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[Web Log] / 08/01 12:07

富士山頂上付近で迷子犬がいるという情報がネットで流れ、シーズンオフになる九月までになんとかしてあげないと死んじゃう!と多くの人たちが心配したそうだが、先日無事に保護されたというニュースを見てほっとひと安心。
まるでキツネのように痩せ細っているけれど、なんとか回復しそうでよかったぞ、世界文化遺産犬!(笑)。
そんなニュースに触発されて、、、。
深夜二時ちょうど。
山頂を目指して富士山五合目吉田口のこみたけ売店を出発。
あいにくの曇天ながら、裾野に広がる樹海ぐらいは見渡すことができる。
初めての富士登山、山の地肌は遠くから眺める富士山とは大違いで、なんだか無愛想なほどに味気ないが、大きく開けた視界の壮大さにはやはり大感激だ。
かなり軽快な足取りで歩を進め、前を行く登山者をどんどん追い越し、あっという間に六合目の富士山安全指導センターまでやってきた。
ところがそのあたりから体調に異変が!
イテテテテ、腹が痛い、またなんか腐りかけた物でも喰ったか?
やむなく一時中断!
あわててトイレに駆け込み、用を済ませてから再び登山開始。
いくつかの落石避難用シェルターを抜け無事八合目まで到達するも、それからちょっと進んだところで今度は道を見失い遭難。
救助はいらないけれど、とにかくどっちを向いても一歩たりとも進める道がない。
しばらくもがいてみたところでギブアップ、今夜の富士山登頂をついに断念。
ったく!せっかくGoogleアースのストリートビューが、富士山五合目吉田口〜頂上まで完成して発表されたというのに、、、おーし、また明日、五合目から再出発するぞ!、と言う話しは置いといてと。

左足の親指の先っぽあたりが痒くて仕方がない。
で、親指を掻いてみるが、いやここじゃない。
痒いのはもうちょっと先、親指の爪の先から10センチ程度先の、つまり自分の体からはみ出た中空あたりが無性に痒い!
こんな奇妙な話しを聞いたことがあるだろうか?
僕はない、話すのも初めてだし(笑)。
でも、よく似た話しは実際にある。

幻肢痛。
あまり聞き慣れない言葉かもしれないが、この現象にものすごく惹かれるものがある。これは、交通事故などで左脚を膝から切断した時などに起こる、既にないはずの左脚の指先が痛いというような症状だ。
無いはずの指先が痛い?
そんなバカなと思いがちだが、感覚的な意味でその痛みは実在する。
切断された膝から数十センチ離れた中空に痛みを感じるのだ。
どうやら、人間の脳は案外頭が悪い、というか反応が鈍いものらしい。
その点、自分(心)のほうは機敏に反応する。
一目見て膝から下がないことが分かるので、当事者の心は、ああ酷いことになった。これからどうやって暮らして行けばいいんだろう、などと、一瞬にして全てを理解する。
一方、脳の方は「膝から下がない」という現実を理解するためにかなりの時間を要するものらしいのだ。
もちろん全ての事例がこれに当てはまるわけではないが、とにかくそういうことが比較的よく起こるというのは事実。
昨日まであった左膝下なものだから、脳のやつはついうっかりして、当分の間は空間認識的に「膝下もまだある」と判断し、ないはずの指先が痛かったり痒かったりするというわけだ。
その判断は明らかに誤っているが、暫くの間はそうした現象がつづき、聞き分けの悪い脳に対し、心が日々語りかける。
「もう左膝下はないよ、ないんだからね!」
そうして何日か何ヶ月かを経て、脳もその現実を悟り、やがて幻肢痛は消えて行く。

脳はそうしたうっかりを犯しやすく、また騙されやすくもある。
例えば、片腕(左としよう)麻痺の患者のリハビリなどにそれが見られる。
テーブルの上に右腕を置き、左側に鏡を立てて置き、あたかもそれが左腕に見えるような位置に調整する。
動かない左腕はテーブルの下にダラリとさげたままだ。
そうしておいて、右腕を動かす。
すると、当然鏡の中の一見左腕に見える右腕も同じように動く。
心ではそれが単なる鏡像であることを知っている。
ところが脳は、「あっ、左腕が動いてる」と勘違いする。
子供騙しの手品のような簡単なトリックに引っかかってしまうのである。
自分の心が自分の脳を騙す。
その勘違いを何度も繰り返えさせると、ついには麻痺していた左腕が、勘違いで動くようになる。
あとは一生勘違いさせたままにしておけばいい(笑)。

こうした心身問題とか心脳問題を一般的に「意識のハードプロブレム」と言うらしいが、文字通りハードな問題で、今のところ何が何だかよく分かっていない。
というか、それはいつか解ける問題なのか?ということも分かってはいない。
もちろんここでは「科学的に分かるかどうか」という意味だけれど、そもそも科学に馴染む問題なのかどうかさえ不明だ。

自分が感じる、あの「痛さ」の痛い感じ。
自分が感じる、あの「赤さ」の赤い感じ。
自分が感じる、このような「世界」の感じ。
こうした感じを他の皆も感じているだろうけれど、それは自分の感じ方と同じなのかよく似ているのか全く違うのか、、、それを知る方法はない。
ってなことを、昨今流行の「クオリア」で色々説明しようとする人もいるけれど。

科学的に分かるということは、現象を数値化して定量化するということ。
脳の方はニューロンやらシナプスやら電気信号やら、還元主義的に事細かに分類整理できているようだけれど、心を数値化し定量化することなど科学の進化とは無縁で、そんなこと出来る筈もないと信じている自分がいて、だから、心をあたかも数値化するような「心理学」はどうしても信用することができない。
いや、パターン認識的にはかなりの確率で心理学は正解を導き出すかもしれない。
でも、必ず正解であるというわけではない。
だいたい当たっているからいいだろう、ではダメなのだ。
科学は何度やっても誰がやっても必ず同じ答えを導き出すことが絶対条件だからだ。
一回でも違った答えが出れば、その理論は破棄されるか、少なくとも修正が必要になる。
だから心理学は科学ではない。
その証拠に、「脳科学」という言い方があっても「心科学」という言い方はない。
もっとも、心理学は科学であると、誰も言ってないか(笑)。
そもそも、いくら脳みそを解剖して部分部分に選り分けてみても、部分の合算=全体という還元主義的思考法だけでこの世界を理解しようとする試みは、もはや限界にきているわけで、部分の合算+αが全体なのだとなれば、そのαの正体がいったい何なのか? それは科学的手法で解明できる種類のものなのか? それこそがハードな問題となる。
今のところ部分の合算+謎=全体とでもしておく他はない。

話しを元に戻す。
その幻肢痛について僕はちょっと期待を寄せている部分がある。
「おいおい、ひょっとしてそれって、超能力みたいなもんじゃねぇのかー!」っていう思い(笑)。
なぜなら、既に無い足の指先が痛いという感覚が実在するということは、現在の自分の肉体の外部へと感知能力が拡大していると、無理矢理解釈することも可能だからだ。
もちろん、肉体の外部と言っても、所詮「昨日まであった肉体の場所の痛み」だから、今のところ慣れによる単なる勘違いというしかないが、だからといって勘違いにとどめておくのももったいない気がする。
感覚が肉体をはみ出るという事実だけをとらえれば、ひょっとしてこれは、訓練次第でもっと離れた場所の、いや壁の向こう側の、自分の肉体とは遠く離れた場所に、自分の感覚を置く事が出来るということになりはしないかと。
そうなれば、勘違というよりむしろ感知外というべきじゃないかと(笑)。
この訓練にはたぶん二例目の「鏡を使った錯覚訓練法」が有効になるやも知れぬ。
根拠なんかないけれどそう思う。
テレパシー? 透視術? いやはやこれは期待できるかも〜。

ところで、「幻肢痛」があるなら「幻肢快」があってもいい。
既にちょんぎられたアソコの先っぽが気持ちいい、、、とか。
無理か? ある筈なのにないも同然という人はいっぱいいそうだが(笑)。

高瀬がぶん

[Web Log] / 07/15 10:49

この間、なんだか昭和の香りのする喫茶店にたまたま入って、アイスカフェオレを頼んだのだが、なんだこれ!? 森永のコーヒー牛乳じゃねぇかっていう味で、これも一種のオレオレ詐欺っていうやつだな(笑)と、自分でウケる〜! だったんだけれど、発表する相手がいなくてとても寂しかったという話しはさておき、小説を書く行為というのは、ひょっとしてすごく恥ずかしいことなのではないかと思う。
小説を書いてるなんて恥ずかしいから人には言えないが、せっせと書いては新人賞に応募したり出版社に持ち込んだり、、、要するに陰で一所懸命努力して、そうして運良く世間に出ることができた時に初めて、周りの人が、あの人は小説を書いていたんだぁ、と気付く。
たぶん、小説なんか書いてるって恥ずかしくて人には言えない、という人こそがいつか小説家になれるんじゃないかと、最近になって強くそう思う。

なぜそんな風に思うのかというと、小説家ではないただの人が、或る時、いきなり小説家になったというパターンを、実際に二度ほど間近で見ているからだ。

保坂和志という小説家のHPを立ち上げてからのこの十二年、制作管理をしていると、色々なファンがウチのサイトに出没するわけで、その中のひとり礒崎憲一郎は、ウチが発行するメールマガジンに記事を書いてくれたりしていたが、小説を書いているなんてことは露ほども知らず、2007年の「文藝新人賞」の最終候補に残った時に、その名前が出て来てびっくりした! という次第。
そして、「肝心の子供」で文藝新人賞をとり、それから二年後に「終の住処」で芥川賞をとった。

もう一人、山下澄人。これは過去のコラムで書いたので一部重複するが、彼はFICTIONという劇団の主宰をしており、五年ほど前に本人の身内から、「突然のメールで失礼いたしますが〜〜ご招待しますのでよかったら舞台を観に来て下さい」というメールが来たので、調子に乗ってHP関係者みんなで観に行って、それからすっかりFICTIONのファンになり、舞台がある度に観せてもらうことになり、プライベードでも仲良くなって何度か会っているうちに、「実は小説を書かないかとある出版社言われて書いているんですが、もう三年ぐらいずっと書いてて、校正校正の繰り返しでいっこうに完成しません(笑)」と、そんな話しが出て来てみんなで大笑い、というゆるい感じで、彼が舞台脚本だけではなく小説も書いているんだということを知った。
その彼が去年の今頃、二作目の「ギッちょん」という小説でいきなり芥川賞候補になり、残念ながらそれは選外だったけれど、苦労を重ね三年がかりで書き上げた一作目の「緑のさる」で、去年の秋「野間文芸新人賞」をとった。
そして、今まさに旬、このコラムが掲載される時点で既に発表(7/17)されているかどうか分からないけれど、「砂漠のダンス」という小説が、再び第149回芥川賞候補となっている。
ま、これでとれれば幸いだけれど、とれなくたって、百枚前後の小説を発表し続けていれば(笑)、そのうちとるでしょ。

この二人に共通しているのは、「へぇ、小説なんか書いてたんだぁ」と、知り合ってからけっこう時間が経ってから知ったこと。

一方で、「小説を書いてるんです!!」と、ハナっから胸を張る人たちがいる。
たぶんこれはダメパターンだと直感してる。
そういう人たちはたくさんいて、うちのHP宛にいきなり書き上げた小説をメールで送りつけて来る。
短編ならまだしも数百枚にも及ぶ長編を送ってくる人も少なくない。
言わば、前戯がなくていきなり本番、みたいなだいぶ失礼な人たちだ。
しかも、たいていは「どう?どうなの?」と、反応を欲しがったりもする(笑)。

そうした中にとんでもない奴もいる。
小説ファイルに添えた前書。おおまかに言えば、次のような内容だったと思う。
「自分は現役の東大生です。小説家になるつもりですが、現在の新人賞などに応募して受賞し、それからプロになるというような手順はあまりにも時間がかかり過ぎます。そこで、私の小説を出版してくれる出版社をどこか紹介していただけないでしょうか? 無事、単行本として出版されたあかつきには、あとがきにて謝辞を述べたいと思います」、、、みたいな!!!
え〜〜っ!?
お前いったいどこから見下ろしてもの言ってんだよ! 
さすがにこのメールには頭に来て、保坂に転送もせず小説ファイルは即ゴミ箱へ。
そしてひとこと「何か大きな勘違いしてるんじゃないの?」とだけ書いて返信したのだった。
幸い、それっきりメールも来ないが(笑)。

とにかく既成作家のところにいきなり小説を送りつけるなんてことはやめて、どこかの新人賞に応募したらいいと思う。
大手出版社の新人賞になると、およそ2000編くらいの応募があるが、都市伝説のように言われていることがある。
「最初に読むのは学生アルバイトたちで、小説の善し悪しも分からず落としていく、、、」
それを信じ込んで、「そんなところで落とされてたまるか!」 と思うような人も出て来る。
結果、自分が最終候補に残らなかったりすると、「やっぱりそうだ! これは自分の実力不足のせいじゃなく、まともに評価されないシステムになっている」 なんて、実に都合良く考えたりもする。
でもそれは大きな間違い。
送られて来る応募作品は全て、ちゃんと編集者が読んでいるのだ。
五人くらいの編集者が手分けして、一人400編程度の作品をほぼ一ヶ月くらいかけて読破する。だからシーズンになると、ほぼ毎日大忙しで小説を読むことだけが仕事となるそうだ。
そして、ひとり10編程度を選び残し、五人が持ち寄る50編程度を再び回し読みした上で協議し決定する。
ほら、ちゃんと仕事してるんだよ編集の人たちは(笑)。
いつだったか大手文芸誌の編集の某くんに聞いたことがある。
「2000応募があったとして、読むに耐え得るというか、一応小説だなと思えるようなものはいったい何編くらいあるの?」
「やっぱり50編程度ですよ。あとは日記か日記に毛が生えた程度のものですね(笑)」
つまり、もしアナタの書く小説が一応小説として認められるようなものならば、受賞確率は2000分の1ではなくて50分の1。
これはかなりの高確率じゃありませんか?
勇気出たでしょ(笑)。

ところで、サイトに送りつけられる小説について、僕は一切読まず、直接保坂に転送する。
制作管理者としての最低限の義務を果たすという意味でも、HP宛のメールは、とりあえず全て転送することにしているのだ。
ぶっちゃけ、何らかの判断をするのがめんどくさいし、そうしたほうが楽(笑)。
で、保坂も十中八九送られて来る小説を読まない。
もちろん感想を返したりもしない。
僕の時点では、メールをくれた本人にはたいてい返信はする。
「メールは保坂和志本人に転送いたしました。ただ、同様の申し出は数多く、返信はたぶん行かないと思います。がっかりするかもしれませんが、そんなもんです普通」と。

勝手に送りつけられてきた小説を読んだ上で感想を返す、、、そんなことをボランティアでしている暇もない。
僕は別に感想を求められているわけじゃないが(笑)、だらだら生活することに忙しく、保坂は保坂で猫の世話と小説で忙しい(笑)。
そういう、いきなりの、ある意味図々しい申し出があまりに多くなったので、ある時、「小説の講評は一編につき五万円頂きます」と告知した。
そうしとけば、さすがに送って来るやつはいないだろうと高をくくっていたのだけれど、なんとそれでも「お願いします」と小説を送って来るやつがいたりして、慌てて告知を削除した、ということもあった。
かと思うと、ウチの掲示板に自分の書いた小説を直接書き込むやつも現れる。
そんな時は、文字数制限があるから一回の記事では収まらず、何回にも分割して、、、ほんと迷惑だし、それが小説であろうとなかろうと、そもそもそんな長い書き込みを読むやつは誰もいない(笑)。
たぶん、たぶんだけれど、そうした、恥ずかし気もなく、っていうのは小説家にはなれないパターンじゃないかと思う。
保坂和志には聞いてないから知らないけれど(笑)、村上春樹もあんなに小説を書いていて、あんなに皆んなに読まれて、相当恥ずかしい思いをしているんじゃないかと、そう思う(笑)。



高瀬がぶん

[Web Log] / 07/03 12:21

森を歩いていると古びた丸太小屋が目の前に現れました。
それを見てアナタはどう思うでしょうか?
その丸太小屋は、誰の手にもよらず、自然と昔からそこに生えていたように存在していると考えますか?
それとも、誰かがそれを建てたと考えるでしょうか?
もちろん誰かが設計した上で、それを建てたに決まっていると考えますよね。
では、丸太小屋を見てそう思うのに、周囲の木々や草花を眺めて、なぜ同じように思わないのでしょう。
それって、おかしいですよね?
木々や草花の存在にも、何らかの知性が関わっていると考えたほうが自然ではないでしょうか。

そのほうが自然かどうかは別にして、でも、どうしてだろう?
丸太小屋を見れば、誰かが設計して、誰かが木を伐採して運んで、誰かが適当な長さに裁断して、誰かが組み立てたという、知性が関与したストーリーが想像できるのに、なぜ木々や草花を見てそういう知性を感じ取ることができないのだろうか?

ところで、その話しをしてくれたのは、一時期、けっこう仲良くしていたエホバの証人のオジサン(笑)。
オジサンは何度も家にやってきて、その度にお茶しながら論議を交わすのだが、別に僕を勧誘しようとか、そういう気分は二度目の訪問のときに既に失っていたようだ。
僕は宗教は嫌いだけれど、宗教の話しは大好きなものだから(笑)、オジサンが持って来る様々な資料は全部受け取り、有償なものも全部買い取ってやっていた。
それを全て読んだ上で、納得がいかない箇所に赤線を入れて、、、これがやたら多くてテキストはほぼ真っ赤となる(笑)、、、オジサンにひとつひとつ質問をする。
基本的にオジサンは聖書をすべて暗記していて、「それはイザヤ書5章の○○に書いてありますように、、、」 という具合に、質問のすべてを聖書からの引用で答えようとするのだが、およそその答えに僕は不満足で、「では次回までに調べておきます」 ということになる。
その次回の答えももちろんオジサン流で、前回の回答の不足分を聖書の他の箇所から引っ張って来て、合わせ技で一本取ろうとするものだから、やっぱりそこにはいささか無理があって、いっこうに僕を納得させることはできず、結局僕は再質問し、、、そんなことの繰り返しで何度も足を運ぶ羽目に。

しかし、冒頭の話しの疑問はけっこう深淵で、あっさり答えが出るような問題ではない。
植物だから自然に生えているに決まっている、という考え方は、普段から何となくそう思っているだけで、よく考えると論理的な結論でもなんでもない。
ほぼ「信仰」に近いかたちの、理屈抜きの思い込みに過ぎないとも言える。
生命の発生が、理屈で、つまり科学で証明できる事象ではないことに思いが至らないからだ。
その隙をついて「神」を介入させようとするのが、オジサンを始めとする西洋系の宗教者なわけで、「科学で説明できないんだから神が、、、」と、いつのまにか科学と神が五分五分の対立関係にあるかのような話しをでっち上げる。
そんな消去法は成立しない。
そもそも、何かが分からない時に、物証もなしに、「だったらコレ」という考え方は間違っている。
分からない時には分からぬままエポケー(思考停止)するのが、正しい対処のしかただろう。
ちなみに、ちゃんとした科学者はいわゆるUFOの存在を、「そんなものは存在しない」と否定したりはしない。
「自分の持っているデータにはないもので、正体は分からない。従って未確認な飛行物体ではあるけれど、いわゆるUFOかどうかも分からない」というだろう。
それが科学者としての正しい態度だ。

生命の発生に関しても、今のところ科学者は無口だ(笑)。
もっとも、理由はともあれ一旦発生してしまった生命に関してはこの限りではない。
一粒の種から成木へと成長する過程は、植物学を学べば、ほぼ正確に理屈で理解できよう。
細かいことをはしょって言えば、各種の元素が「何らかの理由」で、まさにそれ、それしかない! ! というほどピッタリな具合に寄り集まってアミノ酸を合成し、それが複雑な過程を通してタンパク質となり、それから更に複雑極まりない化学的な変化を経てようやく植物になったと。
もちろん、そうした説明は、植物の問題以前、生命の発生そのものの原因にアプローチしたものではない。
問題なのは、その生命発生の過程をスタートさせた「何らかの理由」で、それを全くの偶然ととらえるか、何者かの意思に依るものととらえるか、さて、そこんとこが非常に悩ましい。
言えるのは、生命の発生の瞬間、果たして何が起こったのかを科学的に説明できる人は今のところ誰もいないということだ。

そしてこう思う。
この地球の生命体たちが、とんでもなく複雑で絶妙な構造を持っているのに、「偶然だけでそんなものがうまく出来るっておかしいんじゃないか?」と。
そうかなぁ? と、そのうち誰かが「この宇宙で生命が偶然発生する確率」を計算しだす。
生命が発生する確率は10の283万乗分の1(あくまで説だが)。
一方、宇宙全体の原子の総量は、たったの10の80乗個に過ぎない。
これでは、とてもじゃないが偶然生命が発生するなんていうことはあり得ない。
確率は0ではないが、気が遠くなるほど0に近い。
では、やっぱり神の設計によるものか?
いや待てよ、それはこの宇宙が一個しかない場合の確率ではないか。
だったら、このような宇宙が複数、いや無限個数あったとしたらどうなる?
こうして、ほとんど苦し紛れのように見えるマルチバース理論(宇宙は無限個数存在する)が生まれ、なんとか辻褄を合わせようとするのだが、、、ん??
だったら何もマルチバース理論を持ち出さなくてもイケるんじゃないか?
この宇宙がたった一個でも、時間さえ永遠に続くなら、それがどんなに起こり得ないようなことでも、確率0でない限りいつか必然的にその出来事は起こるのだから。
要はそれがいつ起こるかだろう。
永遠の比較的最初のほうか、ずーっとずーっと先のほうか、、、。

例えば、チンパンジーがピアノの前に座りでたらめに鍵盤を叩いて、それがたまたま、完璧なシューベルトの「ピアノソナタ第18番ト長調『幻想』」である確率だって、決して0ではない。
この宇宙で時間が永遠に続くなら、確率0でない限り、チンパンジーはいつかそれをやってのける。
少なくとも生命が偶然発生することを考えれば、比較的起こりやすい出来事といえそうだし(笑)。
それでも「そんな馬鹿なことが起こるわけない」とみな思い、たぶんそれは当たっている。
実際問題として時間が永遠に続くかどうかも未確定だし、生命種の絶滅までの平均寿命が800万年となると、、、たぶんチンパンジーはその出来事には間に合わない(笑)。

さて、冒頭の丸太小屋の話しを突き詰めると、結局次のような疑問にぶち当たる。
この宇宙は、誰かの意思によって設計され創られたものなのか?
いわゆる「創造論」。
一方、すべては偶然の産物、「自然」の文字通り、自ずから然るべき姿でそこにあるという「自然論」。生物で言えば「進化論」がある。
果たしてどっちなのかという訳だが、ちなみにアメリカ人の60%程度は「創造論」を支持していると言われている。
それより、これ二者択一でいいのか? って気付き不安になる(笑)。

ところで、初めて会った人に「私はインテリジェント・デザイナーです」 と自己紹介されたら、「あぁ、部屋の模様替えとか頼もうかな」とか思ったりしてはいけません! その人は家具の配置とかカーテンの色とかを考えてくれる人じゃないから!
この宇宙は知性ある何かによって設計され創造されたものであるとする「インテリジェント・デザイン(ID)」を信奉する人たちのことをそう呼ぶのだそうだ。
アメリカでは「ジョージ・ブッシュ」が代表的なその一人とされているが。

そのアメリカでは昔から「進化論」か「創造論」かでモメていて、この際勝負つけようじゃねぇか! ってんで、列車2台を用意し、一方を「進化論号」と名付け、もう一方を「創造論号」とし、思いっきり正面衝突させて脱線した方が負け、という途方もなく馬鹿げたことを実際にやったという記録が残っているから笑える。
結果、両方とも脱線して痛み分けだって。当たりめぇだよバカ(笑)。

まあ、それは派手好きアメリカ人のギャグなんだろうが、テキサスあたりでは事態はもっと深刻で、「進化論か創造論か」で、学校の授業について裁判になるほどモメているっていうのだから呆れるしかない。
要は、生物の授業で進化論を教えてばっかりいて、創造論を教える授業がないのは不公平じゃないか!! というわけで、結局裁判的には創造論者の勝利に終わり、生物の時間と同等の時間を設け、創造論を教えるようになったと。

ただ、インテリジェント・デザインというのは、単に何らかの知性と言っているだけで、いわゆるキリスト教の神(ヤハウェ)を指しているわけではないということになっている。
特定の宗教を学校で教えるというのも、何らかの問題が生じかねないからだ。
でも、実際はキリスト教の神のことを言いたいんだけど、ちょっと遠慮してるだけ、ということだと思う。
ところが、皮肉なことにローマカトリック教会は、インテリジェント・デザインに関しては真っ向から否定しているっていうんだから愉快。
理由は二つ。
「何らかの知性じゃねぇよ、うちの神様だろ!」っていうことと、「進化論はだいたい合ってるからそれはそれでよし。生命の発生そのものについては何も語れないしな、ははは」 という余裕の構え。
神の設計書には進化論のこともちゃんと書いてあるし、みたいな。

しつこく言うが、生命の発生が謎に包まれているからといって、宗教にまかせる気持ちなんて、僕にはこれっぽちもない。

ちなみに、丸太小屋の話しをしたオジサンは、何らかの知性ではなくはっきりヤハウェであるとおっしゃいました。エホバ的にはそうなんでしょうきっと。

もし、「国民はなんらかの宗教に入らなくてはいけない」 っていう法律ができたらどうしましょう。
僕だったら迷わず「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」に入信しますが(笑)。
知らない人はwikiして下され。

とりあえず宗教に関する話しはちょっと飽きたのでこれで終了。
日本の宗教についてはまた気が向いたらいつか書きます。

高瀬がぶん




[Web Log] / 06/16 15:49

さ〜て話しを宗教に戻そう。
これまでの話しをざっくりまとめると、色々な宗教が出す「正解」がそれぞれ違うってことは、それが唯一絶対の真理じゃないからじゃないか、、、ってこと。
それでも全人類に普遍的に通用する唯一の宗教的「真理」があると言い張るなら、とっくの昔に世界を統一(統一教会じゃないよ)する宗教が生まれていなきゃおかしいだろう。
現実にそうなっていない以上、あらゆる宗教的教義は「真理」とはほど遠い、極めて限定的な「教え」でしかあり得ないということだ。
従って現実をみる限り、「真理」というものは「ない」か、「ある」けれどまだ発見されていないか、あるいは「あるかどうか分からないけれど、もしあったとしても、永久に発見できるものではない」、かのいずれかであると思われる。
にもかかわらず、「これが○○の真理です」と一方的に押し付けて来るのが宗教の悪い癖。
それを受け入れ難い人は必然的に異教徒となり、「真理」の押し売りがヒートアップして殺し合いにまで発展するのだから何かおかしくないか?
そもそも宗教は人々に安寧を与えるべく生まれたものなのだから、殺してどーすんだよ!  殺された方は極めて静かになって、殺した方の心には邪魔者が消えて安寧が訪れる、ってそりゃねぇだろよ。
だから、その主義主張をもう少しゆるく考えた方がお互い幸せになれると思うのだけれど、どうも宗教の話しになると意固地になる人が多いようで実に困ったものだ。

ちょっと基本に立ち戻って考えてみる。
どんな宗教にしろ、とりあえずその宗教の発祥の地の周りにいる人間を対象に生まれたものだろうが、その対象がいくら広がって行ったとしても、2013年現在でも未だに発見されていない部族の人たち(アマゾンの奥地やニューギニアの奥地)もいると推測されているわけで、そういう人たちにとって釈迦にしろキリストにしろ、そんなやつ知らんぞ、と言われるのがオチで、釈迦もキリストもその人たちとは全く無関係な存在であると言える。
もちろんキリストの方だってそんな奴らは知らん。どころか、キリストは日本人のことだって知らんぞ。旧約聖書の規則や十戒だってイスラエル人(ユダヤ)の為だけに書かれたもので、私たち日本人はもとより、いわゆるクリスチャンでさえ対象外じゃないか。
一方的な片思いと言っていいのかどうか分からないけれど、それを有り難がっている人の気持ちが僕にはさっぱり分からない。

閉鎖的な世界の中で他世界のことを知らぬまま生まれ死んで行く人には、そもそもその宗教情報そのものが到達しないのだから、そういうものが人類全体にとっての普遍性を獲得できるわけがない。
その伝から言えば、ノアの箱船なんか実に理屈に合わない話である。
人類つくって希望的観測のもとに好き勝手やらしておいたけど、思った通りに成長しないからノア一家と適当な動物のペアだけ残して、この際、一旦地球上の人類全員殺してやり直そうなんて、そんなむちゃくちゃな話しはない。
少なくとも、キリスト教で言うところの神の存在を知っている人たちが裏切ったからという理由で、その人たちだけを殺すならまだしも、それ以外の、神情報が伝わっていない無関係な人たちまで含めて地球上の全人類を殺してしまうなんて、とばっちりも甚だしいではないか。
そんなお話しが「神による救済」となって後世に伝わるなんて、、、イミフメこの上ない。

情報が伝わっていない人まで巻き込むな。
ということで、宗教的真理というものは、特定の神の存在を知り得る、ある一定のエリア内で、ある程度の年齢になるまで成長し、しかも情報を理解できる程度の知性を獲得した人に対してのみ通用するということにして欲しい。
いや、そうであるはずだ。特にキリスト教が人間と自然(動物など)をはっきりと分け、動物を人間の支配下に置いたのは、「動物には神を崇拝する能力がない」という理由からだった。だとしたら、動物だけでなく人間の中にもそういった能力に欠けている一定の人たちもいるわけで、そういう人たちは救う価値がないという理屈になってしまうがそれでも構わないのだろうか?
百歩譲って、生まれたばかりの赤ちゃんはよしとしよう。
やがて情報を理解し、神を信仰する可能性を秘めているわけだから。
しかし、運悪く植物状態のまま生まれそのまま死んでいく人や、新生児の段階で死んでしまう人、そういう人たちには「神を崇拝する能力」はないが、果たしてどうなってしまうのか。

こういうことを言うと、おそらく、「いやいやそんなことはありません、その相手に信仰能力があろうとなかろうと、みな神様の愛を享受する権利があるのです」、とかなんとか、つまるところ強引に教義を当てはめようとしてくるに決まっていて、特に、赤ちゃんの段階で死んでしまったような、そんな可哀想な人は、来世にはきっといいことが、、、とか、次に生まれ変わってくる時には、、、なんていう苦し紛れの世迷い言を言い出しかねない。
実は、そんな傲慢なことを言いそうな気がするから宗教は嫌いなのである。
そう、特に、押し付けがましく「いいことはみんなに伝えるべき」とする大乗的な宗教はたちが悪い。
その点、自分だけ悟ればいいや、っていう上座部(小乗)的な宗教はまだよい。
少なくとも他人に迷惑かけないから。

生まれ変わりと言えば、いつだったかダライラマが出演しているDVDを観てて、話しの最後に「輪廻転生」を言い出したのでびっくりした。
現世で徳を積んでおくと来世いいことある、みたいな。
え? そうなの? 
釈迦は元々バラモン教の唱える「身分制度」を否定し「輪廻転生」からの脱却を目指して仏教を立ち上げたんじゃなかったのか?
いったい何処の誰がいつなんどき釈迦の主義主張を改ざんしたんだ。
聞くところによれば、仏教がインドでヒンズー教にえらく痛めつけられたために、何とかインド文化に融合しようと仕方なく輪廻思想だけは取り入れたということだが、その際に釈迦の人生そのもののストーリーも改ざんさせられたという説があるが本当かどうかは知らない。いや僕だけじゃなく誰も知らない(笑)。それが説ってものだ。

ともあれ、「輪廻転生」って差別思考の産物だろ。
近所で生まれた赤ちゃんが生まれつき「徳が高い」とか言われた日にゃカチンと来るぞ。それが輪廻転生の結果かどうかは、どうせ証拠があるわけじゃないだろうから知ったこっちゃないし、そういうのは絶対に良くない。
今となってはかなり分が悪い橋下市長も例の「出自」に関する差別問題の時にそう言ってたな。
出自とか自分の努力では変えようもないことを根拠にその人の人格を否定するようなことはあってはならない、みたいな。
そこはおっしゃる通りで、生まれた後に本人の努力によって大人物になったりするなら文句はないが、、、というと、橋下さん、なんでアナタは天皇制を否定しないの? 
橋下さんがいくら頑張っても、せいぜいなれるのは総理大臣までで、どう転んでも天皇にはなれない。これこそ、いくら努力しても到達できないハッキリとした差別ではないでしょうか?
僕はもちろん差別を否定するけれど、敢えて天皇制を否定はしない。
それは日本という社会システムが、天皇制というものを基盤として昔も今も案外うまく機能しているから、という御都合主義に与しているからです(笑)。

あ〜まだ喋ることは色々あるなー。
日本の宗教とか宗教と科学の折り合いとか。
それはまた次回に。

高瀬がぶん



[Web Log] / 05/31 22:51

今回は、「長くなりそうな話」をちょっと中断して、先日起きたことを書きとめておきます。あとで、あ〜あの頃のことだったんだなと分かるように。

「気がついたら病院のベッドの上、、、」
って言う話しはよく聞くが、こないだ初めてそれを体験した。
大雨の中バイクで事故って頭打って気絶! 正真正銘、気がついたのは病院のベッドの上で、「お名前は? 生年月日は?」という女性の声で初めて気がついた。
それから数時間は意識朦朧ながらも、人間することはちゃんとするんだなぁと後で実感した。
たぶんiPhone取り出して姉の電話番号を調べ看護師さんに教えたり、免許証を出したり、、、どうやらそんなことはしたらしい。
記憶は曖昧、、しかも、事故の記憶については全くないのだ。

これまでバイクで五〜六回事故っているが、記憶が抜けていることは一切なかった。
数年前の秋から冬にかけて、わずか4ヶ月の間にバイクで3回も事故ったことがある。不信心だからと言ってバチ当たり過ぎ! っていう感じで、とにかくよくコケた。
しかもそのうち2回はバイク全損!
そんな短期間にバイク2台を潰すとは珍しい、とレッドバロン(いつも買うバイク屋)の人は仰った(笑)。
で、その2回の全損事故のうちの1回は、救急車で運ばれるほどの事故になったのだが、、、。
車に撥ねられる瞬間、目の前に広がった真っ白い壁のような光景。それは僕を横から撥ねた車が白いワンボックスカーだったからだ。そして、身体が5メートルほど飛ばされ道路に叩き付けられた時の鈍い音と全身に走った電気的なショック。ちっとも痛くはない、ただただ寒い! 身体を動かそうとしても、手足がピクリとも動かないのでかなり焦る。撥ねられて転がっている場所が道路の真ん中なので、このままじゃまた轢かれちゃうかもと。
しかし、そんな心配をよそに、すぐに何人かの人が駆け寄って来てくれた。
その現場がたまたま湘南記念病院の目の前だったので、駆けつけて来てくれた人の中には看護婦さんの制服の姿もあり、「あっ、ちょうどいい!」とか思ったりしたが、なぜか救急車が呼ばれ、目の前に立派な病院があるにも関わらず、結局別の病院への搬送ということになったのだが、その間も身体はまったく動かなかった。 

ところが、搬送先の病院のベッドで二時間ほど休んだら意外にも身体は普通に動くようになり、傷も擦過傷だけなので帰ってよし!、、、なんだよおいっ!、、、という具合に、寸分の隙間なく記憶は連続している。
他の事故の時も「いててててー!」という程度で済んでいるので、覚えていないと言うようなことは一切ない。

それが今回は事故と言っても相手はおらず、たぶん30キロ程度の速度で走っていて、なぜか理由ははっきりしないが、自分で勝手にコケただけなのに、不思議なことに、コケる瞬間どころかコケたと思われる場所の20メートルほど手前までの記憶しかないのだ。
そして、次の記憶が病院のベッド。
その間の時間が僕の人生からすっぽり抜けてしまったことが、なんか妙に気持ちが悪い。
それに納得がいかない。
雨が降っていて路面が滑りやすかった? 確かにそれはある。
それにしても、普通事故る時は「あっ!」と思う瞬間があって次に何か好ましくないことが起こるわけで、少なくともその「あっ!」までの記憶があってもよさそうなものなのだが、その「あっ!」の記憶さえもまったくないのだ。
ごくごく普通に走っていて「雨がけっこう降ってるな」程度のことを考えていたかいないか、とにかく何か危険を察知したとか言うことは全くない状態が最後の記憶なのだ。
もっとも、今回のように頭を打ったりすると、その原因となる出来事から遡った時点からの記憶が失われる、ということがよくあるらしく、それを今後思い出すかどうかは分からない、と医師は言う。

思えば、これまで経験して来た事故で、頭を打ったことはなかった。
先ほどの身体が全く動かなくなった事故でも、倒れる瞬間自然に両手で頭をカバーしていたようで、両肘、両掌はかなり酷く傷ついたが頭は打たなかった。
それが今回とは違う点で、もっとも不思議な点でもある。
今回、両腕、両掌にはかすり傷さえない。
素手でハンドルを握っていたにも関わらずだ。
擦過傷や痣として残ったのは、左の膝とその周辺、そして左顔面の頬骨、顎、目の周辺。加えてヘルメットの左側の擦れ傷。
何がどうなったのかは分からないが、この傷を見る限り、手を出さずに顔面から路面に突っ込んで行ったことになる。
そして頭を打ち、結果として、気絶し、脳内出血を起こしていたという、、、。
なんで? なんでオレは手を出さなかったんだ?
それが分からない。
事故現場は50メートルほど続く幅2メートルの狭い直線道路。そんなにスピードを出せる場所でもないし、特に障害となるようなものは何もない。
倒れたのは自動車修理工場の前で、作業していた人が事故の一部を目撃しており、その人が救急車と警察に連絡してくれていた。
加えて、バイクも預かっていてくれたので、病院の帰りに寄って話しを聞き、ついでにそのバイク(どこも壊れてない、ラッキー!)に乗って帰ってきたのだが、、、(笑)。

「倒れる瞬間は見てないんですが、なんか音がして振り返ると、倒れたバイクと人がずずずっと滑ってきたんで、こりゃ大変と駆け寄って行ったんですが、声を掛けても反応がなく、起き上がれそうにもないんで救急車呼んだんです。何か危険を感じて急ブレーキでもかけてスリップしたのかなぁと思いました」
「とにかくありがとうございました。でも、危険を感じた記憶もなく、ブレーキかけた記憶も一切ないんですよね、どうしたんでしょうね私?」
「さぁ、、、(笑)」

と、こんな感じの事故、それも結果としては大したことない事故(笑)。
いや、正確に言えば、今のところ大したことないと思われる事故。
いやもっと正確に言うと事故でもない。
病院のベッドにいる時に看護師さんが「警察の方がきておられます」というので、「はいどうぞ」と。
目を開けるのがうっとうしいので警官の顔を見ぬまま会話をする。
「どうしました高瀬さん」
「え〜、さっぱり分かりません」
「相手はおらず、ん〜、人身事故でも物損事故でもない」
「自分に対する人身事故ですかね(笑)」
「わっかりました、これで失礼します!」
そう言ってさっさと帰って行ってしまった。
これでよいのだ、たぶん。
交通事故扱いで救急車で運び込まれると保険が効かないと聞いたことがある。そうすると治療費がバカ高くなるわけで、、、。
前回救急車で運ばれ入院するでもなく二三時間病院にいただけなのに、あとで請求された額が6万円を超えていたので超びっくりした記憶がある。
救急車高ぇ〜! と思ったがそんなことはなく、救急車はあくまでタダで、病院の治療費が高かったのだ。時間外治療ということに加え(たぶん午後10時頃)、保険も効かないということで、どうやらその金額になるらしい。
それが今回は半日以上病院にいてCTも時間をあけて2回撮ったにも関わらず6900円。いいぞ湘南鎌倉病院! ということでもないか(笑)。
要は国民健康保険が効くか効かないかである。
いやぁ、保険料滞納してても有効期限内ならば保険証は有効、ということがこれで分かった。

今回、おかげさまで外傷はまったく大したことがない。
絆創膏を膝と頬っぺたと顎に貼ったくらいのもの。
それでも、医者からのいくつかの質問に答えて、一応7年前に脳腫瘍の手術を受けていることを話したら、その時点で脳外科医の医師にバトンタッチということになった。
さっそく頭部CTを撮ると脳内出血があるという。
これが今後どうなるか分からないので、このまま三時間ほど待って、もう一度CTを撮りましょう、と。
でもこの出血は新しいもので、以前の脳腫瘍の手術とはまったく関係がないと。
撮り直しの結果出血が酷くなっていると、けっこうやっかいな問題になる。
何しろ頭蓋内部で出血した血液は体内に吸収されることはないので、最悪頭にドリルで孔を空け、、、という具合に。

そうしてちょっとヤな感じの時間を過ごすことになったが、そうしているうちに頭もスッキリしてきて、身体のあちこちもゆっくりと痛くなってきたりした。
そして再診察。
その結果、出血範囲はこの三時間で減少傾向にある、と。
ただ、このまま放っておいて自然に出血部分が消える(散逸)ケースもあれば、慢性的に微量な出血が続き出血の範囲が縮小しないケースもある。
そうなると何らかの処置をしなければならないので、とりあえず三ヶ月ばかり間をあけてもう一度CTを撮りましょう、ということになった。
一件落着!

ところで僕は疑っている。
ひょっとして、事故る前から気絶していたのではないか?
ナルコレプシー(突発性睡眠?)でも起こしたか?
それ、こわ〜い!



高瀬がぶん




[Web Log] / 05/15 13:34

いやマジ、こんなことを今さら言うのはなんか恥ずかしいけれど(笑)。
人はいつでも「真理」を求めているものだ。
真の、愛とは何か、正義とは何か、友情とは誠意とは、、、etc

人類はそんなことを数千年も前から懲りもせずにずーっと考え続けていて、未だに答えが出ないのだから、いい加減もう正解は無いんじゃないか? と認めたらどうなんだと思う。
で、それをどうしても認めたがらない頑固な人たちが宗教にハマる。
答えがないと気がおさまらない気の毒な人たちである。
自分は答えを知らない、でも答えは必ずどこかにあるはずと信じ込んでいる。人生経験上、あれが答えじゃないか? これが答えかな? といくつか思い当たる節はあるものの、裏切られたり騙されたり、苦い経験を通して、迷いに迷ってなかなか答えにたどり着くことができない。
それをぼんやり考えているうちはまだいいが、なにか切羽詰まっている状況があって、なんとか答えが欲しいと思うようになるともうヤバい。
そんな時に、「これが正解である!!」みたいなことを、大した根拠もないだろうに自信たっぷりに言い切られたりすると、はい一丁あがり。
変に目からウロコが落ちたりして、「そうだったのかぁ!」とか「やっぱりそうか!」となってしまう。
宗教の一番怖いところがそれ。

そうやって自分が抱いていた重大な疑問のひとつが心理的に解決されると、あとはもう芋づる式のハマり道。今まで疑問に思っているわけでもなかった事柄についても新しい正解が次々と与えられ、本来自由だったはずの心が、知らず知らずのうちに縛られて行き、気付いた時にはすっかり亀甲縛りにされている。
そうなるともう後戻りはできない。
例の、それまでやってきたことを無駄にしたくないという、コミットメントの一貫性を保つ心理が働くからだ。
献財とか苦行とか、、、無駄にしたくない格好の獲物。

しかし、あらためて思う。
だいたい「教義」なんてものは、あれしちゃいかんこれしちゃいかんと、やたら禁欲的なことばっかり並び立てていて、うるさいよほんと。
あれしようぜ!これしようぜ!みたいな楽しいノリがほとんどない。
だから、その締め付けを快感として受け止めることができる信者っていうのは、ほぼマゾだと思う。
他人に決めつけられ操られる感覚、それがきっと気持ちいいのだろう。
自己判断しなくてすむから心は安定するし、ある意味無責任でいられる。
でも、気をつけなくちゃいけないのは、気持ちいいを通り越し、その自虐性が強烈になって、ついにオーガスムに達すると、オーム真理教のような事件を引き起こしかねないという点だ。
余談だが、最初にオーム真理教という言葉を聞いた時に、もしかしてオーガスム真理教の略語かなと一瞬思った(笑)。
で、文字面見たら「オーム」じゃなくて「オウム」だったんでがっかり。

そうそう、よく「オウム真理教なんていうのは宗教じゃない」みたいな言説を見たり聞いたりするけれど、それは違うだろう。
この言い方には「まともな宗教じゃない」という意味が込められているが、では何をして「まともな宗教」と言うのだ。
規模がデカけりゃいいってもんでもないし、罪のない人を殺すような真似をするからまともじゃない、なんていう言い分も当然通らない。それは歴史が証明している、しかも、いつ果てるでもない盛大な殺し合いを演じて。
もっとも「罪」の定義もけっこう面倒臭い。
自分とは違う宗教を信ずる者には罪があると考えるのはまだ分かるが、宗教に無関心な者にも罪があると言い出しかねないので恐ろしいわ。ほっといて欲しい。
オウム真理教がしでかした事件はまさにそれ、典型的な「宗教」の末路だと思う。

理想と現実の乖離を認めようとせず「べき論」で語ろうとするから、物事の本質を見誤るのだ。
話しは逸れるが、似たようなケースで以下のようなこともある。

例えば、ひとたび極悪非道なバラバラ殺人事件が起きたりすると、「人間の所業とは思えぬ、、、」などと。
ここでも「人間はそんなことをすべきでない」という理想が前提になっている。
そんなことはない! いかにも人間らしい所業だろ。というか、人間の他に誰がそんな残酷なことをする? 動物がそんなことをするか? ま、喰い散らかしてバラバラにするのはさておき(笑)。

例えば、「子供が可愛くない親がどこにいる?」などと。
ここでも「親は子供を愛すべき」という理想が前提になっている。
こんなのは、現実とは大きくかけ離れた偽善的な常套句に過ぎない。
いるだろ腐るほど! 毎年100人以上の赤ちゃんや子供が親に殺されているぞ。
さらに言えば、日本人の死因のトップは何か?
癌でもなければ心臓病でもない、残念ながら、それは堕胎だ。

あぁ、また論点がズレて行く。
まだ言わなくちゃいけないことがあるからまた次号で!

高瀬がぶん

[Web Log] / 05/01 0:29

蛍光灯ってのはイライラする。
昔と違って最近の蛍光灯はすっかり性能が良くなり、たいていはスイッチの紐を引っ張るとすぐに点灯するようになってきている。
それでも、しばらく使っているうちに本来の蛍光灯力を発揮し始め、数秒間チカチカしてからじゃないと点かない、ってな状態に成り下がることもあるようだ、、、。

僕の部屋の蛍光灯は輪っかが二重になっているタイプで、最初のひと引っ張りで大小ふたつの明かりが点き、もう一回引っ張ると内側の小さい輪っかが消灯し、外側の大きい輪っかひとつだけの点灯状態になる。
それがいつの頃ころか、最初のひと引っ張りで両方同時に点灯するはずなのに、内側の小さい輪っかだけが先に点いて、大きい方がすぐには点かなくなってきた。
そのタイムラグが二、三秒だった頃には、まあ所詮蛍光灯だしそんなもんか、と思ってその不甲斐なさを黙認してやっていたのだが、だんだん増長してきて、大っきい輪っかが点くまでに数十分かかったりすることもあったりして、さすがにもう勘弁できなくなり、ある時点から二つ両方点灯を諦め、最初っから二回連続引っ張って一個点灯状態を保つ習慣がつくようになっていた。

そんなある日のこと。その日はたまたま外出せずに部屋にずっといたのだが、ちょうど昼頃に目を覚ましてとりあえず部屋の明かりを点け、、、自分的にはいつものように二回引っ張ったつもりだったのだが、二回目の引っ張り方が弱かったんだろうねたぶん、、、しばらくしてふと気付くと、内側の小さい輪っかがひとつだけ点いているではないか。

あれ? この状態は変だぞ。
二回引っ張って一個点灯の状態だとしたら、点灯していなくちゃならないのは外側の大きい輪っかのはず。なので、内側の小さい輪っかひとつだけが点いているということは、例のタイムラグ状態にあることを示しているのではないか。
時計を見ると午後二時五十分。
起きたのが昼頃ですぐ明かりを点けたはずだから、なんと! この蛍光灯は三時間近くもの間、次の大っきい輪っかが点くのを待っているということになる。
まさか、蛍光灯の特徴とはいえ、いくらなんでも準備運動長過ぎるだろ!
常識的に考えて、そんなタイムラグが生じるはずはない、おそらくもう大っきい輪っかの方は切れてしまっているに違いない。
そう思いつつ、でもなぁ、もしかしたら点くかもしれない、どうせならこのまましばらく放っておくことにしよう、、、と。
そうして、いつものようにパソコンをいじり始め、やがて蛍光灯のことなんかすっかり忘れてネットサーフィンをしていると、ある時、例の「ピキッ」という音がしたと思ったら、次の瞬間「パッ!」と部屋が明るくなったではないか。
おおおぅ! 点いたぞ両方の輪っかが!
時計を見ると、午後五時四十三分!
「今さら~!?」
けど、なんか感動した。
「なかなか点かねぇなこの蛍光灯」とイライラしながら待つ、という人間の我慢の限界をはるかに超えた存在に、こいつは知らず知らずのうちになっていたのだ。
このずぼらさはある意味賞賛に値する。
最長不灯時間をさらに伸ばし、最初のひと引っ張りから三日たたないと次が点かない、という夢のような、もとい、悪夢のような超常蛍光灯になる可能性も秘めている。
、、、とここまでを読み返してみて、ん~、この蛍光灯のくだり、長いわりに内容がまったく薄いことに自分でも呆れるが、書いちゃったものは仕方がない、そのままにしておこう(笑)。


さて。
20世紀最大の哲学者と言われたバートランド・ラッセルは、ローマカトリック教会を相手に盛んに宗教論議を交わしたことで知られている。もちろん否定する立場でだ。
その彼が政治犯として投獄された時に、担当の看守から「お前の信ずる神は何か?」と問われ、「私は不可知論者だ」と答えると、その言葉を知らなかった看守はこう言ったそうだ。
「そんな名前聞いたことないが、せいぜいその神様を大切にするこった!」

そういう僕も不可知論を信じる者。
神とか真理とか真実とか、そういうものは有るかもしれないし無いかもしれない。で、もしあったとしてもそれを知る能力を人間は持っていない、、、という立場。
だから、僕はどうも宗教というものが苦手でというか嫌いで、生活習慣としてお葬式とか法事とかそういうことには参加するものの、本気で宗教を有り難がったりしたためしはない。
これを一言でいうと、「絶対他者」を認めない、ということになるかもしれない。
特にあのお経の時間は退屈で、基本的に何言ってるか分からないし、足はしびれるし、早く終わらないかなぁと、いつもそればかり考えていて、お経の語尾が一旦伸びて「ゴーン」って鳴ったりすると、やっとこれで終わり、、、かと思うと、それがちょっとした息継ぎで、再びムニャムニャ始まったりするわけで、心底がっかりする。
それでもまあ、生活の知恵、人間関係を円滑にするために、適度に信心してるふうの行動をとるのが大人の態度というもので、心とは裏腹に「ありがたい」という姿勢は崩さない自分がいる。
その虚勢が精一杯の妥協点。
だからお寺に行ってうっかり柏手打ったりして、「ちがうちがう!」とツッコまれても、「そんなことどうでもいいだろ」と、心の中ではそう思ってる。
不信心の僕としては、和洋問わず、どの宗教も人生訓としての有効性はある程度認めるが、それに乗っかって全人生を賭けるみたいなことを、果たしてどのような頭の構造がそれをさせるのか、いい歳して未だに理解不能だ。
理屈はいらない、ただ信じれば良い、、、なんて、架空請求じゃあるまいしその手は喰わないっての。

とりあえず海の向こうの宗教にケチをつけてみる。
だいたいからして、あんなに激しく争っているユダヤ教キリスト教イスラム教も、呼び方こそ、ヤハウェ(エホバ)、ゴッド、デウス、アッラーとそれぞれ違うものの、信ずる神は同一人物、もとい同一神物。言葉の意味はいずれも「私は在る」ということらしい。
しかも、元はと言えば三者ともアブラハムお父さんの子供たちではないか。だから、三つまとめてアブラハムの宗教と言われている次第で、そのアブラハムの正妻に仕えていた女奴隷に生ませた子供を推すか、後に生まれた正妻の子供を推すか、みたいな、結局のところどこにでも転がっているドロドロの継承問題が原因でそれぞれに分岐したわけだ。
このような俗っぽい権力闘争と神聖さを、いったいどうやったら同居させることができるのかとても不思議だし、現実問題として、昔も今もそうした矛盾を抱えつつ、「聖戦」を謳いあげながらもその権力闘争の側面だけが表面化し、その結果として語り尽くせないほどの争いが起きているのではないか、とそう思う。
9.11、イラク戦争、その後の現在進行形のイスラム教VSキリスト教+ユダヤ教の戦いも、所詮は、妾の子の子孫と正妻の子の子孫による兄弟喧嘩、ということになるが、まったくの他人同士ではない故にその愛憎もまた深いものなのだろうなと推察する。

さておき、いずれの宗教(東洋的宗教も含む)にしろ人は何らかの「救い」を求めて信者になるのだろうが、そんなことせずに自力で解決すべく努力を重ねるか、神や仏ではなく、自分の周りにいる親切な実体のある生きている人に「頼む助けてくれ!」と言った方がより確実なような気がするのだが、どうなんだそのへん。
それにアメリカ映画などを見ていると、敬虔なカトリック教徒であるギャングが散々人を殺してから教会にのこのこ出掛けて行って懺悔して、さっさと許されるもんだから「これでまた安心して人を殺せる」みたいなことが起きている。
そんなとこで簡単に許したりしちゃダメだろ、いったい何考えてんだ! 

そんなこったから神様は信用できない。
もっとも、そういう自分も財布の中の最後の千円札をパチンコのサンド(玉を借りる機械)に入れる時、「頼む!当たってくれ!」と図らずも口走ったりすることはあるが、すぐさま「あれ? オレは今いったい誰に頼んだんだ??」と反省する。
そういう時だけ信じてもいない神や仏にお願いごとするのは卑怯だし、第一、パチンコを出すみたいな下世話なお願いを聞いてくれる心の広い神や仏はいないだろうと推測される(笑)。
つまりあれは、僕の脳裏にパラレルに存在するもうひとりの運の強い自分に頼んでいるんだな、というのが結論。

その結論を見る限り、神様を信用していないからと言って、必ずしも自分が信用できるというわけでもなく、結局のところ迷える子羊には違いないと悟りつつ話しは次回につづく。

高瀬がぶん

[Web Log] / 04/15 11:45

問題は前号のコラムを読んで下さい。
もう一度よく読まないと、この問題にとりかかれないかもしれません。
さて、今回の問題は難しいバージョンでしたが、ここではまず簡単なバージョンを考えてみましょう。
これを解いた後に難しいバージョンにとりかかる方が分かりやすいので。

簡単なバージョンは分かれ道に「優柔不断」はおらず、「正直者」と「嘘つき」の二人だけがいます。

そこで、どちらか一方の男に、左右どちらかの道を指差しながら、こう質問をします。
「こっちが天国ですか? と聞いたらアナタは『ハイ』と答えますか?」
この質問が正解となります。
さて、ここで、もし指差したほうの道が天国だったとしたらどうでしょう。
質問された男が「正直者」だとしたら、もちろん「ハイ」と答えます。
では「嘘つき」は何て答えますか?
実は「嘘つき」も「正直者」と同じく「ハイ」と答えるのです。
嘘をつき通すためには「ハイ」と答えるしかない、といったほうがいいかも知れません。

「嘘つき」になったつもりで考えてみましょう。
「指差された道は『天国』に通じる道なので、オレは嘘つきだから当然『イイエ』と答えるべき、、、???、、、待てよ、単純に『こっちが天国ですか?』と聞かれたならもちろん『イイエ』と答えるが、質問はそうじゃない。『天国と聞いたらハイと答えるか』、という二重の質問だった。『天国かどうか』という質問と『ハイと答えるか』という二つの質問だ。そうなると答えは変わってくるな。嘘つきのオレが『ハイと答えるか』という質問に対し『イイエ』と答えたとしたら、それは正直な答えになってしまうではないか。『私は嘘つきなのでイイエと答えます、という正直な答え』。
つまり、オレは『ハイと答えるか』という質問に対しても嘘をつかなくちゃいけないので、ここは『ハイ』と答えるしかない」。
「ハイ!」

というわけで、指差した方の道が「天国」だった場合は、「正直者」も「嘘つき」も、どちらも答えは「ハイ」となります。
逆に、そちらが「地獄」だった場合にはどちらに聞いても答えは「イイエ」となります。
従って、「ハイ」と言われたらそちらの道を選べばいいし、「イイエ」と言われたら、違う方の道を行けばよいということになります。
以上が簡単バージョンの正解とその解説です。

さて、次は難しいバージョン。
嘘をつくか正直に言うか分からない、という「優柔不断」が加わることで、話しはいささか複雑になります。
さておき、上述の簡単バージョンの正解は、実は、この難しいバージョンの二問目の質問となります。
つまり、一問目で「優柔不断」を確実に排除することができれば、二問目は簡単バージョンの問題と同じになるということです。

そのためには、最初に誰に対してどんな質問をしたらよいのかということですが、、、。

左、中、右、、、目の前に並んでいる三人の男のうち誰でもよいのですが、とりあえず、ここでは一問目の質問を左の男にするという仮定で話しを進めます。
左の男に対し、中の男を指差しながらこういう質問をします。
「私が、この男(中)が『優柔不断』なのかと聞いたら、アナタは『ハイ』と答えますか?」
これが正解の「質問」です。
但し、この質問だけで「優柔不断」を排除できるわけではありません。
排除するためには、一問目の回答によって二問目の相手を的確に選ぶという、アナタの行動が必要になってきます。

ではまず、左の男の回答が「イイエ」だった場合について考えてみます。
●左の男に対する最初の質問:「私が、この男(中)が『優柔不断』なのかと聞いたら、アナタは『ハイ』と答えますか?」
●左の男の回答:「イイエ」

この状況で可能性は全部で三通りあります。
1)左の男が「正直者」だった場合。
中の男が「優柔不断」ではないことが確定するので、二問目の質問はそのまま中の男にすればよい。
2)左の男が「嘘つき」だった場合。
この場合も1)と同様、中の男が「優柔不断」ではないことが確定するので、二問目の質問はそのまま中の男にすればよい。
そして、
3)左の男が「優柔不断」だった場合。
当然のことながら中の男は「優柔不断」ではないので、1)2)と同じように二問目の質問はそのまま中の男にすればよい。

このように全ての可能性を考えても、左の男に対する一問目の質問の回答が「イイエ」だった場合には、中の男が「優柔不断」ではないことが確定するわけです。
従って、一問目に「イイエ」と言う回答があったら、とにかく二問目は、その「イイエ」と名指しされた男(このケースでは中)にすればよいということになります。

では次に、左の男に対する一問目の質問の回答が「ハイ」だった場合にはどうなるか。いささか複雑になるのでよく読んで下さい(笑)。
●左の男に対する最初の質問:「私が、この男(中)が『優柔不断』なのかと聞いたら、アナタは『ハイ』と答えますか?」
●左の男の回答:「ハイ」

この状況でも可能性は全部で三通りです。
1)左の男が「正直者」だった場合。
中の男は「優柔不断」なので、ニ問目は左か右の男にする。
2)左の男が「嘘つき」だった場合。
中の男は「優柔不断」なので、ニ問目は左か右の男にする。
そして次です。
3)左の男が「優柔不断」だった場合。
中の男は「優柔不断」ではないが、その事実を知る術はない。
但し、このケースならば、少なくとも残った右の男だけは「優柔不断」ではないことが確定する。
なぜなら、「ハイ」と答えた左の本人こそが「優柔不断」であるから。
従って次の質問は右の男にすればよい。

このように、「ハイ」という回答を聞いた場合には、3)のケースの可能性もあり得るわけです。
この場合は、1)2)で出した結論のように、次の質問を左右どちらか、、、というわけには行かなくなります。
つまり、「もしかしたら今聞いた左の男こそが『優柔不断』なのかもしれない」と考える必要があり、そのリスクを排除するために、次の質問は左の男にはせず、残った右の男にすべきという結論に至ります。
こうすれば、二問目の相手が100%「優柔不断」でないことが確定するからです。
もっとも右の相手が「正直者」か「嘘つき」かを知ることはできません。
でもそれはもはやどうでもよいのです。
要は「優柔不断」でさえなければよいのですから。
簡単バージョンで説明した通り、「正直者」でも「嘘つき」でも結果として答えはひとつなのですから、右の男に対する二問目の質問で、確実にアナタは「天国への道」を知ることができるのです。

以上、正解を説明するのが難しい(笑)。

高瀬がぶん

[Web Log] / 04/01 11:11

自分のゲップがマルちゃんのソース焼きそば臭だったりすると、とたんに人生の空しさを感じてしまう今日このごろですが、4月1日はご存知エイプリルフール。フランス語では四月馬鹿のことを「四月の魚」というらしい。

世界的に有名なエイプリルフールの嘘としては、BBCの「ビッグベンがデジタル化」ってのがあるが、これは視聴者から抗議が殺到したらしい(笑)。

嘘にちなんで今日は昔よくやった論理クイズをお教えします。
知ってる人もけっこういると思うけれど、もし知らなかったら暇つぶしにやってみて下さい。
これは難しいバージョンなのでけっこう手こずるかも(笑)。

問題
ある人が死んであの世をさまよっていると一本の道に出ました。
その道をまっすぐ歩いて行くと二股の分かれ道に突き当たりました。
そこに三人の男が立っています。
そこで天から神の声が聞こえてきました。
「これお前、その分かれ道、右か左どっちかが天国に通ずる道でどっちかが地獄へ通じる道じゃ。そこでお前の目的は確実に天国に行くこと。さて、そこに三人の男が立っているが、そのうち一人はバカがつくほどの正直者で何が何でも本当のことしか言わん。で、もう一人は大の嘘つきで、必ず嘘をつく。そしてもう一人は優柔不断なやつで嘘をついたり本当のことを言ったり、その時の気分でどっちを言うか分からん。
そこでお前はその三人のうちの誰でもいいが、一人にまず質問することができる。ただし、「ハイかイイエ」で答えられる質問に限る。
その答えをヒントに、もう一度だけ、やはり誰でもいいが、一人に「ハイかイイエ」で答えられる質問をすることができる。
つまり、都合二回質問ができるということになる。
そうして、お前が確実に天国へ通じる道を知るには、果たして、どんな質問をしたらよいのか、、、というわけじゃ。
健闘を祈る! 

※ヒント
この問題を解くには、その三人をA正直者、B嘘つき、C優柔不断とし、まず優柔不断ではない二人を特定する質問をする必要がある。そして次の質問に移る。
尚、答えは今ここに書いてしまうと目移りしたりするといけないので、次回のコラムまでとっておくことにします。

さておき、エイプリルフールで嘘をついてもいいっていうのは午前中だけ、っていうルールがあるの知ってました? いやこれはマジ、嘘ではない(笑)。
それにしてもあれだね、エイプリルフール当日ってのは、必ずと言っていいほど何通かくっだらねぇ嘘メールが来る。
やめろー! お前やオマエ。
「今年からエイプリルフールは廃止になったんだって!」とか「もうエイプリルフールに嘘をつくのをやめました」とか、どーでもいいよ(笑)。
そんな笑えない嘘に引っかかるわけない私ですが、、、そう言えば去年の4月1日にネットで流れた「円周率が割り切れた!」っていう嘘にはまんまとひっかかってしまい、大恥をかいたのも私です。

ともあれ、エイプリルフールに関係なく、世の中で一番つかれていそうな嘘というのも色々あって面白い。

■ごめん、寝てた
そうか、どうりでメールの返事遅いと思った、、、って、嘘つけ〜! 無視してただろ!

■行けたら行く
来ねぇよ、ぜってえ来ねぇ!  そう言って実際に来た人、この六十年間でまだ一人も会ってない。

■一生で一度のお願い!
輪廻転生かっ! おまえの一生、いったい何回あるんだ!

■どっちかっていうと、、、
事前にハッキリと答えは決まっているくせに。

■その話、100万回聞いたし、、、
そんなに話してない、せいぜい3回くらいがいいところ。

■忘れてたわけじゃない、、、
そう、思い出さなかっただけだ。

■怒らないから教えて
「へ〜そうかよ、そうだったのかよ」
「あっ、怒ってる」
「怒ってねぇよ」
「うそ、怒ってるじゃん」
「うるせぇな、怒ってねぇって言ってんだろがよ!」

■こんなこと言いたくないんだけど、、、
もう言いたくてしょうがないから言うけど、という意味。

■こうなることは分かってた
分かってたんならやってない。もしかしたらと思ってスケベ根性を出した結果。

■電話かける時間なかったんだ
あり得ない! 物理的にあり得ない! 一分あれば電話はできる!

■大丈夫だから
いやそんなはずはない、そういう時はせいぜい中丈夫か小丈夫だけど、言葉として大しかないからそう言ってるだけ。

■携帯、家に忘れちゃって、、、。
たいていの場合、忘れたのは携帯じゃなくて相手のこと。

■18歳以上ですか?→はい
まぁな、本人がそう言ってるんだから信じるしかないよ。好きなだけ見ろ、少年よ!

■「日本大好き!」 、、、外国人
そいつは別の国でも言ってるんだよ、「ボスニア・ヘルツェゴビナ大好き!」とかね。

■じゃ、また今度
あっ、そう。で、何年何月何日何時何分何秒? どこでさ?

■そうだ! それそれ! 思い出したわ
そうじゃないだろ! いまオレが口に出したから分かっただけで、自力で思い出したわけじゃない!

■ダメとは言わないけれど、、、
ほんとはダメなんだろ? そう言ってから賛成されてもぜんぜん嬉しくないし、もうやる気も失せる、ってかやらない、やってやるもんか!

■今やろうと思ってたのにぃ〜!
なんとかやらずに済めばいいのに、という態度を見透かされるから先に言われるんだぞ、きみ。

■大きな声じゃ言えないんだけど
小声でならなんぼでも言える、という意味。

高瀬がぶん



[Web Log] / 03/15 13:08

私の不謹慎さは今に始まったわけでもないのだが、子供の時から60代もいよいよ半ばに差し掛かろうとしている今日まで、何かの折に「黙祷!」と号令がかかると、一応しおらしく見えるように目はつむるものの、その対象となる悲しげな出来事に思いを馳せるなどということはほとんどなくて、「こうしてると意外と1分間って長いもんだな」と考えていたりとか、「黙祷していないけしからん奴はいないか?」などと、自分のけしからんを棚上げしてこっそり途中で薄目を開けて周囲を見回す、なんていうことを必ずといっていいほどしている。
その点、みんなどうなんでしょう?
もちろんその対象となる出来事の当事者や近しい人たちは心から悲しみ真摯な気持ちで祈りを捧げているに違いないが、遠く離れて儀礼的に黙祷しているたちの多くは、たぶんこれっぽちも悲しくないし真面目に祈っているとは思えない。

だから、先日ネットで議論となったツイートの、次のようなやりとりは実によく分かる。

「二年前の今日3月11日東日本大震災発生日です。今日は日本人として忘れてはならない日です。1万5880人の尊い命が失われ、たくさんの人が涙を流しました。14時46分発生。皆さんこの時間に黙祷を捧げましょう」
そんな内容が「拡散希望」としてつぶやかれた。
すると被災者を名乗る人物が、
「善意のつもりでやってるなら申し訳ないが、被災者の私からしたらこういうの不快だから消してくれ。黙祷とか他人に言われてするもんじゃないから。忘れてる人間は忘れてていいし、するやつは誰にも報告せずに自分一人ですりゃあいいよ」
とリツイートした。
すると、黙祷をしようと呼びかけた人物は、
「なぜ黙祷を捧げようって言ってるのにフォロワーの一人として文句言ってくるんだよ。 忘れちゃいけないんだよ。忘れてるなら忘れたまんまじゃいけないんだよ」
と返した。
また、お笑いコンビ「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳さん(39)がツイッターで、
「黙祷 心よりご冥福を…」
とつぶやいたことに対し、
「Twitterにわざわざ書く必要がないと思います。被災者より」
という意見が寄せられた。
田村さんは
「1人でも多くの人と黙祷したいと思っただけなのですが…二度と黙祷をする前に呟きません…申し訳ありませんでした」
と謝罪した。
(以上、Jcastニュースより引用)
要は静かに冥福を祈るのが黙祷の在り方で、ツイッターでつぶやくのは静かじゃないし、リツイート欲しさの偽善的行為だということらしい。

東日本大震災、あれから2年ということで、3.11絡みの様々な追悼行事が全国各地で展開され、メディアはこぞってそれらの紹介に明け暮れた。
それで何を伝えたいのかというと、そのほとんどがまだまだ続く悲惨な現実で、どうにかしなくちゃいけないのだがどうにもならないという閉塞感。
でも、その悲惨さもきちんと分けて考えなくてはいけないだろう。
まず、地震そのものや津波によって失われた多くの命は、確かに悲惨で可哀想だけれども天命としてもう諦めるしか術がない。
過ぎ去った悲劇に心奪われてもいいことはひとつもないのだ。
忘れてはいけないのは悲劇から得た教訓で、悲劇そのものは早いとこ忘れたほうが心と身体によい、ということなのだろう。
その証拠に、震災被害のトラウマが原因と思われる不安なデータが最近発表された。
東日本大震災の被災地で、配偶者間暴力(DV)が激増しているというのだ。福島県警には2012年、前年比64%増の840件、宮城県警にも同33%増の1856件のDV相談があり、いずれも過去最高を更新した、、、と。
なんとも切ない八つ当たり的現実だが、これがひいては児童への虐待などにつながる恐れありとして、関係当局は目を光らせているようだ。
一方、原発事故による悲惨な現状はまた別の話し。
いまだに15万人以上の人が故郷に帰れず、見通しのないままあちらこちらを彷徨い続けていている。
老い先短いじいさんばあさんは無理矢理にでも帰って放射能浴びながら暮らしてもそれほど影響ないことは分かっているが、実際問題として、じいさんばあさんだけを帰すということはできない。といって家族全員で帰るというわけにもいかない。子供や孫の健康被害のリスクを考えれば、結局のところ家族全員故郷を離れて暮らすしか選択肢がない。
除染さえできればとさかんに頭をひねるが、考えうる全ての方策は「仮」でしかない。そりゃそうだ。「核のゴミの最終処分」などできる場所がこの地球上どこにもないのだから。

そこで出来ることと言えば、一旦環境に出てしまった放射性物質を広く薄く地球全体にバラまくということぐらいのもの。
福島の地上の放射能の値がこの2年で40%減少したという報道があったが、これはセシウム134の半減期が2年ということと、放射性物質が雨で流され結果的に海に薄くばらまかれたということで、決して人間の努力によって減少したものではない。結局そういうことなのだろう。人にできることなんかほぼ無いに等しいのだ。残されたセシウム137の半減期は30年なので、その間、どうしようどうしようと手をこまねきながらただ待つしかない。従って、原子力を自在に扱えるほどの知恵を、現時点で人類はまだ持っていないことを思い知るべきで、世の中の景気がどうなろうとも、何が何でも原発全廃を目指すべきだろうと確信している。

また、汚染された食物によって人間の身体に蓄積され、その分環境の汚染度が落ちている、という見方もあるが、つい最近の発表によると、どうやら被災地の人たちの体内にはそれほど放射性物質は蓄積されていない様子である。その信憑性についてはまだ「ほんとかな?」だけれど、あの当時聞き慣れた「ただちに影響はない」とは言えそうな気配。と言ってまさか、出荷されているものとは別のものを食べている、っていうことはないよな。

その中でも特に心配されるのは子供たちの甲状腺に対する影響なのだが、これもまたなんだか奇妙なことになってきている。

まず、以前に「福島の子供たちの4割に甲状腺の嚢胞が見つかる!」という衝撃的なニュースが流れ、「こりゃえらいことだ!」と大騒ぎになったのだが、ついこないだの3月8日のニュースでは「長崎、山梨、青森の子供約4300人を対象に行った甲状腺検査で、6割に嚢胞やしこりが見つかる!」と、、、あれ? どういうこと?  原発と関係ない地域の子供の方が嚢胞多いじゃねぇか! とまあそんな逆転現象の発表がなされたのだ。

この調査の目的は、原発事故と甲状腺異常の関連性を探るために福島以外の地域での検査を実施した、ということなのだが、なんか腑に落ちない気もする。
「福島の子供4割に甲状腺異常が! 原発事故の影響か?」という報道で世間が騒がしくなったことを受け、それに懐疑的な人たちの手によってなされた都合のよい調査結果報告ではあるまいか。それも案に相違して期待以上の悪い数値が出て、ある意味ひと安心みたいな(苦笑)。
いったい報道の真実はどこに?

3年前までは、3月11日と聞けば「あぁ、磯野カツオの誕生日だ」と思っていたが、それも、今となっては口に出すのも不謹慎なシンクロである。



高瀬がぶん

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