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悩みといえば、最近、ヘンな感心をするようになってしまった。
例の愛読ブログ『伊勢白山道』の裏記事を読んでいると「悩みは人の数ほどあるんだなあ〜」ということ。

ようは、悩もうとすれば、どんな環境でも、立場でも、年齢性別関係なく、いくらでもネタ探しはできるということ。

あと、他人の詳しい環境がわからないから、自分だけがヒドイめにあっているとか、自分は他人より〇〇だとか、どうも多くの人が思っているようだということ。

また、自分が接する人たちとのやりとりで、(自分のことでもあるのですが)「大変」とか、幸不幸の尺度は、その人それぞれなんだなあ、ということ。
面白いのは、多くをもつ人、本人は気づいていないけれど、環境が整っている人ほど、悩むらしい。

高校の同級生が、仕事があって、そこでの環境に不満があるのだけど、言うだけで具体的な対策を立てないから、1年前と同じ話を繰り返している。

私は同級生と似た職場で働く人を知っていて、その人のほうがもっとキツイ条件で働いているのだけれど、同級生はその人の環境を知らない。
また、うちの職場で退職者が数人おり、募集をしたら年明けすぐもかかわらず、すぐに面接希望者が現れた。
仕事を探している人は、正月であろうと関係ない。
知人の環境や職場への応募者の様子を見て、同級生の話を聞いていたら、私は心の中で「仕事しなくても食べていかれるというなら、他の人に仕事を譲ってあげたら?」と思ってしまった。
彼女の業務内容であれば、募集すれば、できる人はまもなく現れるだろうと思う。

悩みグセ、怒り、落ち込み・・・は、外側の環境(仕事の内容、会社、人、家、環境)を変えても、頭の中で発想する大もとのソフトウエアを変えないと、新しいものを持ってきても、悩み(怒り、落ち込み・・・)のネタはつくられる。
そういうもんなんだなあ、と、ナゼか今まで耳にタコができるほど言われてもわからなかったことが、ふと腑に落ちてしまった。
自分がなにをしていたか(発想)、だんだんみえてきて、そうなるとストップもかけられるのだけど、過去が恥ずかしくもなる今日この頃。