教授の「ハイゼンベルグの不確定原理に欠陥!」というニュースに接してあわてて前回のコラムに入れてしまったけれど、どうやらちょっと早とちりというか、大きな勘違いをしていたようだ。もっともこの情報は2003年ごろから流れていて、小澤教授は繰り返しこの主張をしてきたわけだったのだが、学界がまともに取り上げてくれなかったこともあって、こちらもつい聞き流してきたという事情がある。それが今回、実験で実証されたことでようやく日の目を見た、というわけだ。いやぁ、本当だったんだ(笑)。

で、ものすごく短絡して言えば、その欠陥というのは、ハイゼンベルグが観測によって起こる誤差と対象物そのものがもともと持っている量子ゆらぎ(これも誤差)をごっちゃにしたまま不確定性を論じていたところだと。

そこで小澤教授は観測によって起こる誤差の方をゼロにすることができる、と主張し、今回見事に実証して見せたというわけだ。

で、「誤差ゼロ」という言葉を聞いて、なんだ、それじゃあ素粒子の位置や速度がバッチリ分かるということなんだ!、、、と早とちり(笑)。

もしそうだとしたらこれはエラいことになる。「神はさいころを振らない」と言ったアインシュタインは正しかったということになり、シュレディンガーの猫はやっぱり箱を開ける前から死んでるか生きてるかのどっちかだったわけで、箱を開けた瞬間生死が決まる、それ以前は生と死の量子もつれ状態にある、、、なんていう小難しい話しも嘘っぱちということになるからだ。

とにもかくにも、この世の中は確定論的世界だったのかよ!と一瞬そう思ってしまった。それだと僕的には色々困るのだ。これまで言って来たことに不都合だから(笑)。

だって、もしこの宇宙の全粒子の位置と速度を正確に測定することができるとすれば、5分後の世界がどうなっているか、原理的には数学的に計算できることになる。これが5分後じゃなくて100年後でも同じこと。かけ算やら割り算やらルートやらサインコサインタンジェントやら、それはそれは複雑この上ない計算だろうけれど(笑)、あの粒子が今この速度でここにあって、あっちからあの粒子がぶつかってきて、あっちへ行って、ああなってこうなって、、、、世界はこうなっている!と。

それもこれも、「出来事」というのは、言わば粒子同士の出会いを意味するからだ。粒子が全くない真空からエネルギーが!なんて言われているけど、それは僕は認めない。そりゃ見かけ上の真空で、「真に空」じゃなかったからだよ、と言いたい。観念的な定義の問題だなこれは。

何はともあれ、そうなると未来はすでに決まっているということになる。

前にも論じたけれど、様々な論理的矛盾を乗り越え(笑)、タイムマシンなるものが発明されたとして、さて1000年先の未来に行ってみよう!と思えば、まず、1000年先の未来がすでにそこに存在していなきゃ行くに行けない、という事態に陥る。未来なのに「すでに存在」という過去形なのが笑えるが、、、。

要するに、この世界が確定論的世界であることが前提でなければ、タイムマシンは永遠に完成されないということになるわけだ。

それに、もし未来が確定しているなら、明日君が誰かを殺したとしても倫理的な責任は一切ない。すでに決まっていたことだからそこに自由意志はなく避けようがない。でも、法的に責任をとる必要はある。不合理だけれど、罪はないが罰はあるということになる(笑)。もっとも、その罪や罰にとかく口やかましいあの全能の神様にとっては、確定論的世界前提でなければ「未来もお見通し」というわけにはいかないので、そのほうが都合がよいだろうが。

で今回の早とちりは、ハイゼンベルグの式を更に補強したということであって、素粒子そのものの持つ量子ゆらぎ(不確定性)を排除できたというものではなかったという点であった。いずれにせよ、素粒子の確定的な速度と位置を同時に知ることはやっぱりできない、ということなのでまずはひと安心(笑)。

混同しやすいけれど、「ゆれる」と「ゆらぎ」は似て非なるもの。

「ゆれる」と言えば、例えば車がゆれる、つまり車という確固たる物質がゆれることで、その車の存在に不確定性はない。

一方、「物理学においてゆらぎとは、広がりまたは強度を持つ量(エネルギー・密度・電圧など)の空間的または時間的な平均値からの変動を指す」(ウィキより引用)。

従って、「ゆらぎを持つ量子」とは本質的に不確定の性質を持つものなわけで、その「ゆらぎ」を排除しようもないわけだ。第一「もの」かどうかもよく分からんし(笑)。


それにしても、こういう話しというのは一般受けしないこと甚だしい。やたら難しいし、そんなことが分かったからと言って日常生活にどう影響するんだ、という思いがあるからだ。

その点から言って、直接我々の生活に影響すると思われるのは企業や銀行のセキュリティ面、暗号(パスワード)とかに関してだ。

現在もすでにパスワード生成に不確定原理の不確定性を利用したものがあちこちで使われているらしいが(だいたいこれがびっくりだよ)、どうやら間もなく実用化される量子コンピュータなるものを利用することで、全世界に存在する全ての暗号やパスワードが解けてしまうということのようなのだ。

それが今回、小澤教授の理論を利用してパスワード(量子暗号)を作ると、量子コンピュータを使って暗号を解いたとたんに結果が変化しエラーとなる、、、というのだからまたびっくり! と言ってもまあ、いずれそれも破られるというイタチごっこが始まるのかもしれないが、、、。

とにかくざっくり言って、ミクロの世界でのわけのわからん出来事は、日常レベルになるとほとんど意味を失う、という実情がある。みかんを放り投げても二つのスリットを同時に通過するなんていうことは金輪際ないわけだし、猫も人間も、常に生きているか死んでいるかのどっちかだからだ。ただし、半殺し状態は除く(笑)。

そうなるとやっぱり疑問なのは、その不確定性や量子の形態の二重性(波と粒子)っていうのは、小から大、いったいどのスケールから有効になったり無効になったりするのだろうか、という点だ。

量子論はこの宇宙全体を説明する。

ミクロからマクロまですべてこれ一本で行ける、という主張は正しいのか?

その結論はまだちょっと先なのかもしれないが、東大の小柴先生だったか「ごくごくミクロな世界を研究するということは宇宙全体のマクロの世界を研究するのと全く同じことなのだ」と言っていた気がする。

その理由は、この広大な宇宙が始まった瞬間(ビッグバン前提)の状態こそが、まさにいま研究している量子論と同じ世界なのであって、それが膨張して今現在の世界を形作っているから、であると。

まさにその主張に見合うような出来事も最近発見されている。

ヨーロッパコマドリという渡り鳥の眼の内部で、量子もつれの状態が実現していて,どうやら渡りに必要な磁気コンパスのような機能に関係している可能性がある、ということが分かったという。実際にミクロの論理が鳥の眼というマクロの世界に深く関わっていることが実証されたのだ。これをして「シュレディンガーの鳥」という。
高瀬 がぶん

[Web Log] / 01/17 1:18


新聞をとるのをやめてからもう十年以上経つ。
新聞をとるのをやめると決めた当時は、なんだかとても不安な気持ちなったことをよく覚えている。
それまで朝起きてメシ食いながら新聞を読むなんてことは、言わば生活習慣の一部に組み込まれていたわけで、それが一切なくなることは、生活のリズムが狂うというか、なんかこうしっくり来ない。
世間に置いて行かれるような感じ、大げさに言えば社会から脱落する感じがちょっとした。いや、とっくに脱落はしてるんだけれどね(笑)。
それと同様に、テレビを全く見なくなってもう3年くらいになる。
そもそもウチにはテレビがない。たまたまその頃に壊れてそのままになっているからだ。
だからアナログからデジタルへ移行するころの世の中の騒ぎとはまったく無縁だった。

新聞もとってないしテレビもない、というと案外珍しがられる(笑)。
しかし、それ以前から、インターネットの初期からずっとパソコンは使っていたわけで、当時も今ほどの量ではないにしろ、それなりの情報は常に入っていたし、あっと言う間にインターネットが広がったこともあって、特に情報に困るという感覚はなかった。
もっとも最初のころはネットの通信料とかに疎くて、テレホーダイシステムに惑わされ、ひと月の請求額が20万円を超える、なんていうこともあったが(笑)。
そう言えば、つい先日、ソフトバンクの携帯電話のパケット通信料として20万円支払わされた人が裁判起こして、結果、勝訴して10万円返してもらえることになったというニュースが流れた。裁判長曰く、業者側も料金について明示してるとは言えない。一方利用者側も細かい規約をちゃんと読むべし、みたいな痛み分けの判決だったのがなんだか人間的で面白い。

今現在、僕的には新聞もテレビももう終わりだろうという印象を持っている。
新聞にしろテレビにしろ、それぞれの企業の独自のチョイスによって囲い込んだ限定的な情報を、なんで一方的に押し付けられなければならないのだ、という疑問を感じるからだ。
ニュースはもう受け手側が選ぶ時代なのだ。
その点、インターネットは優れている。

しかし、なんかこう、新聞とテレビの情報は確かだけれどインターネットの情報はいい加減、というような思いがあるのではないだろうか。
これは間違い。
なんらかの権力の思惑が働いて編集された後の情報を流すのが新聞やテレビのニュース。
整理はされているが、だからと言ってそれが正しいかどうかは、これまた別問題。
一方ネットで流れるニュースにはそんな権力なんてほぼ存在しない。
見たまま感じたまま、未整理の言いたい放題。
だから、その中にはもちろんいい加減な情報、それどころかウソ情報もやたら多いわけだが、それはそれでいい。
どれが本物でどれがインチキなのかは、本来、読み手側の自分が決めるべきなのだ。
なぜなら、それぞれの出来事の現場に自ら立ち会うなんていうことはまずないわけで、媒体を通じて入って来る情報はどんな形にしろ結局のところ伝聞情報に過ぎないからだ。
人に聞いた話しなんだから、どの程度ホントなのかなんて分かりゃしない。
特に、記者クラブを通じた各組織の大本営発表みたいなものを記事にしたものなんて、また聞きのまた聞きくらいの確からしさしかないだろう。
数段階の思惑によって編集されたニュースの恐ろしさはそこにある。

従って、ある出来事に対する情報にとって必要なのは、とりあえず視点の豊富さ、生っぽさなのだ。
そして、この視点の豊富さや生っぽさにかけては、新聞もテレビもインターネットには遠く及ばない。
勘違いしないように。
新聞やテレビこそが、今でいうところの情弱者を作り出しているのだ。
量だけではなく幅も含めての話しだ。
それは原発事故問題に関する状況を見れば一目瞭然だろう。
国家権力や企業の札束偏向情報に操作されているのは、インターネットをあまり使わず、新聞やテレビに頼っている人たちがほとんどだからだ。

、、、、とここまで書いていたら、わー!それどころじゃない!  もう大変な情報が飛び込んできたー!

「物理の基本法則に欠点、名大発見 不確定性原理、成立せず」
約80年前に提唱され、物理学の基本法則とされる「不確定性原理」に欠点があり、成立しない場合があることを世界で初めて実験で見つけたと、小沢正直名古屋大教授(量子情報科学)らのチームが15日付の英科学誌ネイチャーフィジックス電子版に発表した。小沢教授は「量子力学の教科書の最初に出てくる式に、書き換えを迫る成果だ」としている。

で、小沢教授の式を見てみたが、もちろんなんのことやらさっぱり分からない(笑)。
解説をざっと読んでみると、ようするに「観測問題」が解けた、、、というようなことらしい。

ハイゼンベルグの不確定原理では、素粒子の「いつ」「どこに」を同時に知ることは不可能とされていた。

理由は案外簡単だ。その素粒子の動きを調べるためにはどうしても「観測」をしなければならず、そのためには光を当てねばならず、そうすると、その光によって素粒子が影響を受けてしまいその位置を正確に知ることはできない。結局のところ素粒子が観測の影響を受けずしてその位置を知ることは不可能という結論になり、「ある一定の確率」でしか、つまり、「ここからここまでの範囲のどこかにいることは確かだが、一点を指して「ここっ!」と明確に言うことはできない」、、、ということになっていたわけだ。だからこその不確定性原理だった。

それを! 小沢教授が! 「いやいやこうすれば観測の影響を排除でき、確定的に素粒子の位置を言うことができるのじゃ」

、、、とまあ、そのようなことを発見したということなのだ。

素晴らしい! 

何がどう素晴らしいのは今後ゆっくり考えるとして(笑)、とにかく、天動説から地動説へという根本的なパラダイムシフトではないにしろ「地動説とはいうけれどよく考えてみたら結局天も動いているということが分かったので、両動説が正しいのだ」、という発見くらいのインパクトはありそうだ。

ついこないだニュートリノの超光速問題が勃発したと思ったらコレだよ。
あ〜、なんだかわくわくする。

続報を待とう!!


高瀬 がぶん

[Web Log] / 12/31 2:08

もうだいぶ前だけれど、知人のレン君と話しをしていて話題が北朝鮮による邦人拉致問題に及んだ時に、
「そうそう、拉致っていえば、自分も北朝鮮に拉致されちゃうんじゃないかとマジに思ったことあるんですよ」
「え〜、なんで君が!」
「話せば長いんですけどね、、、」

確かに話が長かったので、会話体ではなく聞き取り取材として文章に綴ります。
その当時、レン君は映画会社の東宝で撮影スタッフとして働いていたそうなんです。主に怪獣映画の撮影が多かったということですが、ある時、突拍子もない話が舞い込んできたというのです。
それは、金日成体制当時の北朝鮮の政府筋からの依頼で、「自国で初めて怪獣映画を作ろうとしているのだが、なにしろノウハウがない。そこで、なんとか日本の特撮映画スタッフに協力をお願いできないだろうか」というものであったそうです。
レン君はそのころアルバイトに毛が生えた程度の雑用係だったそうですが、なんか恐ろしそうだけどちょっと面白そうかもしれないと思い、結局、他のスタッフ十数人とその撮影に参加することにしました。

ところで、これは日本国家的には非公式であり、民間レベルで、直接、東宝に依頼があり、社内で希望者を募り秘密裏に北朝鮮への派遣を決定したそうです。
ここでちょっと、後にボク自身が調べたそのへんの事実関係を報告。
その映画とは、知る人ぞ知る『大怪獣・不可殺而(ブルガサリ)』(1984年製作)という北朝鮮における怪獣映画で、特撮監督はレン君たちと一緒に渡朝した日本人の中野昭慶氏。そして現地の総合監督は申相玉という人物。加えて、実質的なプロデューサーは金正日だったと言われている。ところがこの申相玉という監督は、実は数年に渡って北朝鮮に「拉致」されていたといういわくつきの人物。申相玉氏は在北中に幾つかの作品を撮っており、そのうちの一本がこの「ブルガサリ」だったのである。そして、この映画を最後に申相玉氏は脱北している。ところでいま「拉致」という言葉を使ったが、北朝鮮の公式発表では「申相玉は北朝鮮に自らの意思で亡命した」ことになっていて、その時点で、それが拉致であったかどうかは定かではなかった。しかし、脱北後に、申相玉氏は夫婦共著というかたちで、「拉致」から「脱出」までの経緯を『闇からの谺』という本に詳しく書いている。
その後申相玉氏は、韓国で『政治犯・金賢姫 犯罪史上衝撃の大韓航空858便爆破事件 真由美』 MAYUMIという、もちろん反北的な、TV用映画を撮っており(日本ではTBSで放送され、出演者の中には大信田礼子などもいる)、そのために北朝鮮からは裏切り者呼ばわれし、おかげで日本からせっかく大勢のスタッフがお手伝いに出かけたにもかかわらず、「大怪獣・ブルガサリ」は本国では配給されることなくお蔵入りとなった。しかし、その後、密かにコピーが日本に渡り、大阪で劇場映画として一度公開され、その後、レンタルビデオとして売り出された、という、今となっては、まことにレアできなくさい映画だった。

さて、実際、十数名の撮影スタッフが渡朝し、現地のスタッフと一緒に仕事をすることになりました。
場所は聞いたけど忘れてしまいましたが、平壌の近くの山裾の方だったそうです。山の中に突然撮影所らしきものがあるのだそうですが、なにしろ電気の供給も不安定で、撮影の途中でいきなり電源が落ちるというようなことが何度もあったそうです。
その撮影所から車で30分ほど離れた所が彼らの宿泊場所だったのですが、それはなんと金日成の別荘で、とにかく建物内部は宮殿のように豪華で、居間には大型テレビが置かれており、衛星放送もバッチリでNHKニュースも毎日見ていたそうです。さすがに金日成の別荘のことだけはあります。他の一般市民が衛星放送を見るなんていう機会はほとんどないそうですから。特にある日のニュースでは「北朝鮮の工作船が韓国の沖合いに現われ銃撃戦となった」というのをやっていてびっくりしたとのことです。思えば彼ら撮影スタッフは北朝鮮にとってはVIPだったわけです。

ある日の撮影所でのこと。
レン君はスタッフの中でも一番下っ端のほうですから、後片づけやらなにやらで忙しく、気がついてみると他の日本人スタッフがだ〜れもいなくなっていたそうなのです。陽も落ちてるし、あわてて駐車場に行ってみても、そこにはいつもの送迎用のマイクロバスの姿もすでにありませんでした。歩いて帰ろうかとも思ったそうですが、なにしろあたりは真っ暗で、道順さえ定かではないし、街灯なんかもちろんないし、もしかしたら山道で迷子になっちゃうかも、と途方にくれていたところ、後ろからポンと肩を叩かれ、それが現地スタッフの中でも一番仲のいいK君という若者だったので、身振りでバスに乗り遅れて帰れない、という意思表示をしたそうです。現地に入ってからすでに2週間ほど経っていたので、片言の日本語と朝鮮語をお互いに駆使し、なんとか分かり合えたとのことです。するとK君が「ぼくのあとをついて来い」というような素振りをするので黙ってついて行ったそうなのですが、撮影所を出ると、いつもバスが帰る方向とは正反対の方へと歩き始めました。レン君はなんだか不安になり、「おいおい、そっちには何にもないじゃん、山奥に入っちゃうだろが」と独りごちてみるものの、K君はさっさと暗い道を歩いて行きます。
すると、どこからともなく二人の男がスッと現われ、、、「いやぁ、ほんとびっくりしたけど、その二人っていうのは知ってる現地のスタッフたちだった」、、、というわけで、、、レン君は三人の後をついて行くことになりました。それにしても、どこに行くのだろうか?
しばらく歩いて行くと、木々に囲まれた山の中に突然コンクリートの構築物が現われ、それが地下鉄への入口だと知ったときには、「なんでこんな変な場所に駅が?」と思ったそうです。
ズンズン階段を降りて行くと、
「いやぁびっくり、地下帝国みたいな所でね」
と表現したように、そこに巨大で立派な地下空間が出現したそうです。
壁のあちこちには金日成の肖像画が描かれ、彫刻を施した柱が何本も立っている。
そう、ここまで聞いてボクも察しがついたのですが、そこは共産国特有の核シェルターを兼ねている構築物なんですね。ソビエトにも同じようなものがあるし、間違いありません。
で、レン君はどこ行きかは分からない地下鉄に乗せられ、二つばかり駅を過ぎたところで降ろされました。
地上に出てもそこは知らない場所だったそうですが、K君がちょっとそこで待ってろ、というような素振りをするのでそうしていると、K君だけが戻ってきて、さらに五分ほどすると一台の軍用車が現われました。中から軍服を着た人が二人降りてきて、なんだか知らないけど、険しい顔つきでK君と会話を交わし、とにかく二人に車に乗れと指図しました。そのときのことです、レン君が「あ〜、なんかやべぇよ、オレは拉致されちゃって、このままもう一生日本に帰れないかもしれない」と真剣にそう思ったのは、、、。

幸いそんなことにはならず、車は走り続け、なぜか再び、あの無人の撮影所の前で止まり、K君だけをそこで降ろしたそうです。レン君は「なんでこんな所でK君を降ろすんだろ?」と不思議に思ったそうですが、口を挟むわけにもいかず、そのまま黙っていると、さっさと車は発進し、やがて、みんながいるいつもの宿泊所に無事到着したそうなんです。めでたしめでたし(笑)。

ところが翌日、いつも通り撮影を始めると、K君の姿が見えないことに気付き、様子を聞いてみると風邪をひいて休んでいるとのことでした。しかし、その翌日も、そしてその翌日の翌日も、ついに、その後レン君が北朝鮮に滞在している間、一度としてK君の姿を見ることはなかったのです。レン君は短絡して「もしかして殺されちゃったのかもしれない」と思ったそうです。理由は、重大な軍事施設を外国人に見せたから・・・・。なるほど、あり得ないことでもないような気がしてきます。殺されたりはしないかもしれませんが、何らかの処罰を受け、スタッフから外されるぐらいのことはありそうな気がします。

撮影が最終段階を迎えるころになると、日本人スタッフも三々五々と帰国することになったそうですが、レン君はどうしてもK君のことが気にかかり、結局、最後の帰国メンバーとなるまで残ったそうなんですが、K君のことについて現地の誰に聞いても知らない知らないの一点張りで、K君の消息はついに分からずじまいでした。

そんなこんながあって帰国してしばらくすると、一通の葉書が届いたそうです。それはK君からで、自分は元気でやっているから心配するな・・・・というような内容が書いてあったそうです(知り合いに翻訳してもらったということでした)。
しかし、なんだかわざとらしい、と思ったそうです。それがK君の直筆であるかどうかなんてまったく分からないし・・・・それでも、一応、届くかどうかは分からないままにそれなりの返事を書いたそうです。
それからまたしばらくすると、再びK君からの手紙が届きました。でも、その時たまたまレン君は一週間ほど家を空けて仕事に出ていたそうで、自宅に帰って来て、初めてk君からの手紙に気付いたそうです。
そこには、「●月●日の午後●●時に電話をします。こちらの国では勝手に外国に電話ができないので、あらかじめ申し込み、特定の場所から電話をすることになるので、必ず出て下さい」と書いてあったそうです。
しかし、残念ながら、その指定された日時は留守にしていた間のことで、すでに過ぎてしまっていたのです。
それきりK君からのアプローチはないそうです。それにしても、なぜ電話? どうせ言葉も分からないし、元気でやってる? あそう! で終わるだけなのに、敢えて電話をしてくるっていう態度がアヤシー。
そして、その頃なんだか自分が監視されているような気分がして仕方なかったといいます。外に出ると視界の端になぜかスーツ姿の男が入れ替わり現れる、と言ったような、それが単なる思い過ごしかどうかは今となっては分かりませんが、なんだか同じような人物が数回現れたような気がする、とレン君は言います。

レン君はここまでボクに話して、あ、そういえばこんなこともあったと・・・・。
金日成の別荘生活に飽きて、なんとか街のホテルに変えてくれないかと頼んだところ、最後の一週間はそうしてくれることになって、わいわいとみんなでそのホテルに移ったそうなんです。
「毎日地下のバーで酒飲んでたんですけどね、ある時、片言の日本語を喋るスーツを着た中年の男がやってきて、ボクに話しかけるんです」
「あなた、ニッポン人ですね、めずらしいねぇ、こんなところにニッポン人がいるなんて!」
で、どこから来たのか、何しに来たのか、と色々訊ねるそうなんですが、なぜか話が例の地下鉄のことに及び、そこでどんなものを見たのか、しつこく訊ねるそうなんです。
そして、
「トンネルの中間ぐらいに、大きな鉄の扉があったのを見ましたか?」
「いやぁ、気がつかなかったなぁ」
「そうですか、ならいいんですけどね」
「? なんなんですか? その扉って」
「・・・・いやぁ、そのなかには大変なものがあるらしいです」
うーーーん、気になる、、レン君もだろうけど、このボクも。
レン君は断言してました。
「あいつは工作員に違いない。ボクに近づいた時だって、どこ住んでるの? 武蔵小金井?、おあ偶然ね、あの駅の前にあるパン屋さんは私の親類がやってるのよ・・・・とかなんとか、いま思えばあやしーあやしー」
・・・・というレン君の、まるまるな話しでした。
で、どうなんだよ、北朝鮮って国は!!
人なんかさらっちゃいけない!、、、って親に教わらなかったのか!
ん〜、そんなことふつう教えないか(笑)。

高瀬 がぶん

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