湘南と全然関係ないかも日記
地域のこと?日々の出来事、感じること
 
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ワンちゃん
02/2012
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[Web Log] / 02/25 23:39

退院の2日後、入院中にK先生からOKが出ていた眼科の診察に行った。
母は4月に白内障の手術をする予定がある。
眼科のA先生は声が大きくて、若者も顔負けなくらい元気ハツラ〜ツ!
私は密かに「ハイテンション」とあだ名をつけた。(まんまじゃんか)
この部分だけで、関係者(患者)には誰かわかってしまうのでは…とヒヤヒヤする。

Dr.ハイテンションは母が2日前に退院したと知り、経過が書かれたパソコンを見ながら「前回の審査の時より、今のほうが元気ってことなんだ!」とニコニコした。
良いことを発見して、嬉しくて仕方ないというふうに。
「ということはさ、もう手術前に行う予定だった検診は(内科入院中に)終わっちゃってるんだ!」
先生は診察室のカレンダーを見たあと「27日、左目できるなあ。どう?」と笑顔で振り向いた。

「は…?」
「これから行う予定だった検診が既に終わっていますからね、あとは今日と手術1週間前の診察・検査で手術が出来ますよ!」
つまり、見えないほうの左目が2ヶ月前倒しで手術出来る。(見えるようになる!)

手術は初めての母だけど、すっごーく楽しいことを提案された気分で不安はなし。
母と二人「27日入れて下さい。お願いします!」と即答した。

その10日後、再び眼科へ行った。
先生は相変わらずハイテンションで「どうですか。決心がついていたら27日で…」とおっしゃった。
そうか、この前のは仮予約だったのね。

そうとは思わず母も私達も手術する気満々で、すぐに叔母に電話していた。
「よかったねぇ。良いことが続くじゃないの。良い時はトントン拍子で進むもんだよ。お天道さんは見ているからね。まじめに頑張ってきた人にはいいことがあるんだよ」と叔母は喜んだ。

まだ途中ではあるけれど、物事は“あと”で振り返ると逆転することはあると思う。最初はあんなに不安だった内科の入院。
入院し輸血して検査して、そのお陰で眼が早く見えるようになる。これは母が一番望んでいたことだ。
入院したあの頃はわからなかったけれど、過ぎてみればこんなに楽しいことが用意されていたんだね。
つづく…


[Web Log] / 02/24 17:40

 K先生から退院の話が出た母は「まだ、ここにいたいなあ」という顔をしていた。
理由のひとつは、入院前に私が「病院の栄養士さんに何を食べたらいいか聞いてきなよ」と言ったことにある。
元気になったからこそできる、栄養指導の機会を楽しみにしていたのである。

利き腕が3倍に腫れたこともあり、K先生に「大事をとって1日、2日入院を延ばしてもらえませんか」と(ある意味無茶な)お願いをした。
1日でも延びれば、栄養指導の時間がとれる。

栄養士さんとの勉強会には私も同席した。
「今までどんなものを召し上がっていたんですか」
「朝は少しの野菜と、くるみパンにピーナッツバターをつけて、昼は忙しいと同じメニューで。夜はほとんど煮物です」
ようは、入れ歯の調子が悪くなってきて硬い物が食べにくくなり、柔らかく好きな物だけを食べていたという。
それ以外にも母の食べ方の偏りが明らかになった。夕方お腹が空いた時に、おせんべいや甘いものを食べていたという。

貧血の原因は別の理由なのだが、栄養士さんは「食生活に貧血になりがちな習慣がありましたね」と優しく指摘した。
ようは、量食べないうえ栄養も足りていない。
この食生活が先なのか、出血していたから気力が減退し、食事が作れず栄養が足りなくなっていったのかわからないが、栄養的にも貧血サイクルにはいっていたことがわかった。

入院前、確かに母は私からみて、気力が足りないように感じていた。
何でも「無理だ」と諦めてしまう。
まあ、病気は別にして、あの父と一緒ではそのような思考になっても仕方ないけれど。

栄養士さんは「基本的にはなにを食べてもいいです。毎食揚げ物が続くような食べ方はダメですが、今の目標は3食、食事をすることです」とおっしゃった。
母も私も退院後は厳格な「栄養管理」が始まるのかと思っていたから安心した。
書店に並ぶ『〇〇の食事』本に従って、メニューを組まないといけないと思っていたから。

弟はこの話を聞いて「入院前、本人が貧血の原因は偏食とストレスだと言い張っていたけど、ある意味本当だったね。そうなると、ストレス部分をなくさないといけないってことだけど」と言った。

 栄養指導の翌日、母は退院した。
弟は仕事で車を出すことが出来ず、病院へは叔父と叔母が来てくれた。
叔父は「俺の奥さんの姉さんなんだから、俺の姉さんだ」「自分に出来ることは運転くらい。遠慮せず、いくらでも使ってもらっていい」と言ってくれた。
弟には「頑張って仕事しているんだからそれでいい。仕事は大切だよ。自分が手助けできるから」、私には「娘がもう一人できたようで嬉しい」と力になってくれている。

 弟の家に向かう車の中で、母は病院の様子を話しだした。
同じ病室の人たちは入院が何回目かで、病院慣れしているという。
スタッフの方々にも気軽に声を掛ける。
例えばこんなふう。
「あなた忙しい仕事で、家で奥さん大変ね」
「いや、僕独りなんですよ」
・・なにせ暇なので、この調子でありとあらゆるスタッフに「あなた、独身?」とリサーチしているという。
「あら、私は娘が成人しているんですよ」という看護師さん、「僕はまだ独身で・・」という先生。

私は一瞬青くなった。これって、ある意味“セクハラ”じゃん?
「お母さんは聞いていないよね・・・。プライバシーに踏み込むようなこと。まさか、先生には・・・」
「私は聞かないよ。でも、別の人が聞いてた」

・・・担当患者の病に対応するだけでなく、患って「いない」おしゃべりな口にも対応しなければいけないなんて。医療従事者ってタイヘンだなあ、と思った。
私は、バアサンたちの元気過ぎる、このお口こそどうにかならんかね、とふと思った。

(もうちょっと、つづく・・・)


[Web Log] / 02/23 23:20

 実は私、年末から具合が悪かった。
職場で八つ当たりの対象になってしまい、数ヶ月我慢していたら体に症状がでた。
身心症と診断され薬が出た…のだが、薬が残り1となったタイミングで母が入院した。
母の入院前から風邪もひいていた。微熱もあった。
…のだが、「入院」になった時点で自分のことを忘れた。母の命を繋ぐほうが大切なのだ。

この時期、弟の同僚が心臓発作で入院してしまい、彼の休みは10日に1回になった。
夜勤のある仕事なので、朝帰ってきてもっと寝ていたいところを、弟はわずかな時間をつくって母のための買い物をしたり、面会時間に顔を出していた。
弟が仕事で動けないぶん、病院の事務手続きは全て私がしたが、それは当然のことだと思っている。互いが出来ることを出来る限りする、それでいい。

 このブログでも時々話題にする「伊勢白山道」では、うつの人に自分のことはおいといて人のために動くことを勧めている。
母の状態が気になり眠れない、食欲もない、それでも気がつくと心身症も風邪も治っていた。
(うつまでいかなかったけど)自分の体験から、先のアドバイスは有効だとわかる。
面白いことに、私は精神的にも元気になっていった。
今回、自分にできることはやりきろうと決めたので気合が入ったのか、一番元気な時の自分がよみがえった。
必要な物事はバシバシ打って出た。
まあ、“命”が相手なので、躊躇している暇はなかっただけなんだけど。

見栄っ張りでカッコつけの性格も、母のためにはどうでもよかった。つまり、人目なんかどうでもいいと。他人にどう思われたっていい。それよりも大事なのは、私を育ててくれた人を守ることだ。

母の体を心配する叔母からは、毎日電話が掛かってきた。従姉妹は母のことが気になって眠れないと、一旦床に入っても起きてくると叔母は言う。
従姉妹は子供の頃から車椅子生活を送っている。自分のことより、伯母である私の母を気遣ってくれている。
正直体がキツくて、動けない日もあった。叔母の家族まで母を気遣ってくれているのに、そんなこといっている場合じゃない。
だから洗濯物を交換しに病院へ行く時は、笑顔を作ることを心がけた。

先の「伊勢白山道」(ブログ)には、非常に助けられた。
一番の支えになってくれたのは、過去記事にある「やれることをやり切って、倒れるなら前に倒れる。そうすれば後悔しない」という内容だった。
それを思い出し、ひたすら前を向こうと決めた。
暗い想像をする隙が出来そうな時、今後の不安が頭をもたげる時、一旦思考をストップして「倒れるなら前へ!」と何度も自分に言い聞かせた。
「やり切って、倒れるなら前へ倒れよう!!」
何度そう思ったかわからない。

誰が一番つらいのかといえば、大病かもしれないというプレッシャーを抱える母である。
慣れない検査をして、輸血までしている母なのだ。
私の疲れは一時的なもの。病気ではない。時期がきて休めば元に戻る。
自分の時間が全くなくなっても、今までたっぷりあった。たまにはいいだろう。
人目なんかどうでもいい。がむしゃらに突き進もう。
今の自分にとって、何が一番大切か。
生活の中で何を優先させたいか。
それを考えると、私はつらい体験をしているなんて思わなかった。
生きていてよかった。この体験を“させてもらって”いる。この機会を頂けてよかった。これが生きているということなのかもしれない。
そう、思った。
つづく・・・


[Web Log] / 02/22 22:32

母が入院して1週間。見舞いに行ったら姿が見えない。
部屋の奥を見ると、個人ごとの仕切りに使うカーテンの裾から、淡いオレンジ色のパジャマが見え、靴下から母と分かった。
自分のベッドを離れ、奥の人の所までしゃべりに行っていた。
調子が良くなったら、じっとしていられないらしい。

出血は子宮筋腫からだったらしく、処置をして今は問題なし。
婦人科医は「検査しましたが、他の病気もありませんでしたので、卒業です」と厳かにおっしゃった。
他の臓器の疾患もみつからず「これだけ検査して何も見つかりませんでしたから、大っじょ〜ぶ!」と主治医のK先生が親指と人差し指でOKサインをつくったと、母は嬉しそうに真似をした。

母は案外入院生活を楽しんでいた。
先生や看護師さんは優しいし、同じ病室の患者さんたちとは仲良くなった。
上げ膳据え膳だし、何より大病ではなかったのがいい。
「大腸の検査はこれきりでいいけど、他は楽に終わっちゃったッ」とケロッとしている。
最初は2週間も入院なんて嫌…と言ってたのに、自宅より居心地がよかったらしく、K先生から予定より早く退院出来そうだと聞いたら暗い顔になった。

…ら、その夜から手が3倍に腫れあがった。手のひらがカサカサで水泡ができ、グーパーが出来ない。
同じ病室の人も以前似た症状になり、乾燥が原因だったという。
母の場合は輸血をし、体の3分2は他人の血がはいっている。
弟が同僚から、大量輸血をすると体質の変わる人がいると聞いてきた。一時的に抵抗力が下がるためだという。
念のためこれを調べた内科では異常がなかったが、K先生が心配して皮膚科受診を手配して下った。

私達はまたこれを逆手にとることにした。
これでは家事は出来ない。退院後は腫れがひくまでゆっくり休まないといけない。
血が馴染むまで、大事をとらなければいけない!!
…ということを、弟や叔父、叔母、私が繰り返した。
新たな洗脳である。
しつこく言い続け、弟の家で私が食事を作ると説得したら、少しの間なら行くという。
つづく…。



[Web Log] / 02/22 12:26

母が入院する時、父の見舞いはいらないと言った。
その頃はガンの疑いが一番あったので、余計な神経を使い治療に差し障るのは避けたいと思い、私は母の意志を尊重したいと思った。
弟にこの件を連絡すると「仲がいいとは言えないけれど、何十年も連れ添った夫婦じゃない?」と信じられない様子だった。

叔母(母の妹)に電話すると「会わせないほうがいい。退院してからも、家には帰らないほうがいい」と言う。母から愚痴を聞いていた叔母から、子供達も知らない父の酷い言動が明らかになった。

子供の私からみても、父は母を“お手伝いさん”のように扱い、私や弟は従業員の子供のような感じだった。
父だけが威張って母の自由は殆どない。
100歩譲って両親の年代独特の亭主関白と表現したとしても、家族・夫婦の雰囲気は愉快なものではなかった。
父から思いやりの言葉を聞いたことはなく、大病の可能性が有る今回の入院に関しても、母の体を気遣うどころか父は自分のことしか考えていない様子だ。

最近は特に、企業でも政治でも今まで隠れていた“不適切”な事柄が明らかになり、人間の“良心に従った”改善を求められている。我が家も同様で、今まで見て見ぬふりをしてきた家族のあり方、父の勝手ぶりをこれ以上継続させてはいけないし、母の環境を改善しなければいけない状況に直面した。

入院以来、私と弟は毎日電話かメールで母の様子と、今後の生活を話し合った。
叔母からは毎日電話があり「お母さんを家に帰しちゃいけない」と繰り返す。
妹として悔しいと。
なんとか自宅へ戻ることを阻止したい思いを感じた。
自宅に戻ったら、また父の世話ばかりで自分の体を休めることは出来ないだろう。

叔母と叔父は出来る限りのサポートはするので、母の部屋を用意できないかと弟に頭を下げた。
私には中部地方にいくのを止めて、神奈川に残り、母(弟)の家の近くに住んで欲しいと言う。
正直最初は迷いがあった。
県までターゲットを絞り、給与や家賃水準を調べていた。具体的には給与水準は神奈川と同じで家賃は3分の2、物価もここより安いから、神奈川で生活するより楽になる見込みはつく。
数日悩んだが、自分の良心に従うと、今まで好き勝手にさせてもらったし、母に何か出来るのは今しかないと腹をくくった。
弟も腹を決め母の部屋を用意し、必要な物を買いに行った。

…以上が父のいないところで、決まっていった…。
弟は見舞いの度、母に部屋を用意したのでうちにおいでと説得したが、なかなか首を縦に振らない。

週末、K先生が「暫くは通院で様子を見なきゃいけませんが、来週早々退院できそうです」とおっしゃった。
一瞬、母の表情が曇ったのを私は見逃さなかった。
なんとかしなければ。
つづく…。



[Web Log] / 02/19 21:49

「お腹のエコーで子宮筋腫があることがわかりました」
K先生は最初に「入院・検査が初めてとのことなので、痛みを伴わない検査から始めます」と説明して下さった。
私も母の負担を減らしたくて、素人ながら確率の高い検査から始めれば体が楽かもしれない?と思い、数年前に聞いていた子宮筋腫の話を予め伝えてあった。
「やはりありましたか」
「(出血は)胃や腸でなく、筋腫ならいいんですが。婦人科医に診てもらいますね」と先生は説明して下さる。
友人K君に似ているからヒイキ目だとは自覚しているが「いい先生だなぁ」と思う。
先生は母のために、ここに書いていない事柄もご尽力下さっていた。
それは医療を超えた部分であったけれど、人として先生が母を思いやって動いて下さったのだ。

母は4月に白内障の手術を控えていて、子供の頃からほぼ見えない左目が、今より視力を取り戻すのを楽しみにしている。
濃い赤・青・黄・緑は判別出来るが、黒と濃い茶は区別が難しい。薬剤師さんは、母の為に2種類の薬を1回分ずつ小袋に入れて下さった。
これなら見間違って同じ薬を飲んでしまうことはない。
更に表の袋には赤く大きな字で《朝1回》と書いてある。
事務職を経験した私は、この細かい作業は手前がかかるとわかる。
看護師さんや点滴やリハビリを行うスタッフの方々も明るく、面会時間に顔を合わせると、私までほっとする雰囲気がある。

母の治療・看護をしてくださる方々に私も弟も非常に満足した。
今まで頑張ってきた母であるからこそ、恵まれた治療という贈り物がきたと私は感じていた。
いい加減に生きてきた私に同じ状況が起こったら、これだけの環境が整うだろうか。
つづく…




[Web Log] / 02/17 16:30

入院翌日、母のお見舞いに行った。
パジャマの明るいオレンジ色のためか、点滴のおかげか、母の顔色は入院前に比べよく見えた。
顔つきもホッと安心した様子になっていた。

病院で会った弟と、母の今後について話し合った。
もしもの病気であっても、そうでなくても、今後は本人の好きにさせようと。
自分たちは今まで好き勝手にさせてもらってたけれど、まだ母には孝行できていない。お互いそれが気に掛かる点だった。
「元気になってもらわないと・・・」

入院が決まってから、叔母(母の妹)から私の携帯に毎日電話が掛かってきた。
叔母には最初に医師から言われた(もしもの)病名は伝えていなかった。
・・けれど、叔母は「何もなくても、高齢だからあと何年かと私は思うよ。これからは無理はいけないよ」と繰り返す。
弟と私は検査結果がわかるまで安心できず、入院当初は特にナーバスになっていたが、本人は「皆に“病院に行ったことないんだって?! 入院したことないんだって?”と1回ずつ聞かれちゃった」とケロッとしている。
また、病院で出してもらう食事を「私は食いしん坊ですから〜」と言って完食しては喜んでいた。
同じ病室の人とは年が近いらしく、すぐに仲良くなって、お互いのダンナの愚痴をしゃべっていたという。

点滴⇒輸血を繰り返し、3日もたった頃になると
「ねえ、顔そり持ってきて。たくさんの人に会うから恥ずかしいじゃん」と言い出した。入院前は手入れする気力(余裕)さえなかったのか・・。
入院して医師の目が届く場所にいてくれることは安心で病院生活をそれなりに楽しんでいるのはいいが、検査結果が出るまでは安心できない。
この後、検査はどうなるのか。
つづく・・・


[Web Log] / 02/16 23:59

弟と、母に内緒で入院の手続きをしてしまえと話合った。
手続きの日、主治医となるK先生に「ガンの他に可能性がある病気ってありますか」と聞いてみた。娘として“可能性(もしかしたら)”とはいえ、ガンはショックな病名であったから、楽な気持ちになりたいのが正直なところ。
「(貧血を引き起こすことに対しては)まれに栄養失調がありますが・・。現代では確率が低いですね・・」
とおっしゃる。

ガンだとハッキリいわれるのが怖いから入院を渋るわけで、これを逆手にとることにした。
母に「栄養失調もありえるってさ。つまり偏食ってことじゃん? お母さん、朝はパンにピーナッツクリームつけて、昼も忙しい時はパンかお菓子。栄養って糖分しかとってないよね。
栄養の偏りでの貧血はありえるんじゃない? インスタント世代の若者ならともかく、まさかお母さんの世代でお菓子を食事にしてしまう人がいるとは、先生も思わないんじゃないかあ」
私はやや強引に「病院の栄養士さんにどんな食べ物食べたらいいか聞いてきなよ。入院してさ」と、かく乱作戦に出た。

つまり、何度も“偏食”と“栄養失調”を繰り返してガンでなく栄養の問題かも! と洗脳したのである。
母は血の量が少ないことを忘れ、栄養の偏りと思いこみつつあった。
「確かに私は偏食だな・・。あと(父が口うるさくて)ストレスもある。貧血はストレスからくるかもしれない!! そうだ、ストレスだ!!」と言い、入院の荷造りを始めた。

翌日、母には内緒で診察予約をしていたK先生との約束の時間。
入院期間は約2週間といわれていたから、3つになった荷物を持って診察室へ入った。
しめしめ、ここまでこぎつけた。

K先生はなんでもないふうに「その後、体調はどうですか」と話し出した。
「体調はいいです。私は元気ですから!」
「まあ、うらやましいね」
先生は穏やかなスローテンポで話をする。おっとり優しい雰囲気をつくりつつ、話は入院へもっていこうとしているようだ。

 世間話が始まった。
「ご趣味はあるんですか」
「週1回踊りに通うのが楽しみなんです」
「いいですねえ」
「はい。私は健康ですから!」
母はやや上に顔を向けて、自慢するように繰り返した。
「私は毎日出かけてもいいくらいなんです。それから、旅行にも行きたい!!」
「行ったらいいですよ。もっと元気になってね」
「旅行は年に数回行ってもいいくらいです! もっと長生きしなきゃいけないんです!」
「そうですねえ。入院してまずは輸血してね」
「えーー、でもぉー、まだ私は入院は」
荷物を持って診察室に入ったくせに、この期に及んでゴネている。
「では、まずは1週間くらいでどうですか。一応、1週間にしておいて、もしかしたら少し長くなるかもしれないけれど。それで様子をみてみませんか」
「1週間ですか。まだ気持ちの整理がぁ〜」

いつ終わるともかわからぬ、ゆるゆるとした二人の会話に、私がじりじりしてきた。
「お母さん、入院してもいいって今日出てきたよね。こうやって荷物持ってきたじゃん!」
「でも、私は元気だし」
「顔、白いよ。ね、娘さんもそう言っていることだし、入院しましょう。にゅ〜〜いん!」
私は間髪いれず言った。「先生、お願いします!!」
「では、部屋を探してもらいましょう。空きがあるかどうか。では、一旦待合室に出られてお待ち下さい。」
「えーーーーーー」

 診察室を出てから私は言った。
「お母さん、先生困ってらしたじゃない」
「もっと困らせたいよ」
・・・データ上は死んでいてもおかしくないのに、口は達者だ。

待合室にいると、打ち合わせ通り「部屋、空いていました」と声を掛けられる。
すぐに病室へ行くのかと思ったら「では、これから血圧を測ります・・・」と検査室を案内された。

検査後、用意されていた病室へ行く。荷物をロッカーに入れ終わった頃、看護師さん、薬剤師さんたちが順番にいらした。
看護師さんから「入院はしたことありますか」と聞かれ「病院へは行きませんから。入院は出産以来です」と答える。
薬剤師さんから「合わないお薬はありますか」と聞かれ「私は薬を飲まないんです。風邪なら薬を飲まないで治しちゃうんです」と、堂々と答える。ここは病院なのに・・・。

まあ、医師の目の届く場所に行ってくれて安心したけど、いやはや、これからどうなるのかなぁ~。
つづく・・・


[Web Log] / 02/15 23:56

1,2年くらい前からだろうか、母を見て「小さくなったなあ」と思っていた。
特別思い当たる不調は見えず、いや、去年の震災直前に「!!」ということはあったが、家族の誰なのかはっきりしないまま東日本大震災が起こり、その後同様のことがなく、気になりつつも記憶が薄れてはきていた。

即入院と言われて私は非常に後悔した。地震が怖くても、忙しくても、なにがどうでも、母を病院へ連れて行けばもっと早く対処してもらえて、こんなことにはならなかったのではないか。
まだ親孝行らしいことはしていない。
勝手な言い草だが、なにもしないまま死なれては後悔する・・・今まで好き勝手にやってきた自分の行動を猛省した。
過去は変えられないけれど、とにかく今に集中してベストの動きをしよう。母がしてくれたことの何分の1も返せないけれど、今回自分ができる事はやりきろうと決めた。

総合病院でまさかの病名も出てショックを受けた母に聞かせないため、弟に電話する時は買い物だと言って外へ出た。
電話ボックスからであれば、会話は外にもれない。
「病気が何かってことはおいといて、輸血しないと危険な状態だって」
「病気に関しては、もしも・・・だった場合、治療や手術をすれば大丈夫な初期とか、末期ってことは今わかるの?」
「血液の質は何ともなくて、ドクターも???な状態らしい。つまり、検査をして調べてみないとわからないんだって。それでも、今考えられる病気はいくつかあって・・・」
・・・五分五分と言われながらも、弟も私もショックで悪いほうに想像がいってしまう。

「私たちは一応最悪のことも想定しないといけないよ。病気の場合と、何でもなくても今後の生活をどうするかね」
「急に、妙に優しくすると本人が‘自分は深刻な病気かもしれない’と心配するから、いつも通りにしよう。」
と打ち合わせた。

その夜、弟が駆けつけ「まずは血を入れることが基本だからさ。検査はそのあとだから。堂々と家事休めるし・・」と入院するようさりげなく言ったところ「観念しなきゃいけないかな」と了承したという。

翌朝、母はもう病気の話を聞きたくないというので、検診をしてもらったD医院へ私一人で行った。
「家族の者ですが、検診結果を取りに来ました」と受付すると、順番を早めて診察室へ通してくれた。
「先生、この度はありがとうございます。先生が強く言って下さらなければ、総合病院へすぐに行ったかどうか・・・。
ガンの可能性も高いと言われ、即入院と言われました。輸血と検査の必要ありだそうです。」
「よかった。血がね、3分の1しかないんですよ。これは内臓のどこかから出血していると考えられます。
データ的には生きていることが不思議な状態でね。僕は早く大きな、入院できる病院へ行ってほしくてハラハラしちゃったよ。
にも関わらず、ご本人は何ともないってケロッとしているでしょう。こりゃ困った、どうしようかとね・・・」
先生は優しい目で話をし、母が言うようなキツイ嫌な人には見えなかった。
それどころか「例えば胃潰瘍でも高齢者の場合は出血するんです。痛みがなくて本人が病気に気づかないこともあります。
出血というのは、ある一定量まで減ってしまうと加速して、高齢の方は夜寝てそのまま・・・ってことがあるんでね。これではご家族の方がやるせないでしょう」
と説明して下さった。

そのあと総合病院へ移動。内科・K医師の予約を取っていた。
これは弟と打ち合わせ、母に内緒で(もはや強引に)入院の手続きをするために予約したものだった。
診察のつもりで病院へ連れて行き、入院をさせようと・・。
先生がいい方で「月曜にいらしたら、私から入院しましょうと話をふりますよ」と言って下さった。
親をだます猿芝居?! をドクターと打ち合わせる娘。なんとも、はぁ〜。

ところで、検診を行った医院のD先生も、総合病院で主治医となるK先生も、普段の顔は非常に優しげ。
K先生など非常にソフトな雰囲気。
・・・だけど、前回も書いたけれど、患者に病気の可能性を告げる時は厳しい顔つきになる。
とても同じ人とは思えない。仕事とはいえ、緊張を伴い、医師としても出来れば避けたい場面なのではないかと思う。
つづく・・・


[Web Log] / 02/12 15:31

突然やってきた母の入院騒ぎ。
ことの始まり?は「入れ歯の調子が悪い」と言い出したことだった。
以前入れ歯を作った医院はイマイチだったそうで、今回行ったのは総合病院の歯科。
根っこの抜歯があるため「血圧の数値と心臓に異常がないか」を問われた。
病院嫌いの母は(高齢なのに〜)検診をサボっていたので、歯科医のW先生から「万が一何かあってはいけないので、検診に行って下さい」と言われる。

正常だというデータを示さなければ治療してもらえない。
母がしぶしぶ近所の病院へ検診に行ったのは月曜日。
翌日に病院から呼び出しがあり【緊急】と書かれた結果用紙を渡され「すぐに大きな病院へ行くように」と言われたという。紙を見ると「貧血」と書いてある。
「こっちが年寄りだと思って、大きな声で‘早く病院へ行って! このままじゃ死んじゃうよ’って言うんだよ。この年になって、死なんて言われたらびっくりするよ。あの先生嫌だ」と怒っている。
近所でも評判の良い先生が変な対応をするだろうか?
ズバリ言わなければならない程の状態…。
これは早くしなければと「貧血なら鉄分の補給をすればいいんだから総合病院へ行こう。」と、母をなだめて歯科にかかっている総合病院へ連れて行った。

内科へ診察に行くと、家族の方は?と呼ばれた。
最初はこちらも暢気で、先生は友人のK君に似ているな〜と思った。弟だと言ってもおかしくないくらい。

…なんて思ったのもつかの間、医師の口から出たのは即入院。
非常に危険なので、今から医師の管理下に置くのがベストだという。
検査してみないとわからないが、最悪の病気の可能性を告げられ母も私も動転。
母は「もしその病気なら治療はして欲しくない。この年でつらい治療は嫌だ。治療しないで死んでもいい」と言う。
本人は今すぐには入院を決心出来ないという。

一旦待合室に出て、再度私だけ診察室で医師と話をする。
至急残りの家族に連絡をとって下さいと言われる。
本人は非常にショックを受けています、というと、昔は病名を本人には告げないのが一般だったが、今は患者の状態をみて告げるのだという。
「お母さんは意識もしっかりしてらっしゃいましたから。
今は患者さんご本人に治療を受けるか受けないか、今後の人生をどう過ごすか決めてもらうんです。
検査しないと分かりませんが…。五分五分です。」
K君似の先生は、先に母に可能性として…と病名を告げた時には厳しくこわばった顔つきでいたが、この時は優しいむしろ家族である私を思いやる表情だった。
仕事とはいえ、可能性とはいえ、重い病名を告げる時というのは緊張する場面なのだろうと、医師の仕事の大変さを感じた。
つづく…




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