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[Web Log] / 05月31日 22:51

今回は、「長くなりそうな話」をちょっと中断して、先日起きたことを書きとめておきます。あとで、あ〜あの頃のことだったんだなと分かるように。

「気がついたら病院のベッドの上、、、」
って言う話しはよく聞くが、こないだ初めてそれを体験した。
大雨の中バイクで事故って頭打って気絶! 正真正銘、気がついたのは病院のベッドの上で、「お名前は? 生年月日は?」という女性の声で初めて気がついた。
それから数時間は意識朦朧ながらも、人間することはちゃんとするんだなぁと後で実感した。
たぶんiPhone取り出して姉の電話番号を調べ看護師さんに教えたり、免許証を出したり、、、どうやらそんなことはしたらしい。
記憶は曖昧、、しかも、事故の記憶については全くないのだ。

これまでバイクで五〜六回事故っているが、記憶が抜けていることは一切なかった。
数年前の秋から冬にかけて、わずか4ヶ月の間にバイクで3回も事故ったことがある。不信心だからと言ってバチ当たり過ぎ! っていう感じで、とにかくよくコケた。
しかもそのうち2回はバイク全損!
そんな短期間にバイク2台を潰すとは珍しい、とレッドバロン(いつも買うバイク屋)の人は仰った(笑)。
で、その2回の全損事故のうちの1回は、救急車で運ばれるほどの事故になったのだが、、、。
車に撥ねられる瞬間、目の前に広がった真っ白い壁のような光景。それは僕を横から撥ねた車が白いワンボックスカーだったからだ。そして、身体が5メートルほど飛ばされ道路に叩き付けられた時の鈍い音と全身に走った電気的なショック。ちっとも痛くはない、ただただ寒い! 身体を動かそうとしても、手足がピクリとも動かないのでかなり焦る。撥ねられて転がっている場所が道路の真ん中なので、このままじゃまた轢かれちゃうかもと。
しかし、そんな心配をよそに、すぐに何人かの人が駆け寄って来てくれた。
その現場がたまたま湘南記念病院の目の前だったので、駆けつけて来てくれた人の中には看護婦さんの制服の姿もあり、「あっ、ちょうどいい!」とか思ったりしたが、なぜか救急車が呼ばれ、目の前に立派な病院があるにも関わらず、結局別の病院への搬送ということになったのだが、その間も身体はまったく動かなかった。 

ところが、搬送先の病院のベッドで二時間ほど休んだら意外にも身体は普通に動くようになり、傷も擦過傷だけなので帰ってよし!、、、なんだよおいっ!、、、という具合に、寸分の隙間なく記憶は連続している。
他の事故の時も「いててててー!」という程度で済んでいるので、覚えていないと言うようなことは一切ない。

それが今回は事故と言っても相手はおらず、たぶん30キロ程度の速度で走っていて、なぜか理由ははっきりしないが、自分で勝手にコケただけなのに、不思議なことに、コケる瞬間どころかコケたと思われる場所の20メートルほど手前までの記憶しかないのだ。
そして、次の記憶が病院のベッド。
その間の時間が僕の人生からすっぽり抜けてしまったことが、なんか妙に気持ちが悪い。
それに納得がいかない。
雨が降っていて路面が滑りやすかった? 確かにそれはある。
それにしても、普通事故る時は「あっ!」と思う瞬間があって次に何か好ましくないことが起こるわけで、少なくともその「あっ!」までの記憶があってもよさそうなものなのだが、その「あっ!」の記憶さえもまったくないのだ。
ごくごく普通に走っていて「雨がけっこう降ってるな」程度のことを考えていたかいないか、とにかく何か危険を察知したとか言うことは全くない状態が最後の記憶なのだ。
もっとも、今回のように頭を打ったりすると、その原因となる出来事から遡った時点からの記憶が失われる、ということがよくあるらしく、それを今後思い出すかどうかは分からない、と医師は言う。

思えば、これまで経験して来た事故で、頭を打ったことはなかった。
先ほどの身体が全く動かなくなった事故でも、倒れる瞬間自然に両手で頭をカバーしていたようで、両肘、両掌はかなり酷く傷ついたが頭は打たなかった。
それが今回とは違う点で、もっとも不思議な点でもある。
今回、両腕、両掌にはかすり傷さえない。
素手でハンドルを握っていたにも関わらずだ。
擦過傷や痣として残ったのは、左の膝とその周辺、そして左顔面の頬骨、顎、目の周辺。加えてヘルメットの左側の擦れ傷。
何がどうなったのかは分からないが、この傷を見る限り、手を出さずに顔面から路面に突っ込んで行ったことになる。
そして頭を打ち、結果として、気絶し、脳内出血を起こしていたという、、、。
なんで? なんでオレは手を出さなかったんだ?
それが分からない。
事故現場は50メートルほど続く幅2メートルの狭い直線道路。そんなにスピードを出せる場所でもないし、特に障害となるようなものは何もない。
倒れたのは自動車修理工場の前で、作業していた人が事故の一部を目撃しており、その人が救急車と警察に連絡してくれていた。
加えて、バイクも預かっていてくれたので、病院の帰りに寄って話しを聞き、ついでにそのバイク(どこも壊れてない、ラッキー!)に乗って帰ってきたのだが、、、(笑)。

「倒れる瞬間は見てないんですが、なんか音がして振り返ると、倒れたバイクと人がずずずっと滑ってきたんで、こりゃ大変と駆け寄って行ったんですが、声を掛けても反応がなく、起き上がれそうにもないんで救急車呼んだんです。何か危険を感じて急ブレーキでもかけてスリップしたのかなぁと思いました」
「とにかくありがとうございました。でも、危険を感じた記憶もなく、ブレーキかけた記憶も一切ないんですよね、どうしたんでしょうね私?」
「さぁ、、、(笑)」

と、こんな感じの事故、それも結果としては大したことない事故(笑)。
いや、正確に言えば、今のところ大したことないと思われる事故。
いやもっと正確に言うと事故でもない。
病院のベッドにいる時に看護師さんが「警察の方がきておられます」というので、「はいどうぞ」と。
目を開けるのがうっとうしいので警官の顔を見ぬまま会話をする。
「どうしました高瀬さん」
「え〜、さっぱり分かりません」
「相手はおらず、ん〜、人身事故でも物損事故でもない」
「自分に対する人身事故ですかね(笑)」
「わっかりました、これで失礼します!」
そう言ってさっさと帰って行ってしまった。
これでよいのだ、たぶん。
交通事故扱いで救急車で運び込まれると保険が効かないと聞いたことがある。そうすると治療費がバカ高くなるわけで、、、。
前回救急車で運ばれ入院するでもなく二三時間病院にいただけなのに、あとで請求された額が6万円を超えていたので超びっくりした記憶がある。
救急車高ぇ〜! と思ったがそんなことはなく、救急車はあくまでタダで、病院の治療費が高かったのだ。時間外治療ということに加え(たぶん午後10時頃)、保険も効かないということで、どうやらその金額になるらしい。
それが今回は半日以上病院にいてCTも時間をあけて2回撮ったにも関わらず6900円。いいぞ湘南鎌倉病院! ということでもないか(笑)。
要は国民健康保険が効くか効かないかである。
いやぁ、保険料滞納してても有効期限内ならば保険証は有効、ということがこれで分かった。

今回、おかげさまで外傷はまったく大したことがない。
絆創膏を膝と頬っぺたと顎に貼ったくらいのもの。
それでも、医者からのいくつかの質問に答えて、一応7年前に脳腫瘍の手術を受けていることを話したら、その時点で脳外科医の医師にバトンタッチということになった。
さっそく頭部CTを撮ると脳内出血があるという。
これが今後どうなるか分からないので、このまま三時間ほど待って、もう一度CTを撮りましょう、と。
でもこの出血は新しいもので、以前の脳腫瘍の手術とはまったく関係がないと。
撮り直しの結果出血が酷くなっていると、けっこうやっかいな問題になる。
何しろ頭蓋内部で出血した血液は体内に吸収されることはないので、最悪頭にドリルで孔を空け、、、という具合に。

そうしてちょっとヤな感じの時間を過ごすことになったが、そうしているうちに頭もスッキリしてきて、身体のあちこちもゆっくりと痛くなってきたりした。
そして再診察。
その結果、出血範囲はこの三時間で減少傾向にある、と。
ただ、このまま放っておいて自然に出血部分が消える(散逸)ケースもあれば、慢性的に微量な出血が続き出血の範囲が縮小しないケースもある。
そうなると何らかの処置をしなければならないので、とりあえず三ヶ月ばかり間をあけてもう一度CTを撮りましょう、ということになった。
一件落着!

ところで僕は疑っている。
ひょっとして、事故る前から気絶していたのではないか?
ナルコレプシー(突発性睡眠?)でも起こしたか?
それ、こわ〜い!



高瀬がぶん




[Web Log] / 05月15日 13:34

いやマジ、こんなことを今さら言うのはなんか恥ずかしいけれど(笑)。
人はいつでも「真理」を求めているものだ。
真の、愛とは何か、正義とは何か、友情とは誠意とは、、、etc

人類はそんなことを数千年も前から懲りもせずにずーっと考え続けていて、未だに答えが出ないのだから、いい加減もう正解は無いんじゃないか? と認めたらどうなんだと思う。
で、それをどうしても認めたがらない頑固な人たちが宗教にハマる。
答えがないと気がおさまらない気の毒な人たちである。
自分は答えを知らない、でも答えは必ずどこかにあるはずと信じ込んでいる。人生経験上、あれが答えじゃないか? これが答えかな? といくつか思い当たる節はあるものの、裏切られたり騙されたり、苦い経験を通して、迷いに迷ってなかなか答えにたどり着くことができない。
それをぼんやり考えているうちはまだいいが、なにか切羽詰まっている状況があって、なんとか答えが欲しいと思うようになるともうヤバい。
そんな時に、「これが正解である!!」みたいなことを、大した根拠もないだろうに自信たっぷりに言い切られたりすると、はい一丁あがり。
変に目からウロコが落ちたりして、「そうだったのかぁ!」とか「やっぱりそうか!」となってしまう。
宗教の一番怖いところがそれ。

そうやって自分が抱いていた重大な疑問のひとつが心理的に解決されると、あとはもう芋づる式のハマり道。今まで疑問に思っているわけでもなかった事柄についても新しい正解が次々と与えられ、本来自由だったはずの心が、知らず知らずのうちに縛られて行き、気付いた時にはすっかり亀甲縛りにされている。
そうなるともう後戻りはできない。
例の、それまでやってきたことを無駄にしたくないという、コミットメントの一貫性を保つ心理が働くからだ。
献財とか苦行とか、、、無駄にしたくない格好の獲物。

しかし、あらためて思う。
だいたい「教義」なんてものは、あれしちゃいかんこれしちゃいかんと、やたら禁欲的なことばっかり並び立てていて、うるさいよほんと。
あれしようぜ!これしようぜ!みたいな楽しいノリがほとんどない。
だから、その締め付けを快感として受け止めることができる信者っていうのは、ほぼマゾだと思う。
他人に決めつけられ操られる感覚、それがきっと気持ちいいのだろう。
自己判断しなくてすむから心は安定するし、ある意味無責任でいられる。
でも、気をつけなくちゃいけないのは、気持ちいいを通り越し、その自虐性が強烈になって、ついにオーガスムに達すると、オーム真理教のような事件を引き起こしかねないという点だ。
余談だが、最初にオーム真理教という言葉を聞いた時に、もしかしてオーガスム真理教の略語かなと一瞬思った(笑)。
で、文字面見たら「オーム」じゃなくて「オウム」だったんでがっかり。

そうそう、よく「オウム真理教なんていうのは宗教じゃない」みたいな言説を見たり聞いたりするけれど、それは違うだろう。
この言い方には「まともな宗教じゃない」という意味が込められているが、では何をして「まともな宗教」と言うのだ。
規模がデカけりゃいいってもんでもないし、罪のない人を殺すような真似をするからまともじゃない、なんていう言い分も当然通らない。それは歴史が証明している、しかも、いつ果てるでもない盛大な殺し合いを演じて。
もっとも「罪」の定義もけっこう面倒臭い。
自分とは違う宗教を信ずる者には罪があると考えるのはまだ分かるが、宗教に無関心な者にも罪があると言い出しかねないので恐ろしいわ。ほっといて欲しい。
オウム真理教がしでかした事件はまさにそれ、典型的な「宗教」の末路だと思う。

理想と現実の乖離を認めようとせず「べき論」で語ろうとするから、物事の本質を見誤るのだ。
話しは逸れるが、似たようなケースで以下のようなこともある。

例えば、ひとたび極悪非道なバラバラ殺人事件が起きたりすると、「人間の所業とは思えぬ、、、」などと。
ここでも「人間はそんなことをすべきでない」という理想が前提になっている。
そんなことはない! いかにも人間らしい所業だろ。というか、人間の他に誰がそんな残酷なことをする? 動物がそんなことをするか? ま、喰い散らかしてバラバラにするのはさておき(笑)。

例えば、「子供が可愛くない親がどこにいる?」などと。
ここでも「親は子供を愛すべき」という理想が前提になっている。
こんなのは、現実とは大きくかけ離れた偽善的な常套句に過ぎない。
いるだろ腐るほど! 毎年100人以上の赤ちゃんや子供が親に殺されているぞ。
さらに言えば、日本人の死因のトップは何か?
癌でもなければ心臓病でもない、残念ながら、それは堕胎だ。

あぁ、また論点がズレて行く。
まだ言わなくちゃいけないことがあるからまた次号で!

高瀬がぶん

[Web Log] / 05月01日 0:29

蛍光灯ってのはイライラする。
昔と違って最近の蛍光灯はすっかり性能が良くなり、たいていはスイッチの紐を引っ張るとすぐに点灯するようになってきている。
それでも、しばらく使っているうちに本来の蛍光灯力を発揮し始め、数秒間チカチカしてからじゃないと点かない、ってな状態に成り下がることもあるようだ、、、。

僕の部屋の蛍光灯は輪っかが二重になっているタイプで、最初のひと引っ張りで大小ふたつの明かりが点き、もう一回引っ張ると内側の小さい輪っかが消灯し、外側の大きい輪っかひとつだけの点灯状態になる。
それがいつの頃ころか、最初のひと引っ張りで両方同時に点灯するはずなのに、内側の小さい輪っかだけが先に点いて、大きい方がすぐには点かなくなってきた。
そのタイムラグが二、三秒だった頃には、まあ所詮蛍光灯だしそんなもんか、と思ってその不甲斐なさを黙認してやっていたのだが、だんだん増長してきて、大っきい輪っかが点くまでに数十分かかったりすることもあったりして、さすがにもう勘弁できなくなり、ある時点から二つ両方点灯を諦め、最初っから二回連続引っ張って一個点灯状態を保つ習慣がつくようになっていた。

そんなある日のこと。その日はたまたま外出せずに部屋にずっといたのだが、ちょうど昼頃に目を覚ましてとりあえず部屋の明かりを点け、、、自分的にはいつものように二回引っ張ったつもりだったのだが、二回目の引っ張り方が弱かったんだろうねたぶん、、、しばらくしてふと気付くと、内側の小さい輪っかがひとつだけ点いているではないか。

あれ? この状態は変だぞ。
二回引っ張って一個点灯の状態だとしたら、点灯していなくちゃならないのは外側の大きい輪っかのはず。なので、内側の小さい輪っかひとつだけが点いているということは、例のタイムラグ状態にあることを示しているのではないか。
時計を見ると午後二時五十分。
起きたのが昼頃ですぐ明かりを点けたはずだから、なんと! この蛍光灯は三時間近くもの間、次の大っきい輪っかが点くのを待っているということになる。
まさか、蛍光灯の特徴とはいえ、いくらなんでも準備運動長過ぎるだろ!
常識的に考えて、そんなタイムラグが生じるはずはない、おそらくもう大っきい輪っかの方は切れてしまっているに違いない。
そう思いつつ、でもなぁ、もしかしたら点くかもしれない、どうせならこのまましばらく放っておくことにしよう、、、と。
そうして、いつものようにパソコンをいじり始め、やがて蛍光灯のことなんかすっかり忘れてネットサーフィンをしていると、ある時、例の「ピキッ」という音がしたと思ったら、次の瞬間「パッ!」と部屋が明るくなったではないか。
おおおぅ! 点いたぞ両方の輪っかが!
時計を見ると、午後五時四十三分!
「今さら~!?」
けど、なんか感動した。
「なかなか点かねぇなこの蛍光灯」とイライラしながら待つ、という人間の我慢の限界をはるかに超えた存在に、こいつは知らず知らずのうちになっていたのだ。
このずぼらさはある意味賞賛に値する。
最長不灯時間をさらに伸ばし、最初のひと引っ張りから三日たたないと次が点かない、という夢のような、もとい、悪夢のような超常蛍光灯になる可能性も秘めている。
、、、とここまでを読み返してみて、ん~、この蛍光灯のくだり、長いわりに内容がまったく薄いことに自分でも呆れるが、書いちゃったものは仕方がない、そのままにしておこう(笑)。


さて。
20世紀最大の哲学者と言われたバートランド・ラッセルは、ローマカトリック教会を相手に盛んに宗教論議を交わしたことで知られている。もちろん否定する立場でだ。
その彼が政治犯として投獄された時に、担当の看守から「お前の信ずる神は何か?」と問われ、「私は不可知論者だ」と答えると、その言葉を知らなかった看守はこう言ったそうだ。
「そんな名前聞いたことないが、せいぜいその神様を大切にするこった!」

そういう僕も不可知論を信じる者。
神とか真理とか真実とか、そういうものは有るかもしれないし無いかもしれない。で、もしあったとしてもそれを知る能力を人間は持っていない、、、という立場。
だから、僕はどうも宗教というものが苦手でというか嫌いで、生活習慣としてお葬式とか法事とかそういうことには参加するものの、本気で宗教を有り難がったりしたためしはない。
これを一言でいうと、「絶対他者」を認めない、ということになるかもしれない。
特にあのお経の時間は退屈で、基本的に何言ってるか分からないし、足はしびれるし、早く終わらないかなぁと、いつもそればかり考えていて、お経の語尾が一旦伸びて「ゴーン」って鳴ったりすると、やっとこれで終わり、、、かと思うと、それがちょっとした息継ぎで、再びムニャムニャ始まったりするわけで、心底がっかりする。
それでもまあ、生活の知恵、人間関係を円滑にするために、適度に信心してるふうの行動をとるのが大人の態度というもので、心とは裏腹に「ありがたい」という姿勢は崩さない自分がいる。
その虚勢が精一杯の妥協点。
だからお寺に行ってうっかり柏手打ったりして、「ちがうちがう!」とツッコまれても、「そんなことどうでもいいだろ」と、心の中ではそう思ってる。
不信心の僕としては、和洋問わず、どの宗教も人生訓としての有効性はある程度認めるが、それに乗っかって全人生を賭けるみたいなことを、果たしてどのような頭の構造がそれをさせるのか、いい歳して未だに理解不能だ。
理屈はいらない、ただ信じれば良い、、、なんて、架空請求じゃあるまいしその手は喰わないっての。

とりあえず海の向こうの宗教にケチをつけてみる。
だいたいからして、あんなに激しく争っているユダヤ教キリスト教イスラム教も、呼び方こそ、ヤハウェ(エホバ)、ゴッド、デウス、アッラーとそれぞれ違うものの、信ずる神は同一人物、もとい同一神物。言葉の意味はいずれも「私は在る」ということらしい。
しかも、元はと言えば三者ともアブラハムお父さんの子供たちではないか。だから、三つまとめてアブラハムの宗教と言われている次第で、そのアブラハムの正妻に仕えていた女奴隷に生ませた子供を推すか、後に生まれた正妻の子供を推すか、みたいな、結局のところどこにでも転がっているドロドロの継承問題が原因でそれぞれに分岐したわけだ。
このような俗っぽい権力闘争と神聖さを、いったいどうやったら同居させることができるのかとても不思議だし、現実問題として、昔も今もそうした矛盾を抱えつつ、「聖戦」を謳いあげながらもその権力闘争の側面だけが表面化し、その結果として語り尽くせないほどの争いが起きているのではないか、とそう思う。
9.11、イラク戦争、その後の現在進行形のイスラム教VSキリスト教+ユダヤ教の戦いも、所詮は、妾の子の子孫と正妻の子の子孫による兄弟喧嘩、ということになるが、まったくの他人同士ではない故にその愛憎もまた深いものなのだろうなと推察する。

さておき、いずれの宗教(東洋的宗教も含む)にしろ人は何らかの「救い」を求めて信者になるのだろうが、そんなことせずに自力で解決すべく努力を重ねるか、神や仏ではなく、自分の周りにいる親切な実体のある生きている人に「頼む助けてくれ!」と言った方がより確実なような気がするのだが、どうなんだそのへん。
それにアメリカ映画などを見ていると、敬虔なカトリック教徒であるギャングが散々人を殺してから教会にのこのこ出掛けて行って懺悔して、さっさと許されるもんだから「これでまた安心して人を殺せる」みたいなことが起きている。
そんなとこで簡単に許したりしちゃダメだろ、いったい何考えてんだ! 

そんなこったから神様は信用できない。
もっとも、そういう自分も財布の中の最後の千円札をパチンコのサンド(玉を借りる機械)に入れる時、「頼む!当たってくれ!」と図らずも口走ったりすることはあるが、すぐさま「あれ? オレは今いったい誰に頼んだんだ??」と反省する。
そういう時だけ信じてもいない神や仏にお願いごとするのは卑怯だし、第一、パチンコを出すみたいな下世話なお願いを聞いてくれる心の広い神や仏はいないだろうと推測される(笑)。
つまりあれは、僕の脳裏にパラレルに存在するもうひとりの運の強い自分に頼んでいるんだな、というのが結論。

その結論を見る限り、神様を信用していないからと言って、必ずしも自分が信用できるというわけでもなく、結局のところ迷える子羊には違いないと悟りつつ話しは次回につづく。

高瀬がぶん

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