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[Web Log] / 03/16 3:16

持ち上げといて、ドーン!! 持ち上げといて、ドーン!!
マスコミってのはタチが悪い、いっつもこれだよ。
佐村河内氏しかり小保方氏しかり。
それに乗っかってやたら褒めてはけなす連中もどうかと思うわ。
そんなわけで、僕としては、佐村河内氏はアレだから仕方ないけど(笑)、小保方氏に関しては、ドーン!!情報に惑わされることなく、なんとか擁護できないものかとあれこれ考えてはみるものの、これがなかなか上手くいかないので困る。
今のところ彼女を全世界で唯一(笑)擁護しているのは、例の武田邦彦おっちょこちょい博士ぐらいなもので、「画像の貼り違いは、眠たかったからと言えばいい」などと、それこそ眠たいことを言っているが、そういう苦し紛れの言い訳は、実は小保方氏の「単純なミスです」と実質的には大して変わらず、そう発言することで、それが恣意的ではなかったと言いたいのだろうが、事の重要性から鑑みて、せめて「複雑なミスです」くらいは言ってもよかったんじゃないか?(笑)

やっぱり、一旦持ち上げられた人が凋落して行く様は、いわば「メシウマ」というやつで、みんな大好物だろうし、特に今回の騒動はストーリー展開として見ていてとても興味深い、というかはっきり言えば笑っちゃう出来事ではある。
いや僕だけじゃなくみんなそうだろ?
「まじかよー!」「あらやだ!」と半分ニヤけながら、佐村河内氏や小保方氏の報道から目を離せない、というのが実情じゃないかと思う。

それにしても最近のテレビ(ま、ネットでの動画で見てるのだが)で一番面白いのは生中継による○○会見の様子。
なんと言ってもリアリティが秀逸で、テレビ番組のインチキドキュメンタリーなんて目じゃないくらい面白い。
その反面、これがあとでニュースになったりする時には、必ずテレビ局のバイアスがかかって、局の意向に添った編集内容になるのが見ていて耐えられない。

というわけで昨日ニコ生で(3/13)見ましたよ、理化学研究所&調査委員会の会見。
四時間超えの会見だったらしいが、途中から気がついたもので後半の二時間程度の生放送を視聴した。
今回の会見は疑惑の当人ではなく、調査委員会が主体だったもので、出席者全員かなり余裕をかましていて、佐村河内謝罪会見ほどの生々しさもなく、全体として落ち着いた雰囲気であった。
記者たちの質問も相手が本人じゃないだけに鋭さを欠き、たとえ突っ込んだ質問をしても「中間発表ですから」と諌められるのがオチで、なんとなく消化不良の様相を呈していた。
本音を言えば「やっぱり本人じゃなきゃつまんないよ、出てこ〜い!」と言いたいところなのだろう。

ネット上では既に小保方氏は佐村河内並みの扱いで、ほぼ真っ黒決定の感があるけれど、実際はどうなのだろうかと、調査委員会メンバーの話しに慎重に耳を傾けた。
そして僕なりの結論。
ん〜、小保方氏、色んな意味でやっぱりダメかな。
調査委員会メンバーから「未熟な研究者」という評価が下されたが、それは甘い、「人間として未熟」と言ったほうがよい。

論文に掲載した画像は、加工修正したことがこの日公表されたが、これについて小保方氏は「やってはいけないことという認識がなかった」と述べたという。
本当にそうだろうか? いくら人間的に未熟とは言え、とてもじゃないが信じ難い。
研究成果の主体となる重要な証拠画像に修正を加えたり加工することに、本当になんのためらいも感じないのだとしたら、心の底からバカか、確信犯として心が腐っている人間だとしか言いようがない。
好意的に推測すれば、彼女は駐車禁止を犯す程度の悪意の認識で、「ちょっと気が引けるけどまわりはみんなやってるし、まっいいか」、せめてそのくらいの罪悪感はあったと思いたいけれど、今回の行為はその域を遥かに超えていて、これでは、「駐車禁止」どころか、「車で人ひいて殺しちゃったけど、毎年いっぱい死んでるし、まっ、いいか」って言ってるようなもの。
なんせ、STAP細胞誕生を示す決定的な証拠となるべき画像なんだからさ!

彼女がそういう軽薄な行動に出たということは、案外、科学論文の世界ではよくあることなのではないか、という推測も働いてしまう。
もちろん、今回のことで多くの科学者たちは「あってはならないこと!」などと真っ正面から言い切ってはいるが、実際には「研究者の落とし穴」として、自分の研究や実験の成功を求めるあまり、その過程で発現した不利な現象などを敢えて見過ごしたり切り捨てたりすることがある、という心理学的な話しを聞いたことがある。
端的に言えば、自分の期待に添うよう、恣意的にデータを扱いがちになるということだ。
そのへんが武田邦彦流に考えれば、科学論文の世界ではよくあること、、、みたいなことになって、、、それが行き過ぎると、「バレなきゃいい」になってしまう。
そうだけれど、でも「バレちゃったらダメ」(笑)。

この騒動のトータルとして僕が信じられないのは、その研究成果がノーベル賞に値するかもしれないくらいの偉大なもので、そのことについては本人も当然自覚しているはずで、さぞや世間の注目が集まるであろうことも当然予想されるにも拘らず、すぐバレるような嘘(画像の修正など)をついたり、信用性に関わる重大なミスを犯すという、そのうかつさ軽薄さである。
「なにやってんだよおい!」
いくら誰かに先を越されるか心配なのでつい焦って、という思いがあったとしても、超えちゃいけない一線ってものがあるだろがよ。
あっそうか、本人はその一線が見えてなかったと、、、ま、言い分として(笑)。
でもさ、注目するのは一般人だけじゃなく世界中の優秀な科学者たちなんだから、そんな安っぽい嘘すぐにバレるに決まってるだろが!

ところで、博士論文でのコピペ疑惑は?
この言い訳がまた苦し紛れに聞こえて仕方ない。
米国の知人にこういうメールをしたと伝えられている。
「世間に流れている論文は下書きですから」
なによ、下書きなら丸写しコピペもオッケーっていうわけ?
そうじゃないよね?(笑)
次のいい訳はこうなるだろう。
「下書きをそのまま本編にするつもりはありませんでした。当然本編では、引用したものは引用一覧に加えるつもりでしたし、、、、」と。
これで一応筋は通りますし。

ある意味、引用は必然と言える。
科学者が何か新たな発見をした時に、新旧の説を比較するために、かつてはこうだったということを併記するケースも当然考えられる。
その場合、そのかつての知見の多くについては自らが体験したものでないのも当然で、そうなれば「周知の事実」として誰かがどこかで発表したものを引用する他はなく、その引用一覧を載せれば何も問題はないということになっているようだ。
今回問題なのは、その一覧に書かれていない無断引用があったことで、それはあたかも持論を述べているように思わせてしまうことになり、そこがどうしても引っかかる。
なんといってもその無断引用の「こっそり具合」が研究者としての品格を貶め、ひいてはSTAP細胞の存在そのものの疑惑まで生んでいる結果となっている。

この騒動、悲劇的な結末を迎えなければよいが、、、と、けっこうマジにそう願っている。

なんて言ってるそばから、、、小保方氏が博士論文取り下げというニュースが!
もはや博士でもなくなるということか、、、十分に悲劇的だなこれは。

いずれにしても、なんかピュアじゃない人の話しばかりでイヤになる。
ということで、ここでピュアな人の作った歌詞と、散文を無断引用(笑)。
女性、31歳、彼女は友人の娘で、精神に大きな問題を抱えているけれど、とても素直でいい娘です。
(以下、原文ママ。漢字使いやアンダーラインも含め)

「桜の雨がふる頃に〜君を想う〜」

誰もが もがいてる
目が覚めて 君の声 耳澄まし 音符の迷路
幻に ときめく
モニター MISSION
ふるえる heart
memory チャージ
君への想い


「はじまり」

本との出合いで 心のゆがみがわかった
その本は心理テストけん美学で コンビニがゴール
必ず変になる まほうにかかった人は それがどういうことかがわかる
いしのつよさで 80%負ける よく調べてある
読みかたによっては そうとれるでしょう
誰でも大かんげい 入るには モストって言う曲も 
エスプレッソと周りのあたたかさが必要
その人についてよく調べてから はじまる 心にすぐくる
だから悪いことは出来ない 悪用も出来ない
誰が入ったか 室内の空気だけ 物の位置でわかるくらい
人の心をあずけっぱなしのゴミ箱だった

[Web Log] / 03/01 4:05

ダイビング

海は地球表面の三分の二を占めている。
だから海を知らなければ地球の三分の一しか知らないことになる、ってか。

バリ島の沖合で起こったスキューバダイビング中の事故。
この事故は、ドリフトダイビングで合流ポイントで浮上したが、待っている筈のボートがどこにもいなかった、ということから始まった悲劇であった。
このニュースを聞いて思い出したことがある。

昔々あるところにでしたとさ。
そのぐらい昔の話しだけれど、友達夫婦と僕ら夫婦の4人、もっとも両組とも離婚済み(笑)が、スキンダイビングにハマっていた時期があって、しょっちゅうあちこちの海に潜りに行っていたことがある。
といっても基本的に近場が多く、稲村、江ノ島裏の岩場、葉山の名島、一色海岸などをウロウロしているだけだったが、どこも透明度がせいぜい4〜5mほどしかなく、常に不満を抱いている状態が続いていた。

飽くまでスキンダイビングが目的で、スキューバダイビングをする気にはなれなかった。
そもそも湘南の海でタンクをつけて自由に潜れる場所なんてないからだ。
あるとしてもダイビングスクールが漁協から許可を得た極めて限定的なエリアしかない。
それじゃ面白くもなんともない。
それに、このへんの海ではタンクどころかウエットスーツ着てスキンダイビングしているだけでも、漁師さんたちから怪しい目で見られるのが実情である。
要は、トコブシやサザエやたまにアワビやタコなどを勝手に採ってはいけませんよ! というルールが敷かれているのだ。
もちろんウエットスーツを着ていなくても、勝手に貝類などをとるのは違法である。
特に葉山の名島などは監視が厳しく、シーズンともなると常に漁師さんか県の職員が乗り込んだ監視ボートがあたりを回っている。
それで、海面に上がって来た者がサザエ五個程度を袋に入れているのを見つけると、その場で全部没収!
おまけに、海面に浮かんだままボート上から差し出された始末書にサインさせられる始末(笑)。
そんな光景を実際何度も見ている。
だから、ちょっと慣れている人たちは考える。
網に数個ほどサザエを入れて海面に浮上した際に監視ボートを見つけると、知らん顔してその網を海中に落とす。
手ぶらですよって顔をしてその場をやり過ごし、あとで再びその網をとりに潜る。
ただ、時々その網が迷子になるのが玉に傷(笑)。
それにしても何かおかしい。
名島に行くと漁師さんが経営する茶店みたいのがあって、そこでは貝採り用の器具(釘抜きのような形の道具)を売っている。
そんなもん売っていて貝を採ったら没収&始末書って、いったいどういう根性してんだ!。
名島に渡るには漁協の渡し船に乗る必要があるのだが、その漁師さん曰く、
「まぁ、島でサザエとか採っても、その場で食べる分には目こぼししてるけんど、中には何十個も隠し持って、それで商売してるヤツもいやがる。それはやっぱり営業妨害じゃねぇか? こっちも自然養殖して増やしているだからよ」
というお話でした。
慣れて来ると分かるのだが、サザエたちも案外バカで毎年同じ岩棚の同じ場所にちゃんと座っているので(笑)、その気になればけっこうたくさん採れるものなのだ。

あ、また話しがズレズレ(笑)。
え〜、そんなわけで、湘南の海はせせこましいし透明度だってよくないし、、、、。
さて、美しい海を求めて、、、忘れもしない、御巣鷹山に日航機が墜落したあの当日、僕らは新潟の佐渡ヶ島の横っちょにある粟島という小さな島でシュノーケリングを楽しんでいた。
その翌年には佐渡ヶ島にも行ったが、いずれにせよ、その透明度は半端ではない。
おそらく世界でも最高峰に数えられるほどの透明度ではないだろうか。
感覚的には水中視界50mという感じなのである。
佐渡の海、5mほどの浅瀬で海底を眺めながらふらふらと海面を進んで行くと、いきなり切り立った崖が現れ、そこからいっきに数十mほどの深さになるようなポイントがあるのだが、その海底までがほぼ障害物なしにストレートに見通すことができるほどだ。
だから怖い(笑)。
まるで中空に浮かんでいるような気分に包まれる。
土地柄、熱帯魚のような美しい魚はいないが、みな食べたら旨そうな魚ばかりが泳いでいて、それらの魚たちと僕との間にも、視界を遮るゴミやプランクトンなども一切見えないので、どっちも空を飛んでいるような感覚に陥る。
一カ所に止まっている魚などは、その間にある水の存在を感じないので、まるでガラスの塊に閉じ込められているように見える。
ただ、景色が圧倒的に地味過ぎる(笑)。
魚はどれもオヤジのスーツみたいな色をしているし、珊瑚礁なんかもないので、ただただ水が透き通っているだけ! と言うしかない。
それと、特徴的なのは水温の高さ。
湘南の海では三十分も入っていると唇が紫色になったりするが、佐渡や粟島では一時間ずっと海に入っていてもぜんぜん平気。
イメージとは大違いで、「へぇ、日本海ってそうなんだぁ」と、これはけっこう驚いた。

色彩も豊かで透明度も最高!
ある年、そんな噂でもちきりのミクロネシアのパラオまで行ってみようー! ということになり、同じメンバーで実際出掛けていった。
で、正直言ってちょっとガッカリ。
船上から眺める海はまさにエメラルドグリーンで文句なく美しいのだが、実際海に潜るとその透明度は佐渡ヶ島や粟島に比べるとほぼ半分以下、たぶん鮮明に見えるのは10m程度だろうか。
海中も極彩色であるが故に、プランクトンが豊富過ぎて、ゴミのように海中を濁らしている、、、のかなぁ?
でも水温は日本海の方が高かったし、、、ん? 日本海は水温が高いがプランクトンはそれほど多くない?  分からん、これは未だに謎だわ(笑)。

まとにかく、パラオでの数日間は無人島巡りやら何やらでスキンダイビングを楽しんでいたのだが、せっかくここまで来たのだから、一回スキューバダイビングを体験してみようじゃないか、という話しになった。
同行の相手夫婦の夫の方は唯一スキューバーのライセンスを持っていたが、僕ら三人は全くの未経験者。
でも、パラオは小一時間練習をしただけで、はい30mほど潜りましょう! というけっこうアバウトなお国柄。

で、今日はドリフトダイビングもします、と言う。
バリ島の事故でも取り沙汰されたこのドリフトダイビングというのは、自分で泳ぐ必要もなく、ただ海中の潮の流れに身を任せているだけで、まるで動く水族館の中を自動的に進んで行くような、とても楽しくて楽ちんなダイビングのことである。
パラオ、南海の楽園。
入水ポイントで僕らを下ろしたボートは、そのまま潮の下流に移動し、あらかじめ決められた浮上ポイントに先回りして待っている、というシステム。
僕らは現地人インストラクターの先導で、入水ポイントでいっきに30mほど潜り、しばらくは海底散歩を楽しんでいたが、やがて促されて潮の流れに乗る。
そして、色彩豊かな熱帯魚の群や、バラクーダ、ウミガメたちとの出会いを楽しみつつ、そのまま20〜30分ほど流され続け、「こりゃ楽しいやー!」、、、しかるべき時にインストラクターの指示に従って海面めざしてゆっくりと浮上し始める。

で、「あれ〜!?」上がってみたら待っているはずのボートがいない!!
ぐるり見渡しても見えるのは点在する無人島ばかり。
これは正直ちょっとびっくりした(笑)。
ただ、バリ島の事故のケースと違うのは、ものすごく天気がよくて海面は完全な凪の状態だったという点。
そのせいか大した危機感もなく、周囲の景色を楽しみながら、しばらくの間はそのままプカプカ浮かんでいたのが、そのうちインストラクターがちょっと慌て出し、大きな声を張り上げ始めた。
彼は二十代の褐色の現地人だが、名前は違和感ありありのタロー君(笑)。
そう、先の戦争時代、日本がこのあたりを統治していたので、その時代の名残り。
そうやって15分ほどのんびり遊びながらプカプカしていると、いくつも見える無人島のひとつの島陰からいきなりボートが現れた。ここからの距離はおよそ300mほどか。
近づいてきたボートの操縦士の若者に、インストラクターがなにやら怒っている。
事情を聞けば、なんのことはない、島の木陰で昼寝してたらつい寝過ごしたってことらしい(笑)。

もしこれが、バリ島のように突然天候が崩れて海が荒れていたら、果たしてどうなっていただろうか、、、と。

思えばパラオの海ではシュノーケリングだけで十分な気がする。
ちょっと無理して8mほど潜り、直径40センチぐらいのバカでかいシャコ貝を二人掛かりで、しかも死にもの狂いで採ってきたりしていた。
で、ナイフでこじ開けると、直径10センチはあろうかという、驚くほどでかい貝柱が出て来たりして、こりゃ刺身で喰ったら美味そうだと、さっそく食べてみたが、なんとスカスカジャリジャリでとても喰える代物ではなかったというお粗末。

海に行かなきゃ溺れ死ぬことはない。
山に行かなきゃ滑落して死ぬこともない。
だから、勝手に行って死ぬのは自己責任?
だとしたら、家から外に出なけりゃ、ダンプにでも突っ込まれない限り、交通事故で死ぬことはまずないという話しにもなって、しまいには、この世に生まれなきゃ死ぬこともないのにということにもなる。
但し、ひとつ確かなことは、この世に生まれたのは自己責任では決してない、ということ。
そりゃ両親の他者責任に決まってる(笑)。

高瀬がぶん

[Web Log] / 02/16 2:47

今月は取れ高が多いが、まず我が友保坂和志をあげておこう。
2月4日、池袋の東京芸術劇場で催された対談&朗読会に出演し、本番前に担当者の指示に従い移動した際に、誤って舞台から客席に落ち(1.3mほど)、左右両足の骨を二カ所骨折&かなりの出血、ギブス三週間決定!
それでも出演をこなしたというから立派、でもばか〜!
後日、劇場側は責任を感じたのか、あの大雪が降った翌日、自宅に雪かき要員を二名送って寄越したという。
それだけにとどまらず、二度目の大雪の翌日は、保坂が「なんか外でガシャガシャ音がするな」と思い覗いたところ、再び劇場の二人が自主的に雪かきをしてくれていたというので、なんだかとってもほっこりした(笑)。

さて、、、。
おそらく世界で一番有名な、伝説の手品師?魔術師フーディーニ。
最初のころ彼は、片足をひきずった貧相ないでたちの小人に扮して舞台に登場し、いくつかの手品で観客を感動させたのちに、突然長身の紳士に変身するというネタをよく使ったと言われている。
これは観ている者に単に変身の驚きを与えるというより、同じ手品でも、自分より色んな意味で明らかに劣っている者がそれを演じて見せた場合、その驚きと感動は増幅される、という人間の真理をついた巧妙な心理トリックであったと。
こういった人間の心理というものが、根源的には「社会的弱者に対する優越感や差別」に通ずるものであろうことは想像に難くないが、それを意識しようがしまいが、そうしたことがあることは歴然たる事実として僕自身も認めるところである。
オリンピックよりパラリンピックのほうが常に感動的なのはおそらくそのせいである。
よく頑張ってるなぁ、自分ももっと頑張らなくちゃ、という勇気を与えられるからだ。
それに比べると、ギンギンに身体を鍛えたサイボーグみたいなオリンピック選手が、いくらいい記録を出したとしても、それほどの感動はない。

そして、そうした心理的トリックを悪意をもって体現して見せたのが、トリックモンスターとも言うべき佐村河内氏である。
で、次のうちいったい誰がバカなのか。
佐村河内氏本人。
唯々諾々とゴーストを引き受けていた新垣氏。
話しを持ち上げ過ぎたメディアの連中。
彼の著作の帯書いて褒めちぎった五木寛之。
彼の創り出す音楽を激賞した三枝成彰を始めとする多くの音楽評論家たち。
それとも、その音楽に熱狂し支持していたオーディエンスたちか。

たぶん答えは、佐村河内氏が大バカで以下はふつうのバカ(笑)。

それにしても、最近こんなに不愉快で面白いニュースは他にない。
世間では既に作曲ゴースト問題にすっかり飽きがきて、もはや障害者年金詐欺に話題はシフトしているが、それについてはあまり興味がない。
そんなやついくらでもいるし、単なる小悪党の一人に過ぎないではないか。
それを追及するくらいなら、長野県建設業厚生年金基金の24億円の使途不明金に絡んで逮捕された元事務長の坂本とかいう男の方こそ厳しく追及して欲しい。不発に終わったファンド投資やら何やらで総額200億円がふっとんでしまったというから、もはやバカバカバカバカバカ!!

佐村河内守の作曲問題が持ち上がった時に、パッと二つのことが頭に浮かんだ。
ひとつは、
これって食材偽装問題と構造が本質的にまったく一緒じゃないの? ということ。
芝海老だとばっかし思って「うまいうまい」と喰っていたのに「なにぃ!バナメイ海老だと!!」と怒り心頭。
いいじゃないの、それまで知らなかっただけで、料理のうまさが変わるわけじゃないのだから(笑)。

そしてもうひとつは、
一見専門家風の人物に専門的知識がないメディアが騙され踊らされる。
これはIPS細胞のインチキ森口氏とメディアの関係とまったく同じ構図ではないか。
あの時は話しが高度過ぎて科学的知識が乏しいメディアがまんまと騙され、今回は音楽的に素人であるメディアの連中が、佐村河内氏の作り上げた悲劇的キャラクターが与える感動にばかり目を向け、その作品のまっとうな評価についての検証をおろそかにしたのではないかと。

これは特に、佐村河内氏の代表作とも言える「交響曲第一番 HIROSHIMA」について言えることだ。
あの曲が原爆被災者を中心とした多くの人々に感動を与えたことは事実だろう。
しかし、その感動の大きさと音楽そのものの質が必ずしもイコールにはならないことに注意を向けるべきではなかったか。
これは今だからそう言える、という類いのものではない。
あの曲が2009年の芥川作曲賞(芥川也寸志を記念して)に応募され、最終選考の3曲にさえ残らなかったという事実について、メディアの連中はちゃんと検証していただろうか?
僕にクラシックの素養は全くないが、それでもなんとなく、ああ言った賞レースの選考の過程は想像できる。
小説の芥川賞も同じようなものだと思うが、最終選考にまで残った作品となれば、レベル的にもほとんど同列で、あとは審査員の好みの問題となる。
しかし、それ以前に落とされた作品群については、最終選考に残すまでもない、何らかの致命的な欠点があったのではないか、と想像できやしないか。

当時の芥川作曲賞の選者たちは、おそらく、現在言われているような「交響曲第一番 HIROSHIMA」に対するパクリうんぬんかんぬんを含めたマイナス批評を、既にその時点で行い、最終選考の基準に満たない作品として落とした、、、ということになるだろう。
佐村河内アメイジングストーリに惑わされることなく、純粋に音楽性を評価した上での見事な落選。
僕のような凡庸な人間には、交響楽というだけでどれもこれも素晴らしく聞こえてしまうが、やはり聴く人が聴けば本物かどうかは分かる、、、という結果であったことにちょっとホッとする。

一方、あの曲が広島市民賞をとったことは全然不思議ではない。
あれは曲そのものの音楽性などほとんど分からぬ行政が、市民をこんなに感動させた佐村河内さんは偉い! ということで差し上げたものだろうから。

こうして、「交響曲第一番 HIROSHIMA」は、素人ウケはしたがプロの世界ではそれほどの曲でもなかった、ということが既に証明されているわけだ。
余談だが、音楽評論家の野口剛夫氏だけは、今回の告白前、佐村河内氏がもてはやされている最中に、「新潮45」に氏に対する疑問を投稿し、「交響曲第一番 HIROSHIMA」には随所に歴史的作曲家の模倣が見られると指摘するなど、その慧眼には感服せずにはいられない。

そこで、ではその真の作曲者である新垣氏の音楽家としての才能・力量はどうなのかという話しになる。
まず、ゴーストを務めた新垣氏の広島に対する思い入れはゼロ。
そりゃそうだ、依頼された時のタイトルは「現代典礼」だったのだから。
で、何なんだ一体、現代の典礼って(笑)。
いずれにせよ、新垣氏は自らの芸術家生命を賭けて作曲する時ほどの力は入れてなかったのだと思われる。つまり本気を出して作曲したわけではない、単なるアルバイト仕事だったのだろう。
したがって、作曲家としての新しい音楽的アイデアを入れることもなく、使い古された定番の旋律を組み合わせて、とりあえず聴けるような作品に仕上げて納品した。

だから「え〜! わたし別に原爆とか広島とか全然意識してなかったのに、こんなに感動されちゃったりして、なんだかなぁ」と戸惑い、おまけに調子に乗った音楽素人が「広島市民賞」とか与えるし、一方で勝手に芥川作曲賞に応募され、選者の中で三枝成彰一人だけが激賞するも、結局のところ最終選考にも残らないという体たらくに終わり、おそらく新垣氏は、「恥ずかしぃ〜、自分の名前で応募するなら、もっとちゃんとしたやつ作るよ〜、あれがわたしの実力だと思われたらかなわんぞ」と思ったに違いない。
新垣氏は他者のための仕事と自分のための芸術活動はきっちり分ける人だ、たぶん。
だから、仕事(アルバイト)で作った曲に、作曲者として自分の名前なんか入れたくない、というのが本音ではなかろうか。
それが音楽家としての誇りだし、当然、著作権を要求するなど自尊心がそれを許すはずもない。

近々、佐村河内氏が記者会見を開くというのでみな興味津々である。
あれだけの大嘘をついて散々持ち上げられた人間が、どれほどみすぼらしい姿となって登場するのか、それが見たくてしょうがない。
大衆の、もとい下衆の極み(笑)。

追伸
佐村河内さんの謝罪文、笑えるぅぅ。
曰く
「これは新垣さんと二人だけの秘密です」
「三年前から耳元でゆっくり喋ってもらえば聞こえるように、、、」
みたいなこと言ってますけど、
へぇ〜、じゃ、その耳元でゆっくり喋ってくれた人って誰よ(笑)(笑)(笑)

高瀬がぶん


[Web Log] / 01/31 5:20

新年ではなく頭がおめでたい人がかなりいた月である。
なんと言ってもまず、冷凍食品に農薬入れて逮捕されたあのハゲ散らかしたおっさん。
初めから容疑者が絞られるであろうことが容易に推測される状況にも拘らず犯罪を実行する。
まずそこからしてバカ満開。
こういう事件を起こす者の正しい心構えとして、まず完全犯罪を目指すのが常識というもの。
そのためには、動機を悟られずアリバイを確保し、自分をまず安全圏に置くことが肝要ではないか。
その努力もせずに、事件を起こす資格なし!
まったく、想像力の欠如も甚だしいわ。
それよりなにより、49歳妻子ありのいい大人が「ワンピース」に憧れて特攻服まがいのコスプレをし、改造しまくりの大型スクーターをこれみよがしに乗り回している時点でバカ確定。
背中の正義の文字が泣いとるわ!
要するにあの男が抱えていた会社に対する不満とは、「給料が安くてスクーターの改造が思うようにできんわい!」ということに尽きるだろう。

次にバカッターと化したキャロライン・ケネディ駐日大使。
彼女の就任を熱烈歓迎した日本のミーハー達よ、どうすんだよ(笑)。
「米国政府はイルカの追い込み漁に反対します。イルカが殺される追い込み漁の非人道性について深く懸念しています」。
うるさいわホントに!
こういった議論が如何に不毛であるか、いい歳してそんなことも分からんか。
そこは触っちゃいけないとこなんだって。
必ずと言っていいほど、こういう反論が来るぞ。
あんたらアメリカ人はどんだけ牛喰ってんだ。
牛を殺すには味を落とさないためにと、基本的に今でも棍棒で殴り殺すか、さもなきゃ、でっかい鉄球を頭上に落とすかして殺してるらしいが、それは非人道的じゃないとでも言う気なのか?
アメリカのいい分はこうだ。
牛は食用にするために、十分な数を育てているから殺してもよい。
イルカは自然の生態系の一員、しかも知能も高いので殺してはいけない。
なんだその論理、少なくとも頭の良さは関係ないだろ。
イルカがダメなら牛も豚も鳥も全部だめ、というならまだ分からないでもないが、、、。
それに、東京大空襲で一般市民を無差別に10万人ほど殺し、原爆で同じく一般市民を30万人以上殺しておいて、「ちっとも悪くない」と言い張るアメリカ人に、イルカを殺したくらいでそんなこと言われたくないわ!、、、と。
もっとも自分はイルカって食べたことないし、食べたいと思ったこともないが(笑)。

はたまた、フォアグラはどうなのか?
ガチョウの喉に鉄パイプを突っ込んで固定し、無理矢理普通の10倍の餌を毎日喰わせ、しかも運動させないようにするために、身動きできない空間に押し込めたまま生かし続け、その結果肝臓がパンパンに膨れ上がったところで殺して肝臓だけを取り出す。
人間はそんなものを世界三大珍味のひとつに数え、高い金出して有り難がって喰っている。
そんなガチョウの境遇に心は痛めないのか?

文化が違えば人は犬でも猫でも何でも殺して食べるのだ。
それこそ人が人を喰うことだって、ある条件下では許される。
その程度のものだろう人間の倫理観ってのは。
この際だから動物を食べることに関しては全て不問に付す。
それでいい。
あらゆる食用動物の殺し方を詳細に調べて、その実態を知らしめ、みんなで涙を流し懺悔しながら食べるなんてのも面倒臭いことこの上ない。
だから、その過程には一切目をつむり、食卓に並んだ切り刻まれた肉片を前に、命をくれた動物達にせめて感謝しながら口に運ぶ程度でいいのではないか?
それより、食べる目的ではなく殺すゲームとしての狩猟や、見て楽しむ為の闘牛の方がよほど残酷であるし問題ではないのか?
まだまだ言いたいことはあるが不毛なだけにきりがないのであとは割愛。

そしてバカの大将、NHKの新会長籾井氏。
あはは、見事にハメられてやんの。
それが第一印象。
あれはどう見ても失言待ちのしつこい質問だっただろうに、それを見抜けなかった爺さんが我慢しきれずつい口を滑らし、聞かれてもいないことまで口を滑らし続けてしまったというお粗末。
あの質問者はおそらく、籾井氏の思想信条を他の機会であらかじめ知っていたのではあるまいか。そして、もし口を開かせることができれば、それは失言になること間違いなしと確信していたのではないか。

、、、あ〜あ〜、なんだよもう2chあたりではそんなことは百も承知で、その質問者の特定が始まってるじゃん。なに? 朝日新聞もそれに答えて「そんな名前の記者は在籍しておりません」。どうなってんだこりゃ(笑)。
あの記者会見で籾井氏が、
「じゃ、全てを取り消します」
といったら、厳しい記者の声が!
「取り消せませんよ!」
あいつだよ、あいつ(笑)。

このニュースを見て読んで、あの爺さんは70歳だというのに、白馬事件のことを知らなかったのではないか、という疑問が湧いた。
もし知っていたら、少なくともオランダの飾り窓の話しを引き合いに出すことはなかっただろうにと思ったからだ。
白馬事件というのは日本占領下のインドネシアで起こったオランダ人女性に対して行われた監禁・強姦・強制売春のこと。
これは他のいわゆる従軍慰安婦問題と違って、明らかに日本にとって分が悪い話しである。
軍の規約を無視した現地の一部将校たちが、勝手に民間人抑留所からオランダ人の若い女性たち数十名を拉致し、スマラン市内の四つの慰安所(将校倶楽部、スマラン倶楽部、日の丸倶楽部、青雲荘)に連行し、強制的に売春をさせるということをやった。
しかし、拉致されたオランダ人女性の父親による軍上層部への直訴により、違法な事実が発覚し、拉致から二ヶ月後に、四つの慰安所は即時閉鎖されるという事態に至った。
そして、戦後、この実行犯たちは国際軍事裁判によって裁かれ、強制連行、強制売春、(婦女子強制売淫)、強姦という罪で、一人の死刑を含む軍人及び民間人11人が有罪とされた。
この事件に関しては、強制があったかなかったかを問うようなレベルにはない明らかな犯罪行為であって、日本としても謝る他はなく、後の日本政府は被害者個人それぞれに対して「償い事業」として、それ相応の補償金を支払ったという経緯がある。

これらの事実を知り事態を厳粛に受け止めていたら、とてもじゃないがあの場でオランダを揶揄するような「飾り窓」の話しを持ち出すことはできなかったのではないか? そう考えるのが当然だろう。

公共放送のトップにバカな爺さんを抱えた日本。
これから番組が期待外れに面白くなりそうだ。


高瀬がぶん

[Web Log] / 01/15 4:43

元旦、PCのモニターに2014年最初の蠅がとまった、、、。
??? ひょっとしてあれか、お前は2013年最期の蠅のやつ?
そうか、お前も年を越したんだな、だったら一応、明けましておめでとう。

1月4日、友人秀島実の舞踏公演「小父さんの直覚」を、鎌倉生涯学習センターに観に行く。
秀島さんは僕と同い年の64歳の舞踏家。
コンテンポラリーダンス? 暗黒舞踏? そう言ったジャンル分け自体に意味があるのかどうか分からない。
純粋に「身体表現」という言い方が一番いいのかも知れないと思う。
秀島さんの舞台を観に行くのはこれで三度目だが、僕は別に舞踏そのものが大好きなわけでもないし、舞踏に関する造詣もまるで深くない。
水に入ったらくるぶしが出てしまうほどの浅さ(笑)。
そんな秀島さんとは、七年ほど前に鎌倉大町にかつてあったコーヒーショップの常連客同士として知り合った。
普段の彼はアニエスb.の上着を羽織ったりしているオシャレなおじさんで、同い年ということもありすぐに仲良くなり、何度もその店で偶然出くわした。
そのうち、彼が舞踏家であるということを知り、僕でも知っている大野一雄の愛弟子であることを知って、ちょっと尊敬した(笑)。
大野一雄と言えば土方巽(たつみ)とコラボしたりして、それこそ日本に於ける新しい舞踏のかたちを作ったすごい人と言える。
加えて、2010年に103歳で亡くなるまで舞踏家としてほぼ現役で通したということも尊敬に値する。
秀島さんは80’〜90’年代に大野一雄が頻繁に行った欧州公演に同行し共演を果たしていたが、その後独立してからも海外での活動が中心の舞踏家であった。
しかし、たまたま鎌倉に住んでいるので、鎌倉市内でのミニ公演みたいなことを不定期に何度か行っているのだ。
というわけで、鎌倉で公演がある時は必ず観に行くということになったのだ。
最初に観たのは野外での舞台、たぶん2006年鎌倉浄智寺の境内で行われた集団舞踏、「匂イノ森ニ密メク」というやつだ。
なんと言ってもまず秀島さんのセンス溢れるこのタイトルが気に入った(笑)。
そして、設置された舞台そのものも、ちょうど鎌倉宮の境内で催される薪能を小ぶりにしたような感じで、周囲の雑木林がより一層妖し気な雰囲気を醸し出していた。
観客席は平地にひな壇を設けたもので、僕も最初はそこに座っていたのだが、あっ! と閃いたことがあって、途中で一人抜け出し、後方に広がる雑木林に入って行き、木や枝葉に視界を遮られながら、それらを押し広げて舞台を眺めるということをしてみた。
これが思いも寄らず効果的で実によかった。まさに「匂イノ森ニ密メク」というタイトルそのものの雰囲気で、見てはいけない秘儀をこっそりと覗き見るという感じ?(笑)。

嘗て、大野一雄の代表作とも言える「ラ・アルヘンチーナ頌」という舞踏の動画を見たことがある。
(ちなみに今でもYouTubeで見ることができる)
年老いた男が顔を白く塗りたくった上に女装をし、音楽に合わせて奇妙な動きで舞う。
それはたぶんYouTubeの一般視聴者のコメント欄にあるように、
「気持ちわりぃー、でもなんだかすげー!」
というものに違いなく、動作のいちいちに意味を求めることが無意味でバカらしいほどに、何がなんだかよく分からないのだが、とにかく心がざわつかずにはいられない、というものである。
心地よい不安定感、といったらいいのかも知れない。
これは逆に言うと、安定したものなんて面白くも何ともないということにも繋がる。
安定した技法によって創り出されるものは、それが文章にしろ絵画にしろ踊りにしろ工芸にしろ、すべて匠の世界のものであり、言い換えると、それらは自分の想像の範囲内で安心して見ていられるものであり、「よく出来てる」と感心こそすれ、ちっとも心がざわついたりはしない、だからつまらない。
少なくとも僕の場合はそうだ。
その点、「虚」を突かれるものや、自分の理解が及ばないものを目にすると、これは一体なんなんだろう? と、まず頭の中でぐるぐると思考が駆け巡るが、結局何だか分からないので、あとは思考停止して心と身体の自然な感性に任せるのみになる。
その時に、自分の内奥から何らかの反応が激しく湧き起こると、それが「感動」となって、先の「なんだかすげー!」ということになる(笑)。もちろん、感動の本質がなんであるかは相変わらずさっぱりなのだが、、、。

秀島さんはもちろん大野一雄の持ち味を踏襲していて、今回も前回もそうだが、上下スーツを着ているくせに、顔は白塗りで手にはダサい真っ赤なトートバッグを持っていたりして(笑)、その風体も動作もアンバランスこの上ない。
おそらく演者側には、顔を白塗りにすることや不釣り合いな小道具を持つことや奇妙な動きにも、それぞれちゃんとした理由があるのだろうけれど、それをいちいち説明するのは「このジョークが何で面白いのかというと、、、」と同じように、やっちゃいけないダメなことであって、すべては受け取り側の感受性に任せるということになるわけである。
さらに言えば、それらは演者自身でさえ説明できないものなのかもしれない、とも思う。
大野一雄は「魂に肉体がついていく」と言ったが、基本、すべてはおもむくままの即興なのだろう。
短絡して考えれば抽象画に近いものがあるけれど、何かを取捨選択した結果そういう表現になったと言えば、その過程には自ずと作為が入り込み、厳密な意味で「おもむくまま」とは言い難い。
ただ、ひょっとして、安定した姿勢とか所作というものは、秀島さんたちにとって禁じ手というか敢えて避けているものなのかもしれないと思う。
それとも、それらをあらかじめ決めているとかではなくて、魂の自然の叫びというものは、そもそも「安定」なんかを求めていない、ということになるのだろうか?
あっ、彼らの心は常に「特異点」に在るのかもしれない、、、、なんて。
ん〜、かなり哲学入って来てるんでまた今度(笑)。

今回の公演では、アベマリアの歌声をバックに女装して舞い、サックスの生演奏に合わせて踊ったりと、相変わらず訳の分からぬままに舞台は進行し、起承転結なんてあるわけもなく、いつしか終わっていた。
キャパ300程の超満員の客席からは鳴り止まぬ拍手。
二度三度で終わらず、四度五度六度までアンコールが続く。
涙を流している観客も少なくない。
実は僕も最期にホロリときたが、それは皆さんの理由とはたぶんちょっと違って、同年輩の友人でもある男の健気さと、それが観客にこれほどの感動を与えていることを目の当たりにしたことによる別の種類の感動であった。

でも、その舞踏の素晴らしさがよく分かると言って拍手し涙しているのだとしたら、それは嘘だ。
分かるわけはない(笑)。
だから、やっぱり、「なんだか訳はよく分からないけどよかったよー!」という拍手であり涙だったのである。

そして最期の最期に、
白塗りの顔を観客席に突き出し、顎の下に手を添えて、
「アイーーン!!」とバカ殿の真似を、、、。
もちろんそんなことはしない。

高瀬がぶん

[Web Log] / 12/31 23:33

ベッドの上で2013年最期の蠅がブンブン唸りながら飛び回っている、、、。
懲りもせずにまた来るよ新しい年が。
64回目となるといいかげん飽きるわけで、いつの頃からか年末だとか正月だとか本当に色々面倒臭くなってきていて、なんかこうひっそりこっそりとスルーできないものかと思うのだけれど、なんとしても世間はそれを許さず、一般的な社会人としての自覚なんてとんとないくせに、やはりそこは社会不適合者にもなり切れない意志薄弱な自分もいて、必然的に色々巻き込まれていくわけです。
だから皆様よいお年を! そして明けましておめでとうございます!(笑)。

2013年の年の瀬が迫って来た頃、自分では小説を読むでもなくましてや書くわけでもないのに、やたら僕の文学的周辺が騒がしくなってきた。
それだけじゃなく南の島周辺も騒がしいのだけれど、、、???
まずイソケンこと礒崎憲一郎が「往古来今」(文芸春秋社刊)で10月に第41回泉鏡花賞というのを受賞したので、仲間内でお祝いをしてあげようということになり、12月14日に鎌倉で祝賀会を開きましょうということになった。ただ、当日はその件だけではなく、やっぱり仲間内の大手出版社の編集者であるS君が、脱サラして南の方の小島に移住するということが判明し、その送別会も兼ねようということになった。
その時点では移住の事情がよく分からなかったのだけれど、それがなんともまあファンタジーな話しで、自分ではなかなかできない決断だけれど、知り合いが決行するぶんにはすごーく楽しそうな話しだった。
話しはこうだ。
フィリピン、セブ島の近くに東京ドームほどの大きさしかないカオハガン島という小さな島がある。島の人口は600人ほどで、ほぼ何もない、あるのは美しい自然だけ、というある意味理想郷のようなところ。
そこを1991年に日本人で元出版社社長の崎山克彦という人物が購入した。
つまり、この島は個人所有の島なのだ(笑)。
そして、崎山氏はこの島に教育施設や宿泊施設を作るばかりではなく、島民には観光収入となるべくカオハガンキルトと言われるキルト作りを指導し、今や「何もなくて豊かな島」として、日本からの観光客もそこそこやって来るという状況になった。
ところが、崎山氏自身はもはやかなり高齢になってきており、後継者もいないことから、かねてから誰かあとを継いでこの島の運営をしてくれる人はいないだろうか、とそう思っていたらしい。
そこで、かつて崎山氏を仕事で取材したことがきっかけで仲良くなったS君に白羽の矢が立ったのだという。
その話しを持ちかけられたS君もさぞや悩んだことだろうが、三十半ばの独身だし、自分一人だったらこの先どうにでもなると思ったのだろうか、今回ついにその申し出を受け、日本でのキャリアや生活をすべて投げ出し、これからの人生はその小さな南の島に捧げよう、、、、とまあ漫画みたいな展開のお話(笑)。
(ちなみに、鎌倉の食事会で判明したことだけれど、そのカオハガンキルトというものを鎌倉長谷の或るお店で売っています。店名忘れたので、もし興味あるならiSHONANに問い合わせてみて下さい。あとで調べてお知らせいたします)
※カオハガン島オフィシャルホームページ:http://www.caohagan.com/

というわけで、鎌倉のガーデンハウス(西口スターバックス隣)に予約を入れ着々と準備を進めていたところ、予定外だったが、11月に入ると今度は保坂和志が「未明の闘争」(講談社刊)という小説で第66回野間文芸賞をとってしまい、そういうことならそれも一緒に祝いましょうということになった。
で、結局12月14日に三十数人集まって鎌倉でお祝い兼送別会をやったのだけれど、三日後の17日には帝国ホテルで野間文芸賞の授賞式が待っている。
思えば去年の今頃は山下澄人が「緑のさる」(平凡社刊)で第34回野間文芸新人賞をとったので、この同じ会場に行ったばかりである。
その授賞式の当日、僕は鎌倉に住む保坂の母を伴い会場へ向かうことになった。
お母さんは「私の生きているうちの最期の賞かもしれない」からと(笑)、それはそれは大喜びであった。

授賞式の様子を京都から出て来た友人のカジ君はネット上で以下のように書き込んだ。
無断引用だけどまあいいだろ、見つかったらあとで謝るし(笑)。

「東京に来ている。保坂和志さんの、野間文芸賞授賞式典に潜入。帝国ホテルとか、なんだかんだと豪壮で、緊張がすごいことになってしまった。帝国て。1000人くらい人おるし。
その後の立食パーティー、二次会三次会まで、何者でもない素人代表としてふんばり、誰彼となくに握手してください、と言って取りすがる。苦行の連続であった。柴崎友香にはまたまたずいぶんお世話になってしまった。湯浅学さんがいらっしゃって、レコードの話などし、ほっこりした。町田康さん、西村賢太さん、青木淳悟さん、佐々木中さん、そして念願の、綿矢りささんと、握手をしてもらった。しかし、がぶんさんの弟さんが、なぜだか際立って芸能人のような、イタリアのようなオーラを放っていて、妙な感じになっていた。私は一眼レフのデジタルカメラを首からぶら下げていて、写真もたくさん撮った。光が足りず、ブレブレだが。移動中に、よくわからない宝塚スターの出待ち現場に巡り会ったので、ついでにその人の写真も撮った。東京すげー、と、また思った。そのあと新宿の大きな木の根元にゲロを吐いた。今日食べたローストビーフやら高級食の大方を、吐いてしまった。木は嬉しいのだろうか、木が嬉しかったらいいのに、と思った。」と。

ちなみにこのカジ君っていうのは、柴崎友香の小説「きょうのできごと」(河出書房新社刊)に登場する人物のモデルの一人で、その後この小説は行定勲監督によって映画化されたことで知られている。主演は田中麗奈、妻夫木聡だったが、カジ君が妻夫木の役のモデルであったかどうかは映画も見てないし実のところよく知らない。当然だがカジ君は妻夫木とは似ても似つかない男ではある(笑)。
会場で柴崎と出会って「今日カジ君来てるよー!」と言ったら「えー、あの人わざわざ京都から出て来たのー!?」と、すごく驚いた様子だった。
だいたいからしてカジ君はいつも金欠で、東京で数回会っているが、京都からの往復はいつも高速バスである。京都では京都市役所前で「100000t」という古レコード&古本屋をやっていて、以前は店の老オーナーに雇われていたのだが、2年ほど前にその老オーナーに「ワシは引退するから店はお前にやる」と言われて、ある日突然なぜかオーナーになってしまった男であった。
なんだか南の島のS君の話しとよく似ているな(笑)。
それから色々あって、店を数十メートル横の新店舗(アローントコと改称)に移し、今もなかなかいい感じで営業している。
そのせいか、今回の上京は新幹線を使って来たというから「おー出世したな」と褒めておいた(笑)。

会場には当然山下澄人も来ていたが、翌18日、今度は山下の「コルバトントリ」(文学界10月号)が第150回芥川賞候補になったことが発表される。
だもんで山下には「次は東京会館で会おう」とメールしたが、本人的には芥川賞候補になるのはこれで3回目なので「なんかもう恥ずかしいっす」ということだが、さてどうなることやら、2014年1月17日の発表を待つばかり。
でも、芥川賞っていうのはタチが悪い。
本人が応募するでもなく勝手に候補に入れられてそれで何度も落とすかよ。その度に周囲がザワザワして、確かに山下の言うように、いいかげん恥ずかしくもなる、、、かも知れない(笑)。
もっとも先の柴崎友香だって3回芥川賞候補に勝手にされて、今のところまだとってないけれど、彼女は既にあっちこっちの賞の候補になりいくつかの賞もとり、作品は映画化され、たぶんもう芥川賞なんていらないのかも。
芥川賞候補になるためには、それに見合った長さの小説(100枚前後?)が必要だけれど、最近そういう長さの小説を発表していないしね。

そんな今年の年末であった。
まとにかく、オレ以外はみんな忙しそう(笑)。
いつか、カオハガン島の砂浜に寝そべって、満天の星を眺めながら鼻歌でも歌おう。
死ぬにはちょうどいい島の夜だ。


高瀬がぶん

[Web Log] / 12/15 17:54

このところニュースと言えば、「特別秘密保護法の成立」と「猪瀬都知事問題」。
もうこればっかりで、いいかげんうんざりしている。
但し、「つまらない」ことと、国民にとって重要であるかどうかということは全く別の問題。
でも、あまりにも同じような意見がマスコミに溢れているから「つまらない」ということになる。
これでもし僕が「特別秘密保護法大賛成!!」とか、「猪瀬都知事は悪くない!!」という独自の意見を持っているなら、これは「つまらなくない」ということになるのだが、やっぱりほれ、多くに人たちと同じように「特別秘密保護法反対!!」だし、「猪瀬、お前は悪いぞ!!」と思っているわけだから、ここでなにか意見を述べるとしたら、もうなんにも書くことないくらいみんなと一緒なわけで、いくら書いても「そうそうそうだよね、みんなそう言ってるしな」ってなことになって、議論の余地がないことを、わざわざコラムで発言することに最早何の意味もない。
だからつまらない。
そこで、なんとか面白くできないかと考えてみるのだが、やっぱり嫌なものは嫌だし悪いものは悪い、という思いが変わることはないので、本当に絶望的なまでにつまらないわ。
だからこの二つの件については何にも言わない(笑)。

だからとらえ方を変えてみる。
このところの猪瀬都知事に関する報道を見てみると、ものすごく気持ちが悪い。

イスラム圏には現在もまだ『石打刑』という残酷な処刑方法がある。
これは、だいたい不倫した男女やらがその刑を喰らうのだが、、、、まず死刑囚となった男女を一人づつ、衆人環視の中を腰紐付きで引っ張り回し、地面に穴を掘って首だけ出して埋める。
いくつかの動画で確認したところ、たいてい頭部には布袋が被せられていて顔そのものは見えない状態になっている。
そして、周囲を取り囲んでいる一般市民の中から、特に死刑囚の被害関係者(浮気された夫とその親類縁者)が真っ先に拳大の石を死刑囚の頭部めがけて投げつける。
死刑囚は不思議なことに無反応なことが多く、石が当たる度にただ軽く頭部が揺れるだけだ。
そうして関係者がひとまわり石を投げ終わると、そのあとは回りを取り囲んでいる一般市民(ようするにヤジ馬)が、次々と石を投げつけて行く。
こういう場合、必ずそういう奴が一人二人いるのだが、けっこうな大きさの岩を抱えて近づいたところで「ドン!」と頭に投げ下ろしたりもする。
そうして頭部に被せられた布袋が徐々に血に染まってゆく。
ようするに「石打刑」のコンセプトはなぶり殺しなのである。
拳大の石を一発二発頭に喰らったところで、ものすごく痛いとは思うが、とりあえず死ぬことはない。
しかしそれが五発十発、、、と絶命するまで続くのだ。
これほど残酷で嫌な死に方もない。
まるでマフィアのリンチのようである。

ん~、なんなんだろうなぁと思う。
文化的宗教的背景が全く違うし、それに伴い社会通念も全く異なるという理由はあるにしても、やっぱり僕にはよく分からない。
殺したいほど憎い奴に向かって石を投げつけるのなら分かるが、個人的な恨みなんて全くないはずのヤジ馬達が、まるで狂気に取り憑かれたようにして攻撃的になって行くのがどうしてもよく分からない。
単なる群集心理というのではない。
石を投げつけることが正義、というお墨付きをもらったとたん、必要以上の残酷さを発揮する人々。
ふつう人が自分の残酷性を表に出せばそれは批判の対象となる。
しかし、その場で、自分とは無関係の相手に石を投げつけて殺しても、自分が批判を浴びることは一切ない。
それどころか大衆からの賛同を得られるだろう。
こんな状況は滅多にない、だったら思いっきりやっちまえ! 
と、ようするに、一種のお祭り気分と言ったらよいのか、とにかく心のどこかで密かに楽しんでいるのではないかと思えるほどだ。

そして、これが今の猪瀬都知事とマスメディアの関係のように思えて仕方ない。
もはや死刑囚とも言える猪瀬氏に対して、ヤジ馬たるマスメディアは容赦なく石を投げ続ける。
まさになぶり殺し状態。
そして投石は死ぬまで続くことだろうし、遅かれ早かれ猪瀬氏は政治的に確実に死亡する。
もっとも、流すのは血ではなく大粒の汗。
いやマジ、文末に(笑)をつけたいほど、僕的にはこの処刑のイメージとぴったり重なってしまう。
それにしても、不倫したくらいで石投げつけられて殺されることを考えれば、意味不明の金借りたことで都知事をやめるくらいは何でもないだろう。
猪瀬氏自身も自らの立場を客観視すれば、もう先が見えているはずだし、そんなにムキになって頑張っても意味ないだろうにな、、、見ていてそう思う。

そんなマスコミが言い立てている様々な批判に、実は僕もおよそのところは同調している。
でも、それを口に出すのは誰かの批判の後追いになるだけ。
だからここは、思っているだけで何にも言わない、そのかわり聞かれたら答える、くらいのスタンスでいるのが一番スマートだと思う。

話しは変わるが、「特別秘密保護法案」については、一点だけ面白いことがあった。
テレビの討論会か何かで、自民党議員(誰だか忘れた)が、他の出席者の連中に散々ダメを喰らった末に、苦し紛れにこう言った。
「しかし、サイレントマジョリティは賛成してるんです!」
おいおい! サイレントなのに何で賛成だって分かるんだ!、、、という話し(笑)。
で、意見はやっぱりみんなとほぼ同じなので、ここではいちいち言わない。

そう言えば、一時は「食材偽装問題」のニュースばっかりが流れていた時期があったな。
こっちの方はかなり面白いと思った。
ざっくり言えば、国民の味覚音痴がハッキリしたというだけだわコレ。
それと、企業が次から次へと自らの罪を発表していく様子を見ていると、まるでツイッターで自分の犯した犯罪を告白していくバカッターのようで面白い。
それに発表するオヤジたちの苦しい言い訳も見ていて笑える。
ハッキリした確信犯のくせに、あーでもないこーでもないと言葉を言い換えるが、結局その目は異常なほどに小刻みに動いているか虚ろのまま。
ああいうのを「嘘を吐いても顔に書いてある」っていうんだろうね。
それと、食材の高級さの定義がいまいちピンとこない。
結局、仕入れ値段が高いか安いか、いっぱい採れるか少ししか採れないか、そんなことで決まっているだけのことで、実際のところ、値段と美味しさが正比例するなんてことはなくて、エビはエビ、だいたい何エビ喰っても旨いじゃん、ってことでいいんじゃないかと思うんだけど、違うか?
となると、味音痴とかじゃなくて、もともと流通の在り方で高級かどうかが決まっているだけで、味そのものは大差ないってことに落ち着くなこれは。
ちなみに、エビフライが好きな僕は、どこの店とかじゃなくて、エビフライならだいたいどこのでも美味しくいただきます。
そんなもんじゃないか?
ただ、言っておきますけど、高級中華料理店でごちそうになっている時に、芝エビの芥子ソース煮を白いご飯に載せて口に入れたまま同時にコカコーラを飲み始めることで、奢った甲斐がないと、よくヒンシュクを買う私です。


高瀬がぶん


[Web Log] / 12/01 13:27

目が覚める。
部屋は外光がまったく入らない構造にしてあるので、朝だか昼だか夕方だか、にわかには分からない。
だいたいからして、何時に起きなければならない、なんてことはめったにない人生を送っているので、特に起きる必要もないのだけれど、やっぱり自然と起きてしまう。
起きるけれど目はつむったまま。
「あと6分寝ようと思う」
そして6分が経ち、もう6分このままでいるかと思う。
こうして、僕の場合はほぼ毎日6分という単位で起きるか寝ぼけるかを決定することになる。
それは「江の電」が通る音。
睡眠が浅くなり、ある瞬間江の電の音が聞こえて目が覚める。
音の聞こえる方向からそれが藤沢行きか鎌倉行きかは判断ができる。
上りと下りの間隔は6分と決まっている。
だから「さてと、次の上りで起きるか」という具合に決心する。
それでもまだ目はつむったままだ。
手探りでiPhoneに手を伸ばし、Siriに時間をきく。
「いま何時?」
「12時23分です」
時には、
「○時○分です。ハッピーハヌカー!」などと訳のわからんことを言う。
(どうやら、ユダヤ教のクリスマスみたいな祝日のことをそういうらしい)
機嫌のいい時には、
「次の時報で時刻は○時○分です。ピッピッピッ、ポーッ!」と口時報付きで教えてくれる。
かと思うと、夜中に時間を聞いたりすると、運がいい時には、
「1時27分です。おやすみなさい」と言ってくれたり、
「随分遅いですよ…○○:○○分です」とか、
「○○:○○分です。思わずあくびが出そうです」
なんてお茶目なことを言ってくれたりすることもあったりして、そういう時は思わず「おー、ラッキー!」とつい喜んでしまったりする。

さておき、
今日はつれない返事、単に「12時23分です」と言ってくれただけだ。
つまんないの。
とにかく目は覚めたけれど、まだ真っ暗なので、手探りでタバコとライターを探し出し、手探りで昨日の晩飲み残したコーヒーを手に取り慎重に一口飲む。
なぜ慎重なのかと言うと、寝しなにコーヒーカップを灰皿代わりにしたことをすっかり忘れて、タバコ入りコーヒーを過去に五六回飲んだことがあるからだ。
よかった、今日は大丈夫そうだ、、、。
タバコに火をつけ、またコーヒーを一口すする。
さ〜て、すっかり目も覚めたし出掛けるとするか!
どこへ? 何しに?
決まっちゃいないが、人間は起きたら着替えて顔洗って歯磨いてどこかへ出掛けるものだ(笑)。
「あっ、セブンイレブンでドリップコーヒー飲んでホットドッグ食べよう!」
それがまずは今日の第一目標となったので、いざ出発!

アパートの部屋のドア前の極狭スペースに110ccスクーターを置いてあるので、外に出る時は左右5センチ程度しかない空き幅を慎重に確認しつつバックで出なければならない。
最初のうちは出ようとする度に何度も切り返さなくてはならず、それでも左右どちらかの鉄骨の柱にハンドルをぶつけたり、それをうまく避けようとすると反対側のボディをプロパンガスのタンクで擦ったりと、それはなかなか大変な作業だった。
ところが、こういうことはいつしか自然とコツをつかんだりするもので、しばらくすると一度も切り返すことなく、しかも左右5センチの余幅をピッタリと残して一発で出られるようになるからとっても不思議。
それでも体調が悪いせいなのか? 10回に1回くらいは上手く行かない時がある。
1センチ以下ぐらいの誤差で、どうしても通り抜けられないポイントがあって、仕方なく切り返すのだが、そういう時は自分でも驚くほどイライラして、「クソーッ!」とか「ゲーッ!」とか、かなり大きな独り言を発してしまう。
その日もまさにそれで、「ウガーッ!」と一唸りしてハンドルを切り返し、とても嫌な気分でバイクを道路まで引っ張り出した。

部屋の前の道路はなだらかな坂道になっているのだが、坂の下の方からよく似たキャップをかぶった小学3年生くらいの男の子二人が、何やら楽しげに歌いながら? こちらに向かって歩いて来た。
何を言っているのかよく聞き取れなかったのだが、どうやら「太陽電池」と言っているらしかった。

太陽電池という言葉によくわからんメロディーをつけて元気よく歌い上げている。
「ん? 太陽電池?」
何だろう? ひょっとして反原発チビデモ?(笑)
気になって仕方ないのでつい呼び止めた。
「ねぇねぇ、何て言ってるの? 太陽電池?」
歩みを止めて一人が答える。
「うんうん!」
「何よ、太陽電池って」
「だから太陽電池だよ〜、学校の宿題で作ったんだよ」
「へ〜、いいもの作ったんだね〜! どんなものよ」
「えっ? 持って帰って来たよ、、、これだよ!」
そう言ってその子はランドセルを道路に置くと、中をかき回してそれを取り出し、ひょいと頭上に掲げて見せた。
それは銀色の折り紙を段ボールか何かの厚紙に貼っただけの粗末なものだったが、とりあえず褒めておくことにした。
「なるほど〜、それが太陽電池かぁ、すげーなぁ」
「僕のはこれだよ〜!」
そう言って、もう一人の男の子がランドセルから取り出したものは、20センチ四方くらいの単なる段ボールの板のようなものだった。
というよりまさに段ボールそのもの、銀紙が貼ってあるでもなく、、、、。
ところがびっくり!
それは飛び出す絵本のような構造になっていて、左右に広げると厚紙で作った立体的な小さな家が出現し、その屋根の部分に銀色の折り紙が貼ってあるではないか。
え〜? 小学校三年生くらいでこんな複雑なものができるのかと疑問がないわけではなかったが、「お前ズルして誰かに作ってもらっただろ」、、、なんていうのは野暮というもので、、、よく見ると切り取った段ボールのエッジがぐにゃぐにゃ曲がっており、いかにも子供が慣れないハサミを使って切ったようにも見え、やっぱりこの子が自分で作ったのだろうと確信するに至った。
となれば大したものだ。ひょっとしたら実際の飛び出す絵本を参考にしたのかもしれないが、それでも家の展開図を考えて、とっても上手く出来ている。
「すげーすげー! よく出来てるじゃん。それ、ソーラーパネルなんだね!」
「え〜? だから太陽電池〜!」と言ってニコニコ笑う。
「それにしても、チビのくせにうまいな〜」
そういうと、最初に見せてくれた男の子が急に不機嫌になって、僕の顔を睨みつけるようにして言った。
「ねぇねぇ、おじちゃん、このボロい家に住んでるの?」
いやぁ、来ましたねぇ、直球で。
いかにも子供らしい清々しさだ(笑)。
「ははは、確かにボロいわ。じゃあね、ボロいボロいって10回言ってごらん」
その子は指を折りながら早口で言い始めた。
「ボロいボロいボロいボロいボロいボロいボロいボロいボロいボロい」
言い終わると「でっ?」というような顔つきで僕を見る。
「よくできました! じゃあバイバイ〜!」
バイクのエンジンをかけ、「???」を子供たちの頭に置き去りにしたまま、さっさと走り出す(笑)。

あの子たちが40歳くらいのジジイになった時、果たして原発はどうなっているのだろうか?
日本は本当にこのままでいいのか? たぶんそれ相応のツケを払わされることになるんだろうなと、そんな考えが一瞬浮かんだが、すぐに消え、頭の中はセブンイレブンのホットドッグとドリップコーヒーで一杯になった。




高瀬がぶん


[Web Log] / 11/16 11:01

セブンイレブンのレジ台に色んなお菓子が置いてあり、脇に小さなメモがあって、なんだかド下手な数字がいっぱい書いてある。どうやら足し算しているらしく、最後の数字は750となっている。
そこへ、二人の女の子がやってきた。
姉妹らしく上の子は8歳くらいで下の子は5歳くらいだろうか。
上の子が手に持ったお菓子をレジ台に乗せ、
「う〜ん、これで870円かぁ、もう少しだね」
そう言って、メモにそれを書き足した。
レジの女性も僕もいったい何だろうと考えつつ、、、あっ、そうか!
レジの女性が言った。
「そっかぁ、今日はハロウィンだもんねー」
なるほどそういうことかと僕もようやく気付き、
「どうりでこんなにたくさん、ハロウィンだったねぇおじょうちゃん!」
するとそのおじょうちゃんは、実に素っ気なく、
「別にぃ、ヒマなだけ〜」
「、、、、、、、、、」
そんなことってあるか? 
おじちゃんと、たぶんレジのおばちゃんもメチャ切ないよ〜〜!(笑)。

Yahooニュースの記事に対してコメントをすることを「ヤフコメ」という。
ここのところ気になるYahooニュースとしては、まずは、「山本太郎氏、園遊会で天皇陛下に手紙を渡す」、「メニューと販売商品の偽装表示」、そして、小泉純一郎氏が叛意するかのように反原発に与したという話題もあれば、「特別秘密保護法案問題」とか、アントニオ猪木が勝手に北朝鮮へ渡る、という記事もあったりして、いったいどれにコメントしたらよいのやらと迷うばかり。
その中で、特にヤフコメ連中に人気があったのはやはり山本太郎問題だったと思うので、今回はそこに的を絞ってコラムることにする。

いわゆるネトウヨたちの脳内には、反原発=左翼思想、天皇に直訴=もってのほか! プラス根っからの嫌韓という図式が成り立っており、その点から言って山本太郎というのは実に叩きがいがある人物らしく、ほとんど生け贄状態、在特会のヘイトスピーチばりに口汚く罵ることしきり。
ただ、コメントのレベルはかなり低く、おまえのかーちゃんで〜べそ! を思いっきり下品にしたようなものばかり。
で、そういうコメントが入ると「いいねボタン」がドドドーンと押され、「だめねボタン」は数えるほどしか入らないという現象が起こる。
面白いのは、そういう常識外れの投稿者に限って、やれ「ルールを守れ!」とか、やれ「礼儀知らず!」とか、やたら社会人としての常識を山本氏に求めるところだ(笑)。
そういうコメントばかりを眺めていると、「おいおい、そういうお前らはどうなんだ? 社会秩序を乱すようなことはしてないか?」とツッコミたくなるわけで、今回の山本太郎の行為の是否はともかく、アウェイを承知で挑発的な発言をせずにはいられない。
考えてみれば僕ははっきり原発即やめろ派であるわけで、その点については山本氏と思いが同じなのだから、反論のしがいもあるというもの。

ただ、天皇陛下に手紙を渡すという行為そのものについては、はっきり言ってどの程度失礼なのかはよく分からない部分もある。
天皇陛下に手紙を渡すこと自体が不可なのか、それとも、TPOに問題があるのか。
聞けば、天皇陛下に毎年年賀状を出す国会議員もかなりいるというから、いや一般国民の中にもおそらくそういう人は相当数いると思われるが、それはそれで特に問題がないわけで、ここはやはり園遊会という場で直接渡したという行為が非難されてしかるべきところであろうと思われる。
もっとも、ネトウヨたちに対してはそんな生易しい解釈は通用しないが、、、。

ところで僕はこう思った。
少なくとも、年齢差はもちろん明らかに目上の人が両手を添えて手紙を受け取ろうとしているにもかかわらず、懐から出した手紙を片手で渡すなんて、そりゃ山本、いかにも無礼だろ! !
ネトウヨのように「世が世なら、時代が時代なら、戦前なら」という前置きをした上で「手打ちになるところだ!」なんて時代錯誤のことは言わないが、突然差し出された青年の手紙を、両手で受け取る陛下の礼儀正しさを目の当たりにした瞬間に己の無作法に気付けよバカ、ぐらいは言いたい(笑)。
これはほんと、途中で気付いて、遅まきながらでもいいから、もう一方の手を添えるくらいのことをするべきだった。

というわけで、山本氏の至らなさにも大いに不満はあるものの、それを言っちゃったら論旨が狂うので、その点には触れず、こんな風にコメントしてみた。
「ところで、あんたたちはなんで原発推進派なのさ。どうせあれだわ、山本太郎は左翼票で当選、で、左翼が反原発だからこの際推進派に回らなきゃカッコつかないぜ、程度の、原発軽卒推進派なんだろ。アホじゃん(笑)」
すると想像通り怒濤のごとく「だめねボタン」が押され、たま〜に、ひっそりと咲く月見草のように「いいねボタン」がポチッと点く。
そういう彼らの僕に対する攻撃は、「お前みたいな奴はさっさと半島へ帰れ!」というような、ここに書くのも憚られるような朝鮮半島絡みの侮蔑的発言ばかり。
そんなレスがこれでもかと複数続き、それぞれに大量の「いいねボタン」が押される。

困ったもんだよ、このヤフコメは。
明らかにネトウヨのたまり場になっていて、自分の過激な発言に「いいねボタン」がたくさん押されると、それを「国民の声」とか言って自分の発言を正当化しようとする。
だから僕はまたちゃちゃを入れる。
「おいおい、『いいねボタン』がたくさん点いたからと言って、それが『国民の声』なわけないだろ! ろくでもない奴がゴソッとここに集まっているだけの話し(笑)」
そんなことを何度か繰り返したものだから、僕の発言に対する総合評価では「いいねボタン」を10とすると「だめねボタン」が500くらい点くというとんでもない結果に!(笑)。
それで頭にきて(笑)、さらに挑発的なことを書き、「、、、。こういうこと言うと『だめねボタン』がじゃんじゃん点くんだよね〜、おもしれ〜(笑)、さあ、遠慮しないで押したまえ! 諸君!」
すると、思ったより「だめねボタン」が伸び悩むという結果に。
ったく、みんなひねくれ者なんだからぁ(笑)。

発言はすべてアカウント入りなので、そのアカウントをポチッとすれば過去の全発言も自由に見れるシステムになっている。その人がどんなニュースに興味を持ちどんな発言をしているか、それも全てあからさまになるので、その人となりがおよそ把握できてしまう。
基本的にバカはどこでもずっとバカで、発言主旨の統一感もあるのだが、中にはそうではない人もいる。
あっちでバカ発言しておきながら、こっちでは極めて常識的でまっとうな発言をしたりする。
そういう人は言わば確信犯で、バカを演じることにそれなりの意味を見い出しているに違いないので、バカ発言に釣られてうっかりバカ返信をすると、いきなり格の違いを見せつけるような小難しいワードを駆使した長文の返信が返ってきたりする。
そしてバカ返信をした者はタジタジになる。
たぶんそれを楽しんでいるのだ。バカ発言はいわゆる「釣り」もあるので注意が肝心(笑)。

そんな中で、僕の発言で一番多く「いいねボタン」が押されたのは次のようなコメントだった。
「日本の天皇陛下は世界で一番偉い。なぜなら現存する唯一の皇=エンペラーだからだ。エンペラーは王や女王よりも格上と、世界の社交界での序列でそう決まっている」。
反面、一番多く「だめねボタン」が押されたのはこれだ。
「ヒトラー、ムッソリーニ、天皇陛下、、、かつて、これが世界の三大悪魔と呼ばれていたことを知っていますか?」
、、、、炎上!(笑)。
あと、「山本、次はローマ法王で頼む!」もかなりの評判の悪さであった(笑)。

たぶん僕のアカウントで全発言を読んだ人は戸惑うことだろう。
僕も確信犯だけれど、発言の一貫性はまったく無い(笑)。
「お前、あっちではこう言ってたくせに、こっちではこれかい!」みたいなツッコミを受けたら、とても耐えられそうにないが、幸いそんなことするヒマ人もいないようで、何も言われたことはない。
そうして、今ではヤフコメそのものに飽きちゃったので、自分の過去の全コメントを削除した。
アカウント名を変えてまたいつかやろうと思っているところだ。

コメントとは離れて、、、、
「天皇の政治利用」ということが今回問題視されているが、なんなんでしょうか今さら。
天皇家というかいわゆる朝廷が政治利用されなかった時代なんてあったか?
それは現在も同じ。
法律のどこをひっくり返しても日本国の「元首」の規定がないことから、天皇を法的に元首として定めるように働きかけている現政権の目的は何か、よーく考えてみよう。
もっとも国際社会は日本の「元首」は総理大臣ではなく天皇と、ずっと昔からそう決めてかかっているようだが。
そりゃそうだ、名前を覚えるヒマもないくらいコロコロ変わる総理大臣なんて、誰があてにするものか。

ところで今回の山本騒動で一番「?」と思った、というかおかしかったのは、山本氏の謝罪の言葉。
「、、、一番猛省すべきは天皇と皇后陛下の御宸襟(しんきん)を悩ませてしまったということだ」
え〜っ! あの山本太郎が御宸襟なんていう言葉を知ってるわけねーだろう!? という点。
宸襟=天子のお心
これは天皇にしか使わない言葉で、金輪際、日常会話では出て来ない言葉である。
にもかかわらず、あのキャラのあの男が、まるで当然のように謝罪の言葉に入れてきた。
誰かの指図でそうしたのは明らかだが、、、とりあえず「相当ヤバい」と思ったことは間違いなさそうであり、そうなることを予測できなかった軽挙妄動を反省したことも確かなようである。

そんなこんなしているうちに今度は「山本太郎参議院議員に刃物が送りつけられる」というニュースが流れたが、なぜだろうか、ネトウヨたちはすっかり飽きてしまったらしく、コメント数がたいして伸びない(笑)。
と思ったら昨日ニュースで、「天皇陛下、山本太郎氏の脅迫事件を心配される」と。
いやはや、本当に御宸襟(しんきん)を悩ませる事態になろうとは、、、、。




[Web Log] / 11/01 15:15

現実(リアル)と現実感(リアリティ)。
面白いのは、時として現実を現実のまま表現すると却って現実感を損なうことがあることだ。

例えば、テレビのサスペンスドラマのラストシーン。
たいていそこは荒海に面した崖っぷちで、真犯人とかが崖から真っ逆さまに落ちて行く。
カメラは崖の高さがはっきりと分かるような引いた位置から落下者をとらえる。
そんな時の映像を見ると、
「なんだよ、手足の動きの無さ、あれじゃ人形落としたのが見え見えじゃないか、視聴者をなめんなよ、もっと予算かけろよ」
なんていう感想を抱いたりする。
これがハリウッド映画なんかだと、落下シーンはグッと豪華になる。
悪党のボスがラストに高層ビルの屋上から落ちるシーンでは、カメラは真上から俯瞰してとらえ、ボスは空をつかまんと手足をばたつかせ、カッと目は見開き断末魔の叫びをあげながら落ちて行く。
たぶん、そういう映像を見慣れているせいだろうけれど、日本のテレビドラマの安っぽい落下シーンのリアリティの無さにげんなりしてしまうのだが、、、。

けれど、それは大きな間違いであった。
9.11のニュース映像などがそれをよく表している。
逃げ場を失い世界貿易センターの数十階の窓から次々飛び降りる人々、、、見るとほとんどの人が手足をばたつかせることなく人形のように落ちて行く。
そう、それが現実(リアル)なのである。
ものの本によれば、高所から落下死するほとんどの人は落下直後に失神してしまうからだという。
失神してしまえば、なるほど全身の筋肉は弛緩し手足はぷらぷらと、まるで人形のように落ちて行くわけだ。
僕の勝手な思い込みだが、それは人間の防御本能のなせる業ではなかろうかと。
落下する時点で事態はほぼ絶望的で、数秒後には確実に自らの死を迎えることになる。
そのことを承知で、最期の最期まで正気を保つのはあまりに酷である。
地面なり海面なりに激突する恐怖やその時の肉体的苦痛を考えるならば、この際、その前に失神してしまう方が色んな意味で合理的ではないかと思われるからだ。
一方同じ落下でも、スカイダイビングやバンジージャンプのケースでは、事態はまったく逆になる。
中には失神する人もいるかもしれないが、基本的にスカイダイビングやバンジージャンプの場合は生還することが前提で、自身もそのことを承知している。
だから、防御本能の観点から言えば、「こんな時に失神してる場合じゃないぞ!」ということになるだろう。
気持ちが生に向かっているのか、それとも死に向かっているのかでは大いに違う、とそう思う。

ところで、ハリウッド映画はなぜあのようなウソを描くのか。
それは、現実はどうあれ、あのようにわーわーぎゃーぎゃーわめきながら落ちて行くほうがリアリティが増すと判断するからで、実際、それを見る観客たちもその方がリアルであると感じるからである。
いずれにせよ、ハリウッドの映画制作者や日本のTVドラマ制作者が、現実に落下者がどのような落ち方をするかについて深く考えているとは思えないが(笑)。

現実(リアル)そのものではなく、現実からちょいと超越?逸脱?した表現で、より現実らしさ(リアリティ)を感じさせる。
こうした手法は絵画のシュール・リアリズムにも通じるものだ。
シュール・リアリストとして名高いサルバドール・ダリの代表作「記憶の固執(別名=柔らかい時計)」は特に有名だろう。
あの絵画を見てシュールだと感じるのは、なにも「硬い時計がぐにゃぐにゃひん曲がってるなんて何かおかしい」という単純な理由からだけではない。
その奥にあるのは「時計=時間そのもの」についての洞察である。
「ぐにゃぐにゃとひん曲がる時間?」、この奇妙な感じ、、、。
一般的に言って、時間というものは硬直したもの、直線的で一方向に一様の速度で流れていると考えられている。
そう考えるからこそ奇妙な感覚を覚えるのではないだろうか。
常識的に考えればみなこう思う。
君の時計が一時間進めば僕の時計も一時間進む。
ひいては、誰の時計だって同じように一時間は一時間、同じように進む、、、と。
しかし、そんな常識は100年も前にアインシュタインによって覆されている。
アインシュタインが1915年に発表した一般相対性理論の中で提唱した「時間」というものは、それぞれの物質(人間も含む)の運動状態(重力)によって進み方が変化する、というものだった。
そして、後年に行われたいくつかの実験によって、それが科学的真実であることが証明された。
平たく言えば「地球でじっとしているアナタの時計が一時間進んだとしても、準光速のロケットに乗っている私の時計は5分しか進まないよ」と言うような具合で、、、時間は硬直したものでは全然なくて、もっとフレキシブルなものである、ということを意味している。

その時間の概念は、まさにダリの描いた「柔らかい時計」そのものである。
アインシュタインの理論が発表されたのは1915年、そしてダリがその作品を描いたのは1931年。
とすれば、ダリが科学に興味を持っていれば、とっくにその事実を知っていたはずだ。
しかし、ダリはその事については一切触れていない。
ダリはこの作品について、「カマンベールチーズを見て、、、スーパー・ソフトという哲学的問題について、長い間瞑想に耽った」と、なんかトンチンカンなことを述べるにとどまっているが、本当にそれだけで、科学的知識はなかったのだろうかと、それが今もって大いなる謎である。
ところで、このケースの場合はリアルとリアリティの逆転現象が起こっていると言えそうだ。
なぜなら、上述したように、ダリの「柔らかい時計」は時間のリアルな姿そのものを描いたと言えるわけで、そうなれば、シュール・リアリストというよりむしろリアリストと言った方が相応しいのではないかと思えるからだ。

 絵画絡みでもうひと話し。                              
ヘンリー・ダーガーは、「非現実の王国で」を膨大な量の挿絵と文章で一生をかけて、しかもこっそり描いたが、彼自身はとっくにその王国の住人であったろうと思われる。
彼が50年以上もの間、現実世界で黙々と病院の掃除夫をしている時は、彼にとってそれは仮の世界の出来事であり、部屋に戻って机に向かったとたん「カチンッ!」とスイッチが入って、自分が戻るべき「非現実の王国」という彼にとっての現実世界が全身を包み込む。
この際、彼に何らかの精神障害があったかどうかはさして問題ではなく、彼が感じるこの世界の価値観やリアリティは、こっちの現実世界ではなくそっちの非現実の世界の方にあった、、、と、そう考えてもいいのではないかと思う。
300枚の挿絵と15000ページの文章にも及ぶその超超大作を、本人はまったく発表するつもりがなかったというのも実に清々しい。
結果として他人によって世間に発表されてしまったが、もし誰も気付かずそのまま焼かれていたりしたら、、、いや実際彼がそう望んでいたという言質も残っているし、そういう彼の自己完結っぷりは実に見事というか、まさに尊敬に値するものだ。

ところで、非現実の王国に住む者は何もダーガーだけではない。
僕の父の晩年もまさにそうであった。
父は認知症が徐々に進み、現実と非現実の区別がつかなくなって、どんどん幸せ(本人にとって)になっていったと思う。
ある時の父との会話。
父「あわわわ、ちょっとお前わしの身体抑えてくれ!」
僕「どうしたの?」
父「身体が浮いちゃってちょっと気持ち悪いんだ」
僕「え~、そりゃ大変、何センチくらい浮いちゃってるの?」
父「十五センチくらい布団から浮いちゃってるわ」
僕「はい分かった、エイヤッ! これでいい?」
父「うん、悪いがしばらくそうやって抑えていてくれ。すぐに浮かなくなるから」
僕「はいよ、ところでオヤジ、最近どう? 元気?」
父「おう、まあまあだな」
僕「そういえば、昨日、田舎の○○おばちゃん(父の妹)から、あんちゃんは元気にしてるかって電話あったよ」
父「そうかそうか、元気だよーって伝えといてくれ」
僕「おばちゃんももういい歳だけど元気だよねー」
父「ははは、元気なのは○○だけじゃないぞ、おかげさまでわしの兄弟9人とも全員元気にやっとるわ」
僕「そうかそうか、そりゃよかった」

父の兄弟9人のうち生き残っているのは父とその○○おばちゃん二人だけだった。
先の戦争で男兄弟4人が亡くなったのを始め、兄や姉もやがて亡くなり、末っ子の○○おばちゃんとそのすぐ上の兄である父だけが残っていた、、、それが紛れもない現実。
でも、その現実にいったい何の意味があるのだろうか?
父が感じているリアリティは、兄弟9人全員が元気で暮らしている非現実の世界にあるのだ。
だから父の言う事を否定はしない。
リアルよりもリアリティのほうがずっと価値があるからだ。

人々が感じるリアリティの数だけ、この世界のリアルは存在する。
だから僕も自分のリアリティの世界に棲んでいる。
いわんや、羽虫だって羽虫のリアリティの世界に棲んでいる。
羽虫が部屋の中を飛んでいる時、その大気は、それはちょうど人が水をかき分けながら進む時のような抵抗と粘着を示すと言われている。
羽虫は大気のリアルをそうしたものと受け止めている。

それではここで問題です。
何かというと「リアル」という言葉を連発するのは誰でしょうか?
正解は出川哲朗、、、ではありません。
たぶんイラン国民です。
「リアル」というのはイランの通貨単位ですから(笑)。




高瀬がぶん

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