いやマジ、こんなことを今さら言うのはなんか恥ずかしいけれど(笑)。
人はいつでも「真理」を求めているものだ。
真の、愛とは何か、正義とは何か、友情とは誠意とは、、、etc

人類はそんなことを数千年も前から懲りもせずにずーっと考え続けていて、未だに答えが出ないのだから、いい加減もう正解は無いんじゃないか? と認めたらどうなんだと思う。
で、それをどうしても認めたがらない頑固な人たちが宗教にハマる。
答えがないと気がおさまらない気の毒な人たちである。
自分は答えを知らない、でも答えは必ずどこかにあるはずと信じ込んでいる。人生経験上、あれが答えじゃないか? これが答えかな? といくつか思い当たる節はあるものの、裏切られたり騙されたり、苦い経験を通して、迷いに迷ってなかなか答えにたどり着くことができない。
それをぼんやり考えているうちはまだいいが、なにか切羽詰まっている状況があって、なんとか答えが欲しいと思うようになるともうヤバい。
そんな時に、「これが正解である!!」みたいなことを、大した根拠もないだろうに自信たっぷりに言い切られたりすると、はい一丁あがり。
変に目からウロコが落ちたりして、「そうだったのかぁ!」とか「やっぱりそうか!」となってしまう。
宗教の一番怖いところがそれ。

そうやって自分が抱いていた重大な疑問のひとつが心理的に解決されると、あとはもう芋づる式のハマり道。今まで疑問に思っているわけでもなかった事柄についても新しい正解が次々と与えられ、本来自由だったはずの心が、知らず知らずのうちに縛られて行き、気付いた時にはすっかり亀甲縛りにされている。
そうなるともう後戻りはできない。
例の、それまでやってきたことを無駄にしたくないという、コミットメントの一貫性を保つ心理が働くからだ。
献財とか苦行とか、、、無駄にしたくない格好の獲物。

しかし、あらためて思う。
だいたい「教義」なんてものは、あれしちゃいかんこれしちゃいかんと、やたら禁欲的なことばっかり並び立てていて、うるさいよほんと。
あれしようぜ!これしようぜ!みたいな楽しいノリがほとんどない。
だから、その締め付けを快感として受け止めることができる信者っていうのは、ほぼマゾだと思う。
他人に決めつけられ操られる感覚、それがきっと気持ちいいのだろう。
自己判断しなくてすむから心は安定するし、ある意味無責任でいられる。
でも、気をつけなくちゃいけないのは、気持ちいいを通り越し、その自虐性が強烈になって、ついにオーガスムに達すると、オーム真理教のような事件を引き起こしかねないという点だ。
余談だが、最初にオーム真理教という言葉を聞いた時に、もしかしてオーガスム真理教の略語かなと一瞬思った(笑)。
で、文字面見たら「オーム」じゃなくて「オウム」だったんでがっかり。

そうそう、よく「オウム真理教なんていうのは宗教じゃない」みたいな言説を見たり聞いたりするけれど、それは違うだろう。
この言い方には「まともな宗教じゃない」という意味が込められているが、では何をして「まともな宗教」と言うのだ。
規模がデカけりゃいいってもんでもないし、罪のない人を殺すような真似をするからまともじゃない、なんていう言い分も当然通らない。それは歴史が証明している、しかも、いつ果てるでもない盛大な殺し合いを演じて。
もっとも「罪」の定義もけっこう面倒臭い。
自分とは違う宗教を信ずる者には罪があると考えるのはまだ分かるが、宗教に無関心な者にも罪があると言い出しかねないので恐ろしいわ。ほっといて欲しい。
オウム真理教がしでかした事件はまさにそれ、典型的な「宗教」の末路だと思う。

理想と現実の乖離を認めようとせず「べき論」で語ろうとするから、物事の本質を見誤るのだ。
話しは逸れるが、似たようなケースで以下のようなこともある。

例えば、ひとたび極悪非道なバラバラ殺人事件が起きたりすると、「人間の所業とは思えぬ、、、」などと。
ここでも「人間はそんなことをすべきでない」という理想が前提になっている。
そんなことはない! いかにも人間らしい所業だろ。というか、人間の他に誰がそんな残酷なことをする? 動物がそんなことをするか? ま、喰い散らかしてバラバラにするのはさておき(笑)。

例えば、「子供が可愛くない親がどこにいる?」などと。
ここでも「親は子供を愛すべき」という理想が前提になっている。
こんなのは、現実とは大きくかけ離れた偽善的な常套句に過ぎない。
いるだろ腐るほど! 毎年100人以上の赤ちゃんや子供が親に殺されているぞ。
さらに言えば、日本人の死因のトップは何か?
癌でもなければ心臓病でもない、残念ながら、それは堕胎だ。

あぁ、また論点がズレて行く。
まだ言わなくちゃいけないことがあるからまた次号で!

高瀬がぶん