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[Web Log] / 10/15 11:50

比較的新しいパチンコ台の「CR冬のソナタ・Final」を打った。
今さら冬ソナでもないだろうにと思いつつ。
この会話が始まるとプレミアム! というリーチで大当たり!
チュンサン「好きな動物は?」
ユジン「私は犬かなぁ、あなたは?」
チュンサン「ひと、、、」
ユジン「
とまあ、ドラマの方は一度も見たことがないので分からないが、どうやら名シーンらしい。
でも、これじゃ面白くないなと思った。
チュンサン「好きな動物は?」
ユジン「私は犬かなぁ、あなたは?」
チュンサン「ひと、、、で」
ユジン「きゃあ気持ち悪い!」
これだったらウケるのに、、、と妄想してしまった。
バカだわオレ。
それにしても韓流ブームってのは「冬のソナタ」を超えるものはなかったなぁ。

十年ほど前の新聞の小さな囲み記事を思い出した。

横浜のみなとみらいの遊園地にある観覧車の下で、なにやら挙動不審の中年男がいた。
閉園時間を過ぎて夜中が近いというのに、何をするでもなく途方に暮れたようにぼっと佇んでいた。その様子を目にした誰かが通報したのか、それとも巡回中の警察官の目にとまったのかは定かではないが、とにかくその男は交番に連れて行かれた。
しかし、その男は自分がどこの誰なのか、どこからやってきたのか、なぜ観覧車の下にいたのか、それらを全く覚えていなかった。
理由は分からないが、完全な記憶喪失に陥っていたと記事は伝えていた。
その後、数日か数週間かは忘れたが、経過報告のようにして今一度その男についての小さな記事が掲載された。
何を聞いても覚えてはいなかったが、言葉の訛りから出身地域にあたりをつけ、そちらの管轄署に家出人届けを照会したところ、運良く素性が分かったということだった。
確か、静岡県のどこそこの町の人で、突然姿を消した家人の捜索願いが提出されていたことで本人確認ができたという話しだった。
記事はそれで終わっていたのでその後どうなったのかは知らないが、おそらく無事家へ戻ったことだろう。
もっとも記憶も戻ったかどうかは知る由もない。
なぜ静岡から横浜にまでやってきて、あえてその観覧車の下で佇んでいたのか、それは謎のままだという。
いわゆる、自分の過去の思い出やエピソードをすっかり忘れてしまう、全生活史健忘という記憶障害。

このニュースをなぜ思い出したかというと、五月末に書いたコラム「失われた時間」にあるように、僕自身がほんのちょっとだけど、記憶を失っているからだ。
事故で意識を失う直前の、おそらく五秒程度の記憶が全く抜け落ちている。
従って、事故の危険を察知するということもなく記憶は途絶えている。
意識を失っている間の記憶がないのは当然だが、意識を回復したのちの数十分間の記憶も曖昧だ。
自分の人生の中での数十分程度の記憶がすっ飛んでいるというだけでも、かなり気持ち悪くて、なんとかして思い出したいと努力?するのだが、今のところ思い出す気配はない。

だとしたら、このニュースの男のように自分の過去の全記憶を失ってしまった人は、いったいどんな気分なんだろうと、そのことが気がかりでならない。
僕の場合は、継続的な記憶の歴史にぽっかり小穴があいたみたいなもので、いや、だからこそ気持ち悪くてなんとかその穴を埋めたいと思うのかもしれないが、いさぎよく過去を全部忘れてしまった人は、案外さっぱりしていい気分なのかもしれないとも思う。
誰だってひとつやふたつ忘れてしまいたい過去はあるわけで、言葉のあやじゃなく、人生を最初からやり直すことができるなんて、かなりエキセントリックな体験に違いないけれど、ある意味魅力的でさえある。
記憶喪失が長時間治らないという人のために、法律的にもちゃんと決まりがあって、いつか過去を思い出すまでの間、仮の措置として、新しい戸籍や姓名さえも取得することができるという。
まったく別人として生き、結婚したり運転免許をとったりすることも可能である。
もちろん、一生過去を思い出すことがなければ仮ではなく正式なものとなるわけだが、、、。
もしある時過去を思い出したとしたら、仮の戸籍や姓名も元に戻せるということになっているらしい。
ただ、人間の頭っていうのはいったいどうなっているのやら、古い記憶を取り戻した瞬間、記憶喪失が始まって以降の新しく蓄積された記憶は全部失って、上書き保存されてしまうこともあるというからややこしい、記憶っていうのは本当に不思議。

ものを忘れるというのは、人間の脳の欠陥ではなく機能のひとつであるという。
生活の知恵として、それはよく分かる。
自分にとって大切な人を失った場合、時間の経過が記憶を少しずつ奪い、悲しみの濃度が薄れていく。
忘れるわけではないけれど、衝撃の鮮度が落ちることによって気分は楽になる。
そうじゃなきゃ長い人生やってらんねぇ、ということなのだろう。

一方、病的に忘れる機能を失う人たちもいて、それがいわゆるサヴァン症候群と言われるもので、記憶に関する特殊技能を発揮して見せたりするわけだ。
記憶がどんどん蓄積されて、そのうち脳がパンクするんじゃないかと心配になるが、カレンダー人間はカレンダーだけ、音楽人間は音楽だけ、というふうに、一点集中で記憶を蓄積するだけなら大丈夫ということなのだろうか、よく分からん。

僕らはふつう、大切なことは覚えていて、たいして意味のないことはすぐに忘れる。
と、そういうふうに思っているが、それがそうでもないから面白い。
記憶と事の重要性は直接的には関係ないのかもしれないと思う。

駄菓子屋のおばさんの左目尻の小さなホクロ。
五十年以上も前、僕が小学三年生くらいの時に、当てくじで四等(はずれ)を引き、小さな赤い飴を手渡すおばさんの顔の記憶。
その出来事は僕の人生にとって、ほぼなんの意味もない。
その駄菓子屋には毎日通っていたし、特等も数回引いているわけで、あえてその四等を引いた瞬間のおばさんの顔を覚えていてどうすんだ、という話しなのだけれど、なぜか鮮明に覚えている。
逆に、特等を当てたという記憶はあるものの、その時の映像を頭に浮かべることは今となっては全くできない。

そういうふうにして、今こうしてとりとめのない子供の頃の記憶を思い起こそうとすると、、、ビスケットに描かれた国会議事堂の絵柄、レの音が出ないハーモニカ、思い出せない誰かの葬儀の時に祭壇の裏で発見した五円玉、パチンコ好きのオジサンがくれた景品の安っぽいチョコレートの匂い、小学校の教室の一枚だけ割れている窓ガラスの割れ残ったガラスの形、、、そんなものが、無意識のうちに次々と浮かんでくる。
しかも、どれもこれもがエピソードとも言えぬ、その後の僕の人生に影響を与えるものではあり得ないほどの些細な出来事ばかり。
どうしてそんなものが脳ディスクに残っていて、今さらダウンロードされるのだろうか。
もちろん、僕にとって特に印象的な出来事は、それはそれでちゃんと覚えてはいるのだが。
思い出すものと思い出さぬものがある以上、その記憶の淵に何らかの意味があるということなのか。
それは僕が無自覚なだけで、何十年も経った今も記憶に残っているということは、そういった一見無意味に思える些細な記憶の積み重ねこそが、現在の僕という人間の人格を形成していると考えるべきなのだろうか。

人間は歳をとればとるほど過去の記憶にしがみつく。
未来の時間はどんどん減って行くのだから、それは当然と言えば当然のことだ。
いつか、自分の人生の出来事の思い出せる限りのことを思い出すことにトライしてみようと思う。
時系列なんてどうでもよい、果たしていくつのエピソードを思い出すことができるだろうか。
人生の全てを思い出すという、死ぬ間際のフラッシュバックなんてあてにならないからね(笑)。
ただ、本当にフラッシュバックが始まったとしたら、どんなに危篤だろうと僕は永遠に死ぬことはない。
フラッシュバックの最期の死の瞬間を迎える時に、再びフラッシュバックが始まるはずで、そのループはいつまでも続く、、、はず。




高瀬がぶん

[Web Log] / 10/02 9:12

稲村、極楽寺に長いこと住んでいるからには、9月26日に開催されたイナムラサーフィンクラシック(通称イナムラクラシック)について触れないわけにはいかないだろう。
よく覚えてないが、このコラムを始めた当初にもしかしたら一度書いているかもしれないが、まぁいいや、どうせ覚えていないでしょうから、また書くことに。

今三十歳以下くらいのサーファーたちにとって、このイナムラサーフィンクラシック自体がもはや伝説的と言えるだろう。
なんせ、1989年に開催されて以降、24年振りに開催された大会なのだから。
とにかく気長に待つしかない、滅多には開かれない大会なのである。
「稲村にでかい波が立つぞー!!」
という状況がやってこない限り、主催者側は大会を開くつもりはないのだから、、、。
大会の実行委員長は日本におけるサーファーの草分けの一人、長沼一仁氏。大会名誉顧問には小泉純一郎氏を拝している。
もともとこの大会自体長沼氏がナガヌマクラシックと称して始め、二度ほど開催された後にその名をイナムラクラシックと変えたものだ。
長沼氏と言えば、みなさんもういい歳の人たちばかりの稲村ロコ(稲村ローカルと呼ばれるサーファー集団)の一人。
六十三歳というからちょうど僕と同い年(笑)。

僕は直接面識はないのだが、たぶん高校生くらいの時に出会っているんじゃないかと思われる。
当時僕ら不良学生(笑)は、よく稲村のR134沿いの喫茶店でパーティを開いていた。
そこはいつ行っても暇そうな、友人の父が道楽でやっているような店で、ちょくちょく店を閉めてはパーティを開催する。
集まる連中はみんな鎌学(鎌倉学園高等学校)の同級生ばかりだから、当然男の子のみ。
基本、女の子はあらかじめ用意しない。
パーティやるぞー! ってなってから、由比ケ浜や稲村ケ崎での現地ナンパ調達。
メンバーが散って二時間ほどすると、だいたいいい具合に女の子の参加者が集まって来るという感じではあった。
そんなことを何回かやっているうちに、友達の友達っていう感じで、他の学校の同級生ではない男の子たちもやってくるようになって、そんな中にサーファーたちも何人かいた。
といっても、当時はサーフィンなんてやっているやつはまだ珍しく、というか「冬なのに海入るなんてバカヤローだわ」という時代で、彼らの多くはいつも咳き込んでいたような印象が強い。
寒さでみんな気管支をやられているのだ。
その当時はまだウエットスーツという物がなかったのだ。
いや、あるにはあったがスキューバダイビング用の超高価なもので、よほどの金持ちじゃない限り、そんなものを使う者はいなかった。
そんな中にひょっとして長沼氏もいたんじゃないかなぁ、と今になるとそう思えてくる。

稲村ロコは十数人いるが、その中にはけっこう仲良くしているゴーちゃんこと行岡豪もいる。
たぶん知ってる人も多いだろうが、江の電稲村駅から極楽寺駅へ向かう踏切のところで、サーフワンというサーフショップをのんべんだら〜りと経営している。
ゴーちゃんはたいていは店の中で寝っころがっているか、波を見に行っているか、向かいのピザがめちゃうまいキーウエストでコーヒーを飲んでいる。かと思うとたまーに、藤沢のパチンコ屋で顔を合わせることもある(笑)。

このゴーちゃんに以前稲村の伝説について話しを聞きに行ったことがある。
伝説と言ってもイナムラクラシックのことではない。
何十年かに一度やって来ると言われる、幻の大波「大稲村」のことだ。
これは稲村のセンター(稲村ケ崎公園の先端から沖にかけてのサーフポイント)で割れる日本最大級の大波のことを言う。
その高さはおよそ12メートル。
センターの沖合の海面下にショウセン根と言われる岩棚があり、そこに波が当たって立ち上がり、岸に到達する前に消えてなくなるという。
ゴーちゃん曰く「本当の大稲村が割れると、逗子から江ノ島まで一本の波でつながる」というから、確かに凄い。

この幻の大波「大稲村」をモチーフに作った映画が、言わずと知れたサザンの桑田の「稲村ジェーン」なわけだが、これには色々あって、、、実はこの映画を作るに際し、製作サイドが稲村ロコたちに協力を求めて来たという。
しかし、稲村ロコと言えば、なんせ頑固ジジィたちの集まりみたいなものだから(笑)、その商業主義的な態度が気に入らなかったのか、一切の協力を断った、と。
結果、映画のサーフィンシーンは伊豆の弓ケ浜で撮影することになったというお話し。
余談だが、僕的に桑田は鎌学の後輩にあたるので、ちょっとした親しみを感じるのだが、やはり茅ヶ崎の人間ということで、今ひとつ稲村ロコたちとは噛み合わなかったのかもしれない。
もっとも稲村ロコの一人でありウエットスーツ販売の草分け的存在である「RASH」の代表者も鎌学の一年後輩なんだけれど。
この「RASH」、社名は「イナポリトレーディング」と言って「稲村ポリス」の略。
つまり、稲村駅近くにある駐在さんを揶揄したなかなか気の利いた名称なのである。
この駐在さんと僕も同い年ということで親交があったのだが、確か四十代後半頃に突然亡くなってしまって気の毒なことだった。

で、イナポリトレーディングの彼もイナムラクラシックの主催者側の一人で、いつだったか(たぶん10年くらい前)、たまたまテレビのドキュメンタリー番組で見かけたことがある。
テーマはずばり「イナムラサーフィンクラシック」のことであった。
海に面した「RASH」の社屋から気象情報を気にしながら沖を眺めつつ、「ようし開催決定!」と一旦は全世界に向けて発信!
これはマジ、過去の大会では当時の世界チャンピオンも遥かアメリカから駆けつけており、その時のライディングの写真を見せてもらったこともある。
大げさに言えば、世界の至る所にいるサーファーたちがこの大会の開催を楽しみにしていて、そのテレビ番組の時は、開催決定の発表が開催日の一週間前程度だったもので、世界のどこにいても稲村ケ崎に駆けつけることができたはずだが、なんと三日ほど前になって気象状況が不十分で開催が突然キャンセルされるという結果に(泣)。

話しを戻して、、、。
さて、この「大稲村」と言われる伝説の大波、実際に来たことがあるのか?
そして、その大波に乗ったサーファーはいるのか?

話しを聞けば、今から四十年ほど前に一度だけ来たという。
この波が立つ条件は非常に厳しいものがある。
まず台風が寄り添うように二つ連なってやって来なければ「大稲村」までの大きな波にはなりにくい。
加えて、本土に上陸してはダメで、すれすれに本土をかすめて太平洋岸を通過しなければならない。
この二つの条件をクリアしなければ「大稲村」は生まれないのである。
今回のイナムラクラシックでは、大会開催者側は、気象状況的に台風が本土沖合をかすめるように通過するであろうことを予測し、2日前に開催決定を発表しているが、やはり一個の台風では力不足か、映像を見る限りいい波は来ているが、「大稲村」と呼べるほどのものではなかった。
それに2日前では、さすがに海外からは駆けつけにくい(笑)。
では、その四十数余年前はどうだったのか。
その当時の気象図を調べたことがあるが、確かに目玉のように連続して二つの台風が太平洋沖合を通過している。

稲村ロコと言わず、全国のサーファーで「大稲村」に乗った者はまだ一人もいない、、、。
「一人だけ、挑戦した人間がいるんだけどね、、、」
ゴーちゃんがそう言って挙げた名前はカカイ君こと抱井保徳氏。
これまたレジェンドサーファーでありレジェンドシェーパーの一人でもある。
カカイ君は元々千葉の人間で、日本初のプロサーファーである川井幹雄氏に師事し、’75年に湘南に移り住み茅ヶ崎のゴッデス、そして七里のナガヌマサーフボードを経て、現在はK-SHAPE SURFBOARD(ケイシェープサーフボード)を経営、という人物。

その当時カカイ君は稲村のメイン(レストラン)の裏にあるアパートに住んでいて、僕はもちろん訪ねて行き直接その時の話しを聞いた。
「何しろすごい波でした。岸からパドリングでポイントめざして沖に向かうんですが、あまりにも波のうねりが大きくて、途中でどっちが沖でどっちが岸なのか全く分からなくなりました。前後ともに視界がまったく効かない状態で、正直命の危険を感じていました。それでも頑張ったんですが、途中で力尽きて、ほんとに命からがら引き返してきたんです。結局、波が立っているポイントにも到達できなかったわけで、、、」
僕はこう質問した。
「パドリングでポイントまで行くこと自体が無理なんじゃない? 他に方法あるだろうに」
するとカカイ君は言った。
「それはあります。逗子の方からモーターボートかジェットスキーを使って一度沖合に出て、そこからショウセン根の方に向かえば、たぶん乗れます。でもそれじゃダメなんですよ。たとえそうやって乗れても、ロコの連中は誰も認めてくれやしませんし、僕自身もそれじゃイヤなんです。飽くまで岸からパドリンで行って乗れなきゃ意味ないわけで、、、」
「そうかぁ、いつか東京者あたりがジェットスキー使って大稲村に乗るね(笑)」

そんな話しをしたのが、かれこれ二十年ほども前のこと。
そして現在。
「大稲村」が割れたというその時からはすでに四十年ほど経っている。
それでもまだ東京者も「大稲村」には乗れてはいない。
そりゃそうだ。
あれから四十年以上経っても、幻の大波「大稲村」は割れていないのだから、、、。





高瀬がぶん

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