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 今、目の前にあるもの(こと)が、明日もあるとは限らない。
昨日まで「嫌だ」と思っていた人(や物事)さえ、状況が変わればアッサリ会わなくなる。本当に、人生は一期一会だと思う。

今あるものが、ずっと継続してあったので、それは永遠にあるのだと思うことは、錯覚なのだと知った。
今あるもの、持っているものを、アタリマエにしてはいけないと、今回の足から首までの故障で知った。

逆に、今までキツイと思っていたこと、世界なんてこんなものさ、と諦めていたことが、そうでもないと、光が射す瞬間があることも知った。

 さて、ドミンゴスさんの笑顔は、元気がなかった私がその笑顔を見て、ある意味勝手に、明るい気持ちになるものだった。
直接会話を交わさなくても、明るくしているだけで、コーヒー一杯を飲みながら、客は勝手に元気になる。

2度めか3度めに店に行った時、隣のテーブルで個性的でオシャレな服を着た、きれいな女性が話をしていた。
その女性はマスターの奥様で、テーブルで会話をしていたお客さん達を送り出した後、ケーキを食べた私に「はじめまして。いかがでしたか。」と話しかけてきた。
バターが程よい香ばしさで効いたしっとりした土台の上に、トッピングしたかぼちゃのタネは、しっとりとカリカリの間くらいの絶妙な食感だった。満足していた私は「おいしいです」と答えた。
「まあ、ありがとうございます。」と奥様。
隣に「うちの奥さんが焼いたんですよ。」とニコニコしたドミンゴスさんが立っていた。

その後、二,三会話を交わしたあと「どうぞ、ゆっくり過ごしていってくださいね。」と、ドミンゴスさんたちは、コーヒーを発送する作業を行っていた。
私は持っていた本を読みながら、ボーッと過ごしていたので、ジロジロ観察することはなかったが、
「はっちゃん、大丈夫? ムリしなくていいよ。」
というドミンゴスさんの言葉が耳にはいった時は驚いた。
というより、素直に感動した。
その後もドミンゴスさんは、奥様を気遣う言葉を何回かかけていた。

私は自分の家族間で、両親が互いを思いやる会話を1度も聞いたことがない。
それどころか、子供として、父が母を罵倒する言葉に何度も傷つき、いっそ一家離散でもしたほうが幸せでは、と思い続けた。
子供というのは、両親の仲が悪いことに、それだけで傷つくものだ

今は両親が悪いとは思わない。互いへの接し方は両親間の問題(学び)で、子供とは別の人生なのだ。
人(子供)は自分の置かれた環境から、他者への思いやり等を学べればいいのであって、今ではその経験もOKではある。

そんなベースがあるものだから、私はご夫婦のやりとりに非常に感動した。
そう、感動なの。「自分もこうだったらよかったなあ」と、センチな気分でなく「まあ、素敵」って気持ち。

もちろん、過去にも仲の良い夫婦は何組かはいたけれど、ドミンゴスさんの年齢の方で「仲がいいなあ」というか「思いやりをもって接しているんだなあ」という実際のやりとりを見る機会は、、、意外になかった。

根底には思いやる気持ちを持っていたとしても、特に男性は、言葉としてそれを発しない傾向があるように思う。
同僚や上司を見ていて、よくそう感じた。

人のことはよくわかるもので、恥ずかしいのだろうとは思うが、言葉にしたところで、命がなくなるわけではないのだから、どんどん、奥さんを褒めたり、奥さんに限らず仕事のパートナー等にでも感謝の気持ちを表現すれば、物事がうまくまわるのに、と感じる男性が大半だ。
どの位置(社会的地位、健康状態、金銭)にいたって、今があるのは自分ひとりでは無理だったのだから。
おだてる必要はないが、ただ、素直に言えばいい。

話しは変わるけれど、家族に優しくても、他人に冷たい人がいる。
ドミンゴスさんは、いつ行っても、お店が「マスターはどこにいるの〜?」と探すようくらいお客さんでごったがえすほど忙しくても、いつも笑顔で「いらっしゃーい」と迎えてくれる。

これを、商売なんだからアタリマエと思ったらいけない。出来ていない店・会社はいくらもある。(私だって、過去に100%できてはいなかった)

また、ある時は、知人の調子が悪くて・・・というお客さんに自分の体験を話し、励ましていた。
「大丈夫、ぼくが今こうして元気に過ごしているんだから。」その人に大丈夫だよ、と伝えてあげてと。

正直、それにもひっくり返りそうになった。
自分の経験を笑い飛ばし、人を励ます。明るくまわりを照らしている人がいる。
私は、それに比べたらトゲが刺さった程度のことで、ナーバスになっていた自分に気が付いた。

お店に行くたび、自分が“閉じて”固くなっていた状態が、だんだん緩んでくるのがわかった。
基本には正しい診断による適切な治療があってこそだけれど、メンタル的な、生き方、考え方、接し方といった部分は、ドミンゴスさんや奥様のはっちゃんをみて学んだ部分が多い。
また、何人かの私以外のお客さんと接したことが励みになり、回復(!?)の後押しになったと感じることがある。

だから、この一連のエッセイは、ドミンゴスさんのコーヒーを「売る」とか、おだてることを意図してはいないことを最初にいっておきます。
ましてや、PRしてよと頼まれたわけでもない。
私が元気になっていく過程を語る舞台が、ドミンゴスさんのコーヒーなのです。