福島第一原発の事故で、東京から岡山に避難した作家の金原ひとみさんのインタビューを読んだ。
<金原ひとみさん>放射線心配、子どものため東京から岡山へ(毎日新聞)

4月、山口に実家のある年上の友人が子供を山口へ避難させたいが、子供達は東京から離れたくないと言っていると悩んでいた。
別の友人はその話を聞いて「自分は避難なんて考えたことがない」という。
メールでのやり取りなのでなんともいえないが、山口へ子供を避難させたいという彼女の考えを否定したかに、私には感じられた。

私は子供がいなくても、自分が避難したいほうだから(苦笑)、自分と夫は東京に残り、生活費を実家に送ってでも子供は助けたいというリスクを負おうとする友人夫婦を悪いとは思えなかった。
むしろ、自分に子供がいて関東以西に実家があれば同じことを思うのでは、と考えた。

この放射能問題の話に限らず、若いとか、健康とか、お金があるとか・・・そういう人全てではないけれど、〜がある人は他人の気持ちがなかなか理解出来ないんだなあと思う。
私は2年前、残業代の不支給、各種社会保険の身加入の会社にはいり、社長や上司、同僚からの嫌がらせで心身の調子を崩したことがあった。
その時に労働基準監督署等への相談やカウンセリングへの相談をアドバイスしてくれたのは、当時は知らなかったけれど末期ガンの人だった。
(数ヶ月休み、転職して生活が落ちついてきた頃に病気のことが書いてある“お別れ”メールが届いた)

苦しいのは自分だけとまわりが見えない私に、遠まわしに「世の中には、もっとつらい思いをしている人がいるかもしれないよ」とか「時が経てば回復するよ(傷は癒える)」というような意味のことを言ってくれた。

それまで仕事もあり、丈夫に産んでもらい、それを当たり前(最低限のレベル)と思い、いざ自分が調子が悪くなっても人のことまで思いが及ばない。
ましてや調子がいい時は、悪気がない(気がつかない)とはいえ、弱者に対してどんな言葉や態度をしていたか。
以来、調子がいい時ほど注意だな、と自己観察している。

痛い思いをして学んだのは、弱者の視点だった。自分がどうにも思い通りに動けないのを体験して、思い通りに動けない人がいるのだとわかった。
そして、それでもまだ、もっとつらい体験をしている人はいるのだと知った。

回復して思うのは、健康、お金、人脈なんでもいいけど、〜がある立場の人間は上から物を見るのではなく、自分より弱い者を守る役目にあるということだ。
例えば、健康がある自分のレベルで物を見る(判断する)のではなく、弱者への影響を考えたら自分は平気でも、会社勤めしているなら空気対策などを提案・実行するとか。
そちらに発想・行動がいくのが本来ではないかと思うようになった。

ましてや子供を守りたいと地方へ避難しようとする母親に対し、逃げただの神経質だと、将来の責任をとれない他人が言ってはいけないと思う。