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[Web Log] / 08/31 23:25
洗濯物干しっぱなしにしておいたら、なかなか止まぬ雨が降り出して、それでも2日間そのままにしておいて、やがて晴れてすっかり乾いたので取り込んで、シャツを着たら「あっ、雨の匂いがする」、なんかいい感じ。 「はだしのゲン」の閲覧制限が解除されてよかったよかった! ある調査によると、今どきギャルの9割が閲覧制限に批判的だったという結果が出ているそうだ。 で、たぶんだけど、そのギャルたちのほぼ全員が知らない事実もあったりして、オジサンはなんかしっくり来ないのだよ。 そもそも、松江市小中学校での閲覧制限が報道されるや、本の売り上げが三倍に伸びるって、いったいどれだけミーハーなんだろうこの国の人たちは。 「さてさて、どんな残酷な場面が描かれているんだ?」と、そりゃあもう興味津々?(笑)。 原爆被害がどれほど悲惨なものだったかは、「はだしのゲン」をあらためて読むまでもなく、およそのことはみんな知っている。 毎年夏になれば一度や二度と言わず数回、おなじみの被爆写真がテレビやマスメディアに流れるわけで、それを目にしたことのない人(子供も含め)はほとんどいないし、こんなことが二度と起こってはならないと、誰しもそう思うはず。 にも関わらず、閲覧制限になったからといってすぐに「はだしのゲン」に飛びつく人たちが大勢いるって、、、これはアレです、、、ダメだと言われたとたん、どうしてもそれをせずにはいられない体質の関西芸人がいて僕はけっこう好きだけど、それとたいして変わりない人たちってことですね。 そして、そのミーハーたちは最初の何巻かを読んでこう思う。 「確かに子供にとってショッキングな描写も多い。しかし、原爆の悲惨さを伝えることは重要だ! 閲覧制限なんてけしからん!」と。 でもね、今あなたが読んだ第一部一巻から四巻あたりまでの「原爆の悲惨さを伝えている部分」、そこはもともと閲覧制限になってなんかいませんよ! 閲覧制限されたのは、第二部六巻以降の、主人公が思想に目覚め、どんどん左翼化していく部分なのだから。 まず、そのことを知らずして見当違いに正義を振りかざすのはやめといたほうがいい。 自らの情弱を晒すだけだから。 この漫画が「少年ジャンプ」に掲載され始めたころは、僕自身はもう二十歳を超えていて、漫画雑誌そのものから卒業していたこともあり、パラパラと読んだ記憶はあるものの、通してちゃんと読んだことは一度もない。 それにしても面白くはない、決して面白くはない。 それどころか、考えさせられたりためになっちゃたりする。 僕の信念から言うと「ためになる漫画」なんていらない。 漫画は下らなくて面白くなくちゃ意味がない。 と言いつつ、「罪と罰」を手塚治虫の漫画で済ませた自分(笑)。 おまけに、「ゴルゴ13」ではだいぶ世界情勢を勉強させてもらい、うかつにもとてもためになっちゃったりしたが、エロいサービスシーンも必ずあり、エンターテイメントとしてストーリーも完成されているので、実に面白いという点でセーフ。 その点「はだしのゲン」はアウトっぽい。 なぜなら、漫画のくせに、まるで神格化とまでは言わないまでも、教科書扱いされているのがどうにも薄気味悪いからだ。 その薄気味悪さは、無垢ではない大人の「思惑」を感じるからに他ならない。 そもそも「少年ジャンプ」への掲載が終わった時点で完結させておけば何も問題はなかった。 そうすれば、みなさんのおっしゃる通り、原爆被害の悲惨さの記憶を後世に残すための青少年向け優良漫画として誰からも文句は出なかったと思う。 どんな歴史認識を持っていようと落ちたものは落ちたわけで、原爆投下は歴史的事実としてそこに争う余地はないからだ。 松江市教育委員会もそこんところはよく分かっていて、原爆被害が描かれている第一部については閲覧制限をかけることはなかった。 ところが閲覧制限をかけた第二部以降については、歴史的事実であるかどうか、争う余地のある表現が数多く出て来るわけで、、、。 最初に閲覧制限をかけるきっかけとなったのは、一般市民からの陳情があったからだが、その陳情者も第一部については何も言わず、第二部以降のみを撤去せよと言って来た。 陳情者曰く「天皇陛下への侮辱、旧日本軍のありもしない蛮行など間違った歴史認識を子どもたちに植え付ける。図書室から即座に撤去することを求める」 その陳情に応える形だったのかどうかよく分からないが、結果、松江市教育委員会は第二部以降に閲覧制限をかけた。 さすがに撤去ははばかられたのだろう。 但し、その理由はいかにもお役所仕事らしいものになった。 間違った歴史認識かどうかについては一切触れず、 「反戦を訴える価値は素晴らしく、作品を否定するものではない。しかし、各所に暴力シーンなど過激な場面があり、一定のルールを設けるべきだと判断した」 と述べたにとどまる。 でも矛盾してないか? 第一部で描かれた原爆投下の様子だって言わばアメリカによる壮大な暴力シーンであり、見るに耐えない悲惨な姿をあからさまに描いているではないか。 そっちはよくて第二部の旧日本軍が行ったとされる暴力シーンだけが過激とはこれいかに。 つまりこういうことだ。 陳情者は自らの思想に基づく歴史認識との食い違いが気に喰わないので撤去せよ、と言って来たにも関わらず、お役所は「暴力シーン」だけを問題点ととらえ閲覧制限をかけた。 なぜその理由に限定したかといえば、お役所の保身術、「歴史認識」や「天皇」や「思想」や「宗教」などに言及することは基本的にヤバイからだ。 第二部では、旧日本軍の蛮行として、面白半分に人の首を切り落とし、人を銃剣術の的にし、女の腹を裂いて子供を取り出すシーンなどが描かれる。 松江市教育委員会はそれが歴史的事実としてあったかなかったかという問題には一切触れず、その描かれ方の過激さだけを問題点にするというへっぴり腰。 それを読む子供たちは、残酷描写に驚く一方、まず「そんな酷いことを日本兵はしたんだ」という認識を持つだろう。 ませたガキなら、「ほんとうにそんなことしたのかな?」という疑問を抱くかも知れないが、ふつうのガキは「ひどいことしやがる」と、素直にそれを信じるだろう。 では、本当のところはどうだったのだろうか? 難しいところだが、まったくなかったと断言するわけにはいかないだろう。 先の陳情者の「旧日本軍のありもしない蛮行など間違った歴史認識」というのは言い過ぎ。 それはおそらく、ある一定の確率で実際にあったことであろうと想像できる。 但し、それが旧日本軍全体を批判するに値するものであったかどうかは別の問題だ。 なにしろ、この現代社会でも無作為に10万人ほどの人を集めれば、統計上およそ2000人近くが刑事事件の犯罪者なのだから、戦場という特殊な環境を加味すれば、中にはそんな酷いことをした人もいるだろうよと言う話し。 従ってこれは、旧日本軍のみの特殊な事情ではなく、人間はもともと潜在的にそういった愚劣さを持っている、ということでもある。 しかし「はだしのゲン」においてはいささか事情が異なる。 主人公のゲンは明らかに旧日本軍に対し批判的だったわけで、その象徴としてそうした蛮行を例に出したからには、中にはそういう人もいたかもしれない、程度の生易しい話しではなく、旧日本軍全体が常態的にそんなことをしていた、というとらえ方をしているのでやはりそこには議論の余地が生まれる。 フランスの諺で「一冊しか本を読まない人を信用するな」とかなんとかあるらしいが、もしその子供が戦争の歴史について「はだしのゲン」が初めて手に取った本で、それ以外一切読まなかったとしたら、当然のことながらそれを歴史的事実として受け止めたまま成長するだろう。 本来はそういうことこそが問題じゃないのか? 歴史認識ってのは、だいたい「あったかなかったか論争」になるわけで、「あった派」の主張が描かれる漫画が子供たちに広く読まれるならば、同時並行的に「なかった派」の主張が描かれた漫画も読まれなくてはならない。 そうして、子供たちは初めてそこに「歴史認識の違い」があることを知る。 そういう状況が保たれない限り、一方に偏向したものだけを子供に読ませたりしちゃダメでしょ。ましてや義務教育の現場だよ。 それとも、子供がそれを読む度に先生がいちいちついて回って「この漫画ではこういう風に描かれているけれど、それが本当にあったことかどうかということについては色々意見があって、、、」と説明でもしてくれるのか? 松江市教育委員会はそういっためんどくさい論議に巻き込まれるのを避けるために、歴史認識を無視して残酷描写だけを問題にした。 そのへっぴり腰につきる。 もっとも、それに関してはへっぴり腰で正解。 お役所に特定の「歴史認識」や「思想」や「宗教」について積極的にお薦めされたりしたら、それこそたまったもんじゃないからね。 うーん、先の陳情者は少なからず右っぽい人だったかもしれないが、色々事情を知ると右っぽい人じゃなくても「はだしのゲン」の第二部以降はどうなんだ、と疑問に思うのではないだろうか。 なぜなら、「少年ジャンプ」への掲載が終わり、時間をあけて始まった第二部(東京編)以降は、掲載誌が左翼系雑誌の「市民」から日本共産党の論壇誌「文化評論」へ、さらに日教組の機関誌「教育評論」へと続き、やがて作者の体力が尽き未完のまま終了。 これは驚くわ、いや驚けよ(笑)。 お〜い! この閲覧制限された部分、いくらなんでも掲載誌が左に傾き過ぎじゃないのか〜い!? これが小中学生が読むべき、一般の子供向け漫画と果たして言えるのか? そもそも、特定の思想もなくのほほんと暮らしている一般の大人たちだって、ある意味特殊な雑誌と言っていいこの三つの雑誌自体を手に取る機会はまずないだろう。少なくとも僕自身は六十三年の人生において一度もない。 正直、「はだしのゲン」がいつの間にやらそんな雑誌に掲載されることになっていたなんて、これっぽっちも知らなかった。 「少年ジャンプ」の掲載が終わった時点でもうおしまいなのかと思っていた。 それよりまず、「少年ジャンプ」に載っていた子供向けの漫画が、なんだってまたそんな特殊な雑誌に載るようになるわけなの? その時点からもう子供向けじゃなく、特定の思想を持った大人向けの漫画になったんではないかい? という疑問。 それにはそれなりの、子供向けじゃない大人の事情があったりするので、そこもなんかイヤラシイ。 話しは簡単、主人公のゲンが戦後どんどん左翼思想にはまっていき、旧日本軍を批判するだけにとどまらず、天皇の戦争責任を主張し、国歌斉唱を拒否する中学生のゲンの姿も描かれる。 どっちにしても、こうなるともう、さすがに「少年ジャンプ」っていうわけにはいかないだろ。 内容からして、掲載誌は自ずから限定されて行ったと考えるのが普通だ。 掲載誌が、共産党の機関誌→自民党の機関誌→靖国神社の、、、だったらある意味笑えたのに。 ところで、こういうふうに論理を展開していると、僕自身がひょっとして右じゃねぇかと思われるかもしれないけれど、それは大きな間違い。 選挙では三回に二回は共産党に入れるし、自民党に入れたことは一度もない。 といって、共産主義バンザイ、、、ではないよ。 思想は関係なく、政治に大切なのはバランスと考えているためで、共産党の存在価値を大いに認める者の一人でもあるからだ。 いいかげん野郎と言われてもいいし、究極のノンポリと言われるのも悪くない(笑)。 とは言えだ! 思想的に左に偏向している雑誌ばかりに掲載されていた部分を、思想的に中立であるべき義務教育の現場に置くのは、どうしたっておかしい。 ってことは、僕が感じた「思惑」というのは、最終掲載誌である日教組の思惑、、、かも。 だから初めから原爆部分の第一部だけ置けばよかったのだ。 子供に思想なんてまだ必要ないし、もし必要だとしても選択肢がいくつも目の前に並んでいなければならないハズだ。 従って、第二部を自由に閲覧させよ!という意見をいう人の気持ちが分からない。 そのような漫画を推奨することは、まだ無垢である子供の思想を不自由なものにするリスクがあることを承知の上でそう言っているのか、それとも単なる考えなしなのか。 「思想に深く関わる雑誌」に載っていた漫画であることを知ってもなお、親として、自分の子供に自由に読ませたいと思うものなのだろうか? きわめて疑問だ。 とりあえず、閲覧制限ではなく、僕も陳情者同様、第二部以降は撤去すべきだと思う。 それより、最初っから置くなよ、って話しだけどね。 しかし、陳情者のように左だからダメというわけではない、これが右でも当然ダメ。 ようするに「偏向」がダメということだ。 なのに、、、陳情受けて文句言われるのが怖いから閲覧制限して、それがバレてネットで署名運動とかされて、閲覧解除署名が二万名超えたと知るとさっさと閲覧解除するという松江市教育委員会。 それにしても松江市教育委員会のこのだらしなさ、お役所としていい味出してるとしか言いようがない。 「文句が出た? じゃこうしましょ。え?その反対の文句? じゃああしましょ。ん? その反対の反対の、、、あ〜もうわかんな〜い! けど文句は言われたくないなぁ!!」。 モンスターペアレントに屈する学校のお手本を見るような思いがするわ。 この問題がフューチャーされ自由閲覧になった途端、それは、ご自由にどうぞの域を超え、ぜひ読みましょう! みたいな空気が流れるに決まっている、って言うかすでに流れている。 そしてますます神格化が進む。 やだ〜、怖え〜よ。 そうならないために、とりあえず中和剤として、小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」でも置いとくか? 小中学校の図書館に。 いやいや、もう置いてあったりするかも、、、、珍しい右翼の校長のごり押しで(笑)。 高瀬がぶん Add Comment [Web Log] / 08/16 11:45
異常になついあつじゃなくてあついなつ!! 地球温暖化がいかに深刻かよく分かった。 バイト連中があんなに冷凍庫に入りたがるなんて、、、、。 フリーライティングの仕事をしていた時期があった。 その頃はまだパソコンじゃなくワープロで文章を打っていた。 パソコンも既に使ってはいたが、原稿を書くにはやはりワープロのほうが使い勝手がよかったからだ。 具体的な仕事の内容は、編集プロダクションからの注文を受け、セブンイレブンとかローソンとかによく置いてある文庫本を書くことだ。 ジャンルは「エッチ本」「とんでも科学本」「雑学本」「医学本」「ギャンブル必勝法」「オカルト本」「恐怖本」と多岐にわたるが、いずれも一冊400字詰め原稿用紙250枚程度で、それを一人で書く場合にはおよそ3週間というなかなかのハイペースでこなしていく。 同業の仲間もおり、本によっては、それぞれ章を分担して共同で書き上げることもよくあった。 我が家に男と女のライター2人を集め、ワープロ三台並べて鬼打ちするのが常だった。 一冊書くとだいたい45万円程度にはなるので、一人で三週間かけてもけっこうおいしい仕事ではあったと思う。本によっては二週間程度で書けるものもある。 それを三人で書けば当然一週間くらいで書き上がるので、それで15万程度になるのだから決して悪い仕事ではない。 ただ、「とんでも科学本」や「雑学本」の場合は下調べが必要で資料の下読みにも時間がかかるのであまり効率がよくない。 もっとも、資料集めが必要な場合には、発注先から資料本の提供を受けたり、ギャラも2割程度上乗せがあったと記憶している。 その点、効率がよく一番楽だったのは「恐怖本」や「エッチ本」である。 資料調べとかはまったく不必要だし、あとは自分の想像力とスケベ心だけで書き進めることができたからだ。そりゃまあ筆の進むこと(笑)。 特に「エッチ本」の注文が多かったが、ほとんどの場合投稿告白スタイルで、様々な職業の女性(投稿者はたいてい女性という設定)が、色んな場所で色んな人と色んなエッチをするという、それはもうくだらない内容なので(笑)、ほぼ推敲することもなく次々と話しをでっち上げていく。 断言するが、恐怖体験にしろエッチ体験にしろ、出版メディアに掲載されている記事は100%ライターの作り話だからそのおつもりで(笑)。 しかし、同じような内容で何冊も書くのだからそのうち書くことがなくなってくる。 三人分担で自由に書いていると色々重複する部分が出て来たり、特に、主人公となるべき女性の職業設定も、気付いてみると先生や看護婦(今は看護師)がやたら多くなっていたりして、こりゃマズいということになり、ある時考えついた! まず、考えられるだけの職業を100個以上リストアップする。 そして、ポスター程度の大きさの紙を用意して、大きな円を描き、円を適当に分割してその職業全部を書き写す。 そう、ちょうどダーツの的のようになる(笑)。 そして、離れた場所から三人順番に実際にダーツの矢を放ち、当たった職業の設定でひとつの話しを作る。 それを繰り返す。 たまたま連続して同じ職業に当たってしまった人も、これはやっぱりルールだからさ! というわけで、大して意味の無いルールに従い同じ職業で話しを作る。 思いつく限りの職業なものだから色々ある。 それにしても、「土地家屋調査士のエロ話」って、いったいどんなんだー! と自らツッコミたくなるようなケースも出て来て、それがまた意外で面白かったりする。 なんとかアイデアをひねり出し、無理矢理エロ話しに持ってゆくところが楽しい苦労となる。 三人がそれぞれ規定の枚数を書き上げると、内容の照らし合わせをすることになり、重複部分の訂正や、他の二人が意見を言い、エロさ具合が足りないとか、エロ過ぎてリアリティに欠けるとか、、、そしてさっさと書き直す。 書き手の意地とか誇りとかとは無縁の世界なのだ(笑)。 どうせ著者の個人名は出ない。 著者はたいてい「○○研究会編」というような編著となる。 そうやって出来た本がコンビニに並ぶ。 基本的に今でも同じスタイルで書かれた「テキトー本」が何冊も並んでいると思われる。 そうした本に、基本的に増刷はない。 当時は、一作6000〜10000部刷られ、神奈川県内に2000件ほどあったコンビニに、3〜5冊程度ばらまかれ売り切りを目指す。 一店舗当たり3〜5冊程度なら、まぐれでもなんとか売れそうな感じ、、、ではないか。 中にはその2倍くらい刷られた本もあった。 「学校の怪談」や「トイレの花子さん」とかは、二ヶ月後映画化されるんでその前に急いで!! という注文だったので、やっつけで書いた記憶がある。 中身は小中学生の投稿スタイルなので、子供思考に戻って書くのだが、それもまた楽しからずや(笑)。 ペーパーバックライターにはモラルなんてない。 というか、世に氾濫している出版物にはほとんどモラルなんてないのではないかと思われる。 ひょっとしてこのコラムは内部告発?掟破り?かもしれないが、面白いので書いちゃってます(笑)。 タレントや著名な医者のゴーストライティングもする。 タレントの場合は、広告の裏側やノートの切れ端やティシュ(笑)などに書かれた数百枚のメモ書きを渡され、それを一冊の本にまとめあげる。 医者の場合は、編集プロダクションからその人物が過去に出版した10冊程度の書籍がまとめて送られてくる。 で、注文は、その十冊の中から様々なデータを寄せ集め、新しいコンセプトを立てて一冊の新しい本にして欲しいと。 かと思えば、大手出版社が発行しているメジャーな旅雑誌(これは今でも発行されている)の体験旅日記という仕事もあったが、書いていてさすがにこれは気がひけた。こんなんでいいのか!と。 その時の仕事は、25歳のOLと40代の主婦の一人旅日記、、、という設定。 そのどちらの目的地も、僕はまったく行ったことがない場所。 しかも、発注元の条件として、現地にライターを派遣するほどの予算はないので、取材はすべて電話で済ませること(笑)。 あらかじめ受け取っている資料を元に書くのはもちろんだが、それはあくまで過去のデータなので、現状がそれと一致しているかどうかを電話で直接確かめる必要があるからだ。 そうして、空想上旅人が立ち寄る店や現地で会うしかるべき人たちに電話取材を行い、あたかも見て来たような嘘を、それぞれの女性に見合った筆致で書いていく。 あとは、適当な写真データを添えて、はい出来上がり。 その一環として清水次郎長の家に電話したこともある。 電話に出たのは次郎長の末裔の奥さんで、旦那が病気で倒れて入院生活が長く、商売のお土産屋さん(次郎長関連グッズ中心)を切り回すの大変でやんなっちゃうと、なぜかひどくぼやいていたが、そんなことは書けない(笑)。 それが実際に旅日記として雑誌に掲載される。 それを読んでいる読者は、まさかそれが創作であるとは思うまい。 そうやって記事が作られていることを知ったら怒るだろなー(笑)。 果たして、今もそうなのか僕は知らないが、たとえそうであってもたぶん何の問題も起きない。 高瀬がぶん [Web Log] / 08/01 12:07
富士山頂上付近で迷子犬がいるという情報がネットで流れ、シーズンオフになる九月までになんとかしてあげないと死んじゃう!と多くの人たちが心配したそうだが、先日無事に保護されたというニュースを見てほっとひと安心。 まるでキツネのように痩せ細っているけれど、なんとか回復しそうでよかったぞ、世界文化遺産犬!(笑)。 そんなニュースに触発されて、、、。 深夜二時ちょうど。 山頂を目指して富士山五合目吉田口のこみたけ売店を出発。 あいにくの曇天ながら、裾野に広がる樹海ぐらいは見渡すことができる。 初めての富士登山、山の地肌は遠くから眺める富士山とは大違いで、なんだか無愛想なほどに味気ないが、大きく開けた視界の壮大さにはやはり大感激だ。 かなり軽快な足取りで歩を進め、前を行く登山者をどんどん追い越し、あっという間に六合目の富士山安全指導センターまでやってきた。 ところがそのあたりから体調に異変が! イテテテテ、腹が痛い、またなんか腐りかけた物でも喰ったか? やむなく一時中断! あわててトイレに駆け込み、用を済ませてから再び登山開始。 いくつかの落石避難用シェルターを抜け無事八合目まで到達するも、それからちょっと進んだところで今度は道を見失い遭難。 救助はいらないけれど、とにかくどっちを向いても一歩たりとも進める道がない。 しばらくもがいてみたところでギブアップ、今夜の富士山登頂をついに断念。 ったく!せっかくGoogleアースのストリートビューが、富士山五合目吉田口〜頂上まで完成して発表されたというのに、、、おーし、また明日、五合目から再出発するぞ!、と言う話しは置いといてと。 左足の親指の先っぽあたりが痒くて仕方がない。 で、親指を掻いてみるが、いやここじゃない。 痒いのはもうちょっと先、親指の爪の先から10センチ程度先の、つまり自分の体からはみ出た中空あたりが無性に痒い! こんな奇妙な話しを聞いたことがあるだろうか? 僕はない、話すのも初めてだし(笑)。 でも、よく似た話しは実際にある。 幻肢痛。 あまり聞き慣れない言葉かもしれないが、この現象にものすごく惹かれるものがある。これは、交通事故などで左脚を膝から切断した時などに起こる、既にないはずの左脚の指先が痛いというような症状だ。 無いはずの指先が痛い? そんなバカなと思いがちだが、感覚的な意味でその痛みは実在する。 切断された膝から数十センチ離れた中空に痛みを感じるのだ。 どうやら、人間の脳は案外頭が悪い、というか反応が鈍いものらしい。 その点、自分(心)のほうは機敏に反応する。 一目見て膝から下がないことが分かるので、当事者の心は、ああ酷いことになった。これからどうやって暮らして行けばいいんだろう、などと、一瞬にして全てを理解する。 一方、脳の方は「膝から下がない」という現実を理解するためにかなりの時間を要するものらしいのだ。 もちろん全ての事例がこれに当てはまるわけではないが、とにかくそういうことが比較的よく起こるというのは事実。 昨日まであった左膝下なものだから、脳のやつはついうっかりして、当分の間は空間認識的に「膝下もまだある」と判断し、ないはずの指先が痛かったり痒かったりするというわけだ。 その判断は明らかに誤っているが、暫くの間はそうした現象がつづき、聞き分けの悪い脳に対し、心が日々語りかける。 「もう左膝下はないよ、ないんだからね!」 そうして何日か何ヶ月かを経て、脳もその現実を悟り、やがて幻肢痛は消えて行く。 脳はそうしたうっかりを犯しやすく、また騙されやすくもある。 例えば、片腕(左としよう)麻痺の患者のリハビリなどにそれが見られる。 テーブルの上に右腕を置き、左側に鏡を立てて置き、あたかもそれが左腕に見えるような位置に調整する。 動かない左腕はテーブルの下にダラリとさげたままだ。 そうしておいて、右腕を動かす。 すると、当然鏡の中の一見左腕に見える右腕も同じように動く。 心ではそれが単なる鏡像であることを知っている。 ところが脳は、「あっ、左腕が動いてる」と勘違いする。 子供騙しの手品のような簡単なトリックに引っかかってしまうのである。 自分の心が自分の脳を騙す。 その勘違いを何度も繰り返えさせると、ついには麻痺していた左腕が、勘違いで動くようになる。 あとは一生勘違いさせたままにしておけばいい(笑)。 こうした心身問題とか心脳問題を一般的に「意識のハードプロブレム」と言うらしいが、文字通りハードな問題で、今のところ何が何だかよく分かっていない。 というか、それはいつか解ける問題なのか?ということも分かってはいない。 もちろんここでは「科学的に分かるかどうか」という意味だけれど、そもそも科学に馴染む問題なのかどうかさえ不明だ。 自分が感じる、あの「痛さ」の痛い感じ。 自分が感じる、あの「赤さ」の赤い感じ。 自分が感じる、このような「世界」の感じ。 こうした感じを他の皆も感じているだろうけれど、それは自分の感じ方と同じなのかよく似ているのか全く違うのか、、、それを知る方法はない。 ってなことを、昨今流行の「クオリア」で色々説明しようとする人もいるけれど。 科学的に分かるということは、現象を数値化して定量化するということ。 脳の方はニューロンやらシナプスやら電気信号やら、還元主義的に事細かに分類整理できているようだけれど、心を数値化し定量化することなど科学の進化とは無縁で、そんなこと出来る筈もないと信じている自分がいて、だから、心をあたかも数値化するような「心理学」はどうしても信用することができない。 いや、パターン認識的にはかなりの確率で心理学は正解を導き出すかもしれない。 でも、必ず正解であるというわけではない。 だいたい当たっているからいいだろう、ではダメなのだ。 科学は何度やっても誰がやっても必ず同じ答えを導き出すことが絶対条件だからだ。 一回でも違った答えが出れば、その理論は破棄されるか、少なくとも修正が必要になる。 だから心理学は科学ではない。 その証拠に、「脳科学」という言い方があっても「心科学」という言い方はない。 もっとも、心理学は科学であると、誰も言ってないか(笑)。 そもそも、いくら脳みそを解剖して部分部分に選り分けてみても、部分の合算=全体という還元主義的思考法だけでこの世界を理解しようとする試みは、もはや限界にきているわけで、部分の合算+αが全体なのだとなれば、そのαの正体がいったい何なのか? それは科学的手法で解明できる種類のものなのか? それこそがハードな問題となる。 今のところ部分の合算+謎=全体とでもしておく他はない。 話しを元に戻す。 その幻肢痛について僕はちょっと期待を寄せている部分がある。 「おいおい、ひょっとしてそれって、超能力みたいなもんじゃねぇのかー!」っていう思い(笑)。 なぜなら、既に無い足の指先が痛いという感覚が実在するということは、現在の自分の肉体の外部へと感知能力が拡大していると、無理矢理解釈することも可能だからだ。 もちろん、肉体の外部と言っても、所詮「昨日まであった肉体の場所の痛み」だから、今のところ慣れによる単なる勘違いというしかないが、だからといって勘違いにとどめておくのももったいない気がする。 感覚が肉体をはみ出るという事実だけをとらえれば、ひょっとしてこれは、訓練次第でもっと離れた場所の、いや壁の向こう側の、自分の肉体とは遠く離れた場所に、自分の感覚を置く事が出来るということになりはしないかと。 そうなれば、勘違というよりむしろ感知外というべきじゃないかと(笑)。 この訓練にはたぶん二例目の「鏡を使った錯覚訓練法」が有効になるやも知れぬ。 根拠なんかないけれどそう思う。 テレパシー? 透視術? いやはやこれは期待できるかも〜。 ところで、「幻肢痛」があるなら「幻肢快」があってもいい。 既にちょんぎられたアソコの先っぽが気持ちいい、、、とか。 無理か? ある筈なのにないも同然という人はいっぱいいそうだが(笑)。 高瀬がぶん |