エディット・ピアフの人生に関わった男性たちが語る芝居の、彼女のエピソードはどこまでが事実かはわからない。
なので、その芝居のストーリーから私が感じたエディット・ピアフ像というのは果たして正しいものかもわからない。そういう前提で、自分なりの見方はこうだった、というのが今日の記事。

エディット・ピアフは非常に多くの男性から愛された女性で、むしろ男性のほうが彼女に振り回されたり、静かに支えるという陰の存在だったようだ。
振り回されても、影で想いを伝えず支えるだけでも、結果別れても、男性のほうが幸せだったのかな、と思った。
乾いた大きな空洞のような心に、与える一方でも。

話しはチョットそれるけれど、よく「モテ〜」とか「姫」とか聞くけれど、自分がホイホイされても仕方ない。
自分「が」好きになれないと(与えることが出来ないと)人生はむなしいと最近思うようになった。
若い頃は傷つくのが怖くて、自分の想いより多く相手に好かれたいと思ったけれど、仮にその恋愛がダメになったとしても、自分が相手を思いやる経験のほうがずっといい。
そのあとの人生に深みが出ると思う、今はね。

話しは戻り、愛されても、大切にされても、自分がそれをきちんと味わい、自分からも出せないと幸せにはなれないのだな、と物語から感じた。
何人もの異性から、愛され支えられている現状を正しく認識し、「もっともっと」と求め続けるのを一旦止め、有難いとか、幸せとか…を味わう時間をもたなければ。

何かを埋めようと相手に求めても、他者にはなにも出来ない。
どんな状況であれ、自分の幸福さに気づいて、自分の心を潤すのは自分しかいない・・・。

男性は、その時自分がパートナーであっても、寂しかったのではないかなと思った。
いくら愛しても届かない。
それでも、ある意味一方通行でも、自分から愛せた経験、それを幸せというんじゃないだろうか。

物語の最後で産んだ子供を捨てようとした女性と子供をエディットは助けるのだけど、そういう人類愛? 的な感情をパートナーにもてれば、どうなっていたのかな。

・・とここまで書いてみたけれど、エディットが悪いと言っているんじゃないよ。
同じ女性として、これは辛いなとか、キツイなという時にそっと寄り添える人がいたら、という気持ちはよくわかる。
辛い出来事があればあるほど、そういう願望はでてくるのだろう。私が彼女の立場だったら、同じように行動したかもしれない。

アドバイスなどいらない、何も言わずそっと寄り添ってくれるだけでいい。そんな存在。
女性をリードしようとするのでなく、そっと包み込む、支えるのが本当の男らしさかと最近思う。
言いたいことはあっても、そこをグッとこらえ聴くに徹する。ね、ステキじゃない?
(と書いているところで、BGMはTSKの寄り添い曲「風の記憶」、お見事!(笑)