比較的新しいパチンコ台の「CR冬のソナタ・Final」を打った。
今さら冬ソナでもないだろうにと思いつつ。
この会話が始まるとプレミアム! というリーチで大当たり!
チュンサン「好きな動物は?」
ユジン「私は犬かなぁ、あなたは?」
チュンサン「ひと、、、」
ユジン「
とまあ、ドラマの方は一度も見たことがないので分からないが、どうやら名シーンらしい。
でも、これじゃ面白くないなと思った。
チュンサン「好きな動物は?」
ユジン「私は犬かなぁ、あなたは?」
チュンサン「ひと、、、で」
ユジン「きゃあ気持ち悪い!」
これだったらウケるのに、、、と妄想してしまった。
バカだわオレ。
それにしても韓流ブームってのは「冬のソナタ」を超えるものはなかったなぁ。

十年ほど前の新聞の小さな囲み記事を思い出した。

横浜のみなとみらいの遊園地にある観覧車の下で、なにやら挙動不審の中年男がいた。
閉園時間を過ぎて夜中が近いというのに、何をするでもなく途方に暮れたようにぼっと佇んでいた。その様子を目にした誰かが通報したのか、それとも巡回中の警察官の目にとまったのかは定かではないが、とにかくその男は交番に連れて行かれた。
しかし、その男は自分がどこの誰なのか、どこからやってきたのか、なぜ観覧車の下にいたのか、それらを全く覚えていなかった。
理由は分からないが、完全な記憶喪失に陥っていたと記事は伝えていた。
その後、数日か数週間かは忘れたが、経過報告のようにして今一度その男についての小さな記事が掲載された。
何を聞いても覚えてはいなかったが、言葉の訛りから出身地域にあたりをつけ、そちらの管轄署に家出人届けを照会したところ、運良く素性が分かったということだった。
確か、静岡県のどこそこの町の人で、突然姿を消した家人の捜索願いが提出されていたことで本人確認ができたという話しだった。
記事はそれで終わっていたのでその後どうなったのかは知らないが、おそらく無事家へ戻ったことだろう。
もっとも記憶も戻ったかどうかは知る由もない。
なぜ静岡から横浜にまでやってきて、あえてその観覧車の下で佇んでいたのか、それは謎のままだという。
いわゆる、自分の過去の思い出やエピソードをすっかり忘れてしまう、全生活史健忘という記憶障害。

このニュースをなぜ思い出したかというと、五月末に書いたコラム「失われた時間」にあるように、僕自身がほんのちょっとだけど、記憶を失っているからだ。
事故で意識を失う直前の、おそらく五秒程度の記憶が全く抜け落ちている。
従って、事故の危険を察知するということもなく記憶は途絶えている。
意識を失っている間の記憶がないのは当然だが、意識を回復したのちの数十分間の記憶も曖昧だ。
自分の人生の中での数十分程度の記憶がすっ飛んでいるというだけでも、かなり気持ち悪くて、なんとかして思い出したいと努力?するのだが、今のところ思い出す気配はない。

だとしたら、このニュースの男のように自分の過去の全記憶を失ってしまった人は、いったいどんな気分なんだろうと、そのことが気がかりでならない。
僕の場合は、継続的な記憶の歴史にぽっかり小穴があいたみたいなもので、いや、だからこそ気持ち悪くてなんとかその穴を埋めたいと思うのかもしれないが、いさぎよく過去を全部忘れてしまった人は、案外さっぱりしていい気分なのかもしれないとも思う。
誰だってひとつやふたつ忘れてしまいたい過去はあるわけで、言葉のあやじゃなく、人生を最初からやり直すことができるなんて、かなりエキセントリックな体験に違いないけれど、ある意味魅力的でさえある。
記憶喪失が長時間治らないという人のために、法律的にもちゃんと決まりがあって、いつか過去を思い出すまでの間、仮の措置として、新しい戸籍や姓名さえも取得することができるという。
まったく別人として生き、結婚したり運転免許をとったりすることも可能である。
もちろん、一生過去を思い出すことがなければ仮ではなく正式なものとなるわけだが、、、。
もしある時過去を思い出したとしたら、仮の戸籍や姓名も元に戻せるということになっているらしい。
ただ、人間の頭っていうのはいったいどうなっているのやら、古い記憶を取り戻した瞬間、記憶喪失が始まって以降の新しく蓄積された記憶は全部失って、上書き保存されてしまうこともあるというからややこしい、記憶っていうのは本当に不思議。

ものを忘れるというのは、人間の脳の欠陥ではなく機能のひとつであるという。
生活の知恵として、それはよく分かる。
自分にとって大切な人を失った場合、時間の経過が記憶を少しずつ奪い、悲しみの濃度が薄れていく。
忘れるわけではないけれど、衝撃の鮮度が落ちることによって気分は楽になる。
そうじゃなきゃ長い人生やってらんねぇ、ということなのだろう。

一方、病的に忘れる機能を失う人たちもいて、それがいわゆるサヴァン症候群と言われるもので、記憶に関する特殊技能を発揮して見せたりするわけだ。
記憶がどんどん蓄積されて、そのうち脳がパンクするんじゃないかと心配になるが、カレンダー人間はカレンダーだけ、音楽人間は音楽だけ、というふうに、一点集中で記憶を蓄積するだけなら大丈夫ということなのだろうか、よく分からん。

僕らはふつう、大切なことは覚えていて、たいして意味のないことはすぐに忘れる。
と、そういうふうに思っているが、それがそうでもないから面白い。
記憶と事の重要性は直接的には関係ないのかもしれないと思う。

駄菓子屋のおばさんの左目尻の小さなホクロ。
五十年以上も前、僕が小学三年生くらいの時に、当てくじで四等(はずれ)を引き、小さな赤い飴を手渡すおばさんの顔の記憶。
その出来事は僕の人生にとって、ほぼなんの意味もない。
その駄菓子屋には毎日通っていたし、特等も数回引いているわけで、あえてその四等を引いた瞬間のおばさんの顔を覚えていてどうすんだ、という話しなのだけれど、なぜか鮮明に覚えている。
逆に、特等を当てたという記憶はあるものの、その時の映像を頭に浮かべることは今となっては全くできない。

そういうふうにして、今こうしてとりとめのない子供の頃の記憶を思い起こそうとすると、、、ビスケットに描かれた国会議事堂の絵柄、レの音が出ないハーモニカ、思い出せない誰かの葬儀の時に祭壇の裏で発見した五円玉、パチンコ好きのオジサンがくれた景品の安っぽいチョコレートの匂い、小学校の教室の一枚だけ割れている窓ガラスの割れ残ったガラスの形、、、そんなものが、無意識のうちに次々と浮かんでくる。
しかも、どれもこれもがエピソードとも言えぬ、その後の僕の人生に影響を与えるものではあり得ないほどの些細な出来事ばかり。
どうしてそんなものが脳ディスクに残っていて、今さらダウンロードされるのだろうか。
もちろん、僕にとって特に印象的な出来事は、それはそれでちゃんと覚えてはいるのだが。
思い出すものと思い出さぬものがある以上、その記憶の淵に何らかの意味があるということなのか。
それは僕が無自覚なだけで、何十年も経った今も記憶に残っているということは、そういった一見無意味に思える些細な記憶の積み重ねこそが、現在の僕という人間の人格を形成していると考えるべきなのだろうか。

人間は歳をとればとるほど過去の記憶にしがみつく。
未来の時間はどんどん減って行くのだから、それは当然と言えば当然のことだ。
いつか、自分の人生の出来事の思い出せる限りのことを思い出すことにトライしてみようと思う。
時系列なんてどうでもよい、果たしていくつのエピソードを思い出すことができるだろうか。
人生の全てを思い出すという、死ぬ間際のフラッシュバックなんてあてにならないからね(笑)。
ただ、本当にフラッシュバックが始まったとしたら、どんなに危篤だろうと僕は永遠に死ぬことはない。
フラッシュバックの最期の死の瞬間を迎える時に、再びフラッシュバックが始まるはずで、そのループはいつまでも続く、、、はず。




高瀬がぶん