蛍光灯ってのはイライラする。
昔と違って最近の蛍光灯はすっかり性能が良くなり、たいていはスイッチの紐を引っ張るとすぐに点灯するようになってきている。
それでも、しばらく使っているうちに本来の蛍光灯力を発揮し始め、数秒間チカチカしてからじゃないと点かない、ってな状態に成り下がることもあるようだ、、、。

僕の部屋の蛍光灯は輪っかが二重になっているタイプで、最初のひと引っ張りで大小ふたつの明かりが点き、もう一回引っ張ると内側の小さい輪っかが消灯し、外側の大きい輪っかひとつだけの点灯状態になる。
それがいつの頃ころか、最初のひと引っ張りで両方同時に点灯するはずなのに、内側の小さい輪っかだけが先に点いて、大きい方がすぐには点かなくなってきた。
そのタイムラグが二、三秒だった頃には、まあ所詮蛍光灯だしそんなもんか、と思ってその不甲斐なさを黙認してやっていたのだが、だんだん増長してきて、大っきい輪っかが点くまでに数十分かかったりすることもあったりして、さすがにもう勘弁できなくなり、ある時点から二つ両方点灯を諦め、最初っから二回連続引っ張って一個点灯状態を保つ習慣がつくようになっていた。

そんなある日のこと。その日はたまたま外出せずに部屋にずっといたのだが、ちょうど昼頃に目を覚ましてとりあえず部屋の明かりを点け、、、自分的にはいつものように二回引っ張ったつもりだったのだが、二回目の引っ張り方が弱かったんだろうねたぶん、、、しばらくしてふと気付くと、内側の小さい輪っかがひとつだけ点いているではないか。

あれ? この状態は変だぞ。
二回引っ張って一個点灯の状態だとしたら、点灯していなくちゃならないのは外側の大きい輪っかのはず。なので、内側の小さい輪っかひとつだけが点いているということは、例のタイムラグ状態にあることを示しているのではないか。
時計を見ると午後二時五十分。
起きたのが昼頃ですぐ明かりを点けたはずだから、なんと! この蛍光灯は三時間近くもの間、次の大っきい輪っかが点くのを待っているということになる。
まさか、蛍光灯の特徴とはいえ、いくらなんでも準備運動長過ぎるだろ!
常識的に考えて、そんなタイムラグが生じるはずはない、おそらくもう大っきい輪っかの方は切れてしまっているに違いない。
そう思いつつ、でもなぁ、もしかしたら点くかもしれない、どうせならこのまましばらく放っておくことにしよう、、、と。
そうして、いつものようにパソコンをいじり始め、やがて蛍光灯のことなんかすっかり忘れてネットサーフィンをしていると、ある時、例の「ピキッ」という音がしたと思ったら、次の瞬間「パッ!」と部屋が明るくなったではないか。
おおおぅ! 点いたぞ両方の輪っかが!
時計を見ると、午後五時四十三分!
「今さら~!?」
けど、なんか感動した。
「なかなか点かねぇなこの蛍光灯」とイライラしながら待つ、という人間の我慢の限界をはるかに超えた存在に、こいつは知らず知らずのうちになっていたのだ。
このずぼらさはある意味賞賛に値する。
最長不灯時間をさらに伸ばし、最初のひと引っ張りから三日たたないと次が点かない、という夢のような、もとい、悪夢のような超常蛍光灯になる可能性も秘めている。
、、、とここまでを読み返してみて、ん~、この蛍光灯のくだり、長いわりに内容がまったく薄いことに自分でも呆れるが、書いちゃったものは仕方がない、そのままにしておこう(笑)。


さて。
20世紀最大の哲学者と言われたバートランド・ラッセルは、ローマカトリック教会を相手に盛んに宗教論議を交わしたことで知られている。もちろん否定する立場でだ。
その彼が政治犯として投獄された時に、担当の看守から「お前の信ずる神は何か?」と問われ、「私は不可知論者だ」と答えると、その言葉を知らなかった看守はこう言ったそうだ。
「そんな名前聞いたことないが、せいぜいその神様を大切にするこった!」

そういう僕も不可知論を信じる者。
神とか真理とか真実とか、そういうものは有るかもしれないし無いかもしれない。で、もしあったとしてもそれを知る能力を人間は持っていない、、、という立場。
だから、僕はどうも宗教というものが苦手でというか嫌いで、生活習慣としてお葬式とか法事とかそういうことには参加するものの、本気で宗教を有り難がったりしたためしはない。
これを一言でいうと、「絶対他者」を認めない、ということになるかもしれない。
特にあのお経の時間は退屈で、基本的に何言ってるか分からないし、足はしびれるし、早く終わらないかなぁと、いつもそればかり考えていて、お経の語尾が一旦伸びて「ゴーン」って鳴ったりすると、やっとこれで終わり、、、かと思うと、それがちょっとした息継ぎで、再びムニャムニャ始まったりするわけで、心底がっかりする。
それでもまあ、生活の知恵、人間関係を円滑にするために、適度に信心してるふうの行動をとるのが大人の態度というもので、心とは裏腹に「ありがたい」という姿勢は崩さない自分がいる。
その虚勢が精一杯の妥協点。
だからお寺に行ってうっかり柏手打ったりして、「ちがうちがう!」とツッコまれても、「そんなことどうでもいいだろ」と、心の中ではそう思ってる。
不信心の僕としては、和洋問わず、どの宗教も人生訓としての有効性はある程度認めるが、それに乗っかって全人生を賭けるみたいなことを、果たしてどのような頭の構造がそれをさせるのか、いい歳して未だに理解不能だ。
理屈はいらない、ただ信じれば良い、、、なんて、架空請求じゃあるまいしその手は喰わないっての。

とりあえず海の向こうの宗教にケチをつけてみる。
だいたいからして、あんなに激しく争っているユダヤ教キリスト教イスラム教も、呼び方こそ、ヤハウェ(エホバ)、ゴッド、デウス、アッラーとそれぞれ違うものの、信ずる神は同一人物、もとい同一神物。言葉の意味はいずれも「私は在る」ということらしい。
しかも、元はと言えば三者ともアブラハムお父さんの子供たちではないか。だから、三つまとめてアブラハムの宗教と言われている次第で、そのアブラハムの正妻に仕えていた女奴隷に生ませた子供を推すか、後に生まれた正妻の子供を推すか、みたいな、結局のところどこにでも転がっているドロドロの継承問題が原因でそれぞれに分岐したわけだ。
このような俗っぽい権力闘争と神聖さを、いったいどうやったら同居させることができるのかとても不思議だし、現実問題として、昔も今もそうした矛盾を抱えつつ、「聖戦」を謳いあげながらもその権力闘争の側面だけが表面化し、その結果として語り尽くせないほどの争いが起きているのではないか、とそう思う。
9.11、イラク戦争、その後の現在進行形のイスラム教VSキリスト教+ユダヤ教の戦いも、所詮は、妾の子の子孫と正妻の子の子孫による兄弟喧嘩、ということになるが、まったくの他人同士ではない故にその愛憎もまた深いものなのだろうなと推察する。

さておき、いずれの宗教(東洋的宗教も含む)にしろ人は何らかの「救い」を求めて信者になるのだろうが、そんなことせずに自力で解決すべく努力を重ねるか、神や仏ではなく、自分の周りにいる親切な実体のある生きている人に「頼む助けてくれ!」と言った方がより確実なような気がするのだが、どうなんだそのへん。
それにアメリカ映画などを見ていると、敬虔なカトリック教徒であるギャングが散々人を殺してから教会にのこのこ出掛けて行って懺悔して、さっさと許されるもんだから「これでまた安心して人を殺せる」みたいなことが起きている。
そんなとこで簡単に許したりしちゃダメだろ、いったい何考えてんだ! 

そんなこったから神様は信用できない。
もっとも、そういう自分も財布の中の最後の千円札をパチンコのサンド(玉を借りる機械)に入れる時、「頼む!当たってくれ!」と図らずも口走ったりすることはあるが、すぐさま「あれ? オレは今いったい誰に頼んだんだ??」と反省する。
そういう時だけ信じてもいない神や仏にお願いごとするのは卑怯だし、第一、パチンコを出すみたいな下世話なお願いを聞いてくれる心の広い神や仏はいないだろうと推測される(笑)。
つまりあれは、僕の脳裏にパラレルに存在するもうひとりの運の強い自分に頼んでいるんだな、というのが結論。

その結論を見る限り、神様を信用していないからと言って、必ずしも自分が信用できるというわけでもなく、結局のところ迷える子羊には違いないと悟りつつ話しは次回につづく。

高瀬がぶん