たま~に「死」について考えることがある。
これがたまにじゃなくいつも考えたり悩んだりしてる人は、すでに心の病にかかっている可能性があるので注意が必要だけれど、たまに死について考えたりするのは極めて健全なことで、たぶん身体にもよい。「死」を考えることでわき起こる恐怖心は、それが適度であれば身の安全を確保するためのアプローチに多いに役立つからだ。

作家保坂和志はここのところ「人は死なない」ということを言い続けていて、「そう言っていた荒川修作は死んじゃったけどさ(半笑い)」と前置きをした上で、「人は死なない」ことについて熱く語る。
言い方は逆だけれど、「死なない」ことについて考えるということはすなわち「死」について考えることと同じなわけで、そんなことばっかり考えていたり悩んでいたりする、というのも普通の人なら危ない。
でも保坂和志は作家だから、そんなことで悩むことが日常の仕事になっている。言わばビジネス悩み(笑)なので全然危なくはない。
保坂がどういう意味で「人は死なない」と言っているのかを勝手に解説すると「そんなこと言ってるんじゃないよ~」と文句を言われかねないので控えるが、少なくともこう言う意味のことは言っている。
「人が生まれる前と死んだあとは『無』である、というのは、近代思想が産んだひとつの考え方に過ぎないわけで、もしかしたら違うんじゃないか? と考えている」。
加えて、「これは、例えば作家が作品を書けば死後もその作品は残っていて、その作品の中に作家は生き続けている、というような情緒的な意味で言っているのではない」と。

世界には人がまったく死なない宗教だってたくさんあるだろう。また、死んでも復活!や、肉体的な死をものともしない宗教もその仲間に入れれば、ほとんどの宗教が「人は死なない」みたいなことを言っているのではないかと思う。
そこで、宗教だからアテにならない、という言い分が通用するかと思えば、案外そうでもない。ひょっとして僕(僕ら)は、合理主義を教義とする「科学教」に帰依した信者の一人に過ぎないかもしれないからだ。

僕が最近「死」について考えたのは、友人Y君の死に接したからだ。彼は先月(6月11日)、35歳という若さで病に倒れこの世を去った。通夜から告別式にかけて斎場で一泊しながら、夜中に何度か棺の中に横たわっている彼の顔を眺めに行くのだが、その度に「本当にY君は死んじゃったんだろうか、うん、確かに死んじゃってるなぁ」と痛感させられた。
この際、「人は死なない」なんてのんきなこと言ってる場合じゃない。やっぱりY君の亡骸を目の前にすると圧倒的な現実感を伴って「人の死」を受け入れさせられる。
このことを告別式の時に保坂にも言ったが、彼は「うん」とだけ答えた。

Y君が都内の病院のベットで臨終を迎える数時間前、山下澄人というY君の兄貴みたいな存在の男が傍らにいた。その山下君、Y君の命が今にも終りを告げるだろうことを知らされて、果たして間に合うかどうか、という微妙なタイミングで札幌から駆けつけていたのだ。
この山下君に会いたい、というのがY君の「死ぬまでにしたいひとつのこと」であって、山下君が現れるまでの間、意識を保つためにモルヒネの量を調整していたという。そして実際に会った時には、Y君はすでに声を発することができる状態ではなかったというが、それでも目で会話することはできたと、後に山下君は語っていた。
そして、その面談の後、モルヒネ投与を増やし、昏睡状態に陥り、二時間ほど後に息を引き取った。

僕はここで「人は死なない」ということを、別の解釈をもって肯定することになる。
山下君が病院に到着する数時間前、Y君が発した人生最後の言葉は、「オレ死ぬの?」だったそうで、それは、そういう場面が近づいたことを感じさせる人物の言動などから察したことで、Y君は自分が本当に死ぬなんて思っていなかった、という反応であった。
いや言い方が不正確だ。Y君は自分が重篤な状態でそんなに長く生きられないことは知っていた。つまり、自分が「死」に近づいていることを知っていた。
「でも、それは今じゃない」という思いが常にあった。
思えばこれは、とりあえず無難に生きている僕らでも事情はほとんど同じである。
人はいつか必ず死ぬ、「でも、それは今じゃない」。
いつかどころか、突然事故に遭うとか、原因不明の突然死などであっという間に死んでしまう可能性だって十分に考えられる。でもやっぱり「それは今じゃない」という感覚がある。根拠なんかはない。ただ、人はそう考えるようにできている。
人生の残りの時間がどれくらいあるか、という現実的な余命の時間の長短に関わらず、人はいつでも自分の死について、「それは今じゃない」と考えているのではないか。死の一秒前であっても、0.5秒前であっても、「それは今じゃない」と。
そういう意味で、いつまでたっても「人は死なない」。
いや厳密に言うとそうではない。
傍観者として眺めている分には「人は死ぬ」。
でも、自分がその当事者であった場合、「私は死なない」。

かつて山下君が「群像」に発表した小説の中に、ひとこと「高瀬さんはこう言うが、、、」みたいな表現が出て来る。たぶん否定的な意味で引用したんだと思うが、、、(笑)。
それは僕の口癖のようなもので、
「自らの死は、自分にまったく関係ないことのひとつだ」と。
それは、こういう意味だ。
死の直前までは、もちろん自分の死は最も関係が深い重要事項に違いないが、死そのものとなると話しは別。僕の死は僕以外のすべての関係者に様々な影響を与えるだろう。悲しまれたりを基本にひょっとして喜ばれたり(笑)。それだけじゃない。大げさでなく、僕という個体の死は、この世界そのものに、確実にある影響や変化を与える。僕が占めていた身体的空間は別の何かで埋まり、僕が吸って吐き出していた酸素や二酸化炭素の量だってほんの少しだけれど確実に変わる。
けれど、僕が死んだ途端、僕の死は僕自身に何ら影響や変化を与えることはなくなり、そこで関係は切れる。もう無関係なのだ。

それにしても人が死ぬとなぜこんなに悲しいのだろう。
「死」が特殊な状態じゃないことは知っている。
それどころか、この宇宙はほとんど「死」で満たされている。
言わば「死」こそ自然で普通の状態なのだ。
「生きている」ことこそ極めて稀で不自然な状態なのに、僕たちはなぜかうっかりしていて、「生きているのが当たり前」という錯覚の中で、いつも人や動物の「死」に泣かされる。


高瀬がぶん