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心はTSUKEMENの次なるライブへ。
今度の目標は、ケンタ君側の席をとること。(過去2回は大ちゃん側)
席を見ながらチケットをとるブレイガイドを下調べ中。我ながらすごい集中力。(発売日はまだ先だけどーー)

7月31日以来、思考の半分以上はケンタ君のこと(笑)
仕事中は仕事のことしか考えられないし、木〜日の週末は地震への警戒。
用事の合間には防災用品の補充をしている。

だんだん地震の震源が東北から茨城〜千葉へ南下してきていて、三浦断層、相模湾、東海沖の地震の懸念も私が騒ぐまでもなく、普通にニュースで流れている。
正直、31日のライブは怖かった。ホールの目の前が神田川だったのだもの。

何事もなく無事にライブは終わり、帰宅できて、また仕事に行けて、新たな日々を迎えることが出来ている。
これは凄いことだなあ、と感じる。
凄い確率のなかで生きている気がする。

もっとコンサート(徳永英明)やサッカーにガンガン行っていた頃は、行って(行かれて)当たり前と思っていた。
行かれる体も、お金も、天候や気象の安定も当たり前で、有難いなんて思いもしなかった。

今はBGMでケンタ君の曲が聴けることは、なんて幸せで嬉しいことだろうかと思う。
聴くことのできる健康な体があり、時間があり、いい曲だなあと感動できる自分がいる。
短期間でみれば、1年前も2年前の今頃もそれどころじゃなかった。
長く見れば、今よりもっと健康やお金や仕事、華やかな人間関係・・・があってもそれを嬉しいとか有難いと思えなかった頃より、減った(笑)けど、今のほうが幸せを感じられる。
物や見えるなにがしの量じゃない。

音楽の例でいえば、今自宅で聴くことが出来、感動できる今の状態に、生きている感覚を得ている。
嬉しいなあ、生きているから感動できるんだ、悲しいことも生きているからか、前にあったことも命があったからだよなと思ったりする。

今まで当たり前にしていたことこそが、「普通」と思って気にも留めなかったことが既に幸せな状態であって、今より余計に何かを得ないとなれないものではない。

今、息ができて、喜怒哀楽を体験していることで充分だったんだ。
・・・なんてことを、ここ数日ずっと感じている。